

No.21ベストアンサー
- 回答日時:
うーむ。
、深い。利己と利他にまたがった愛の本質とは何か?
素晴らしい問いかけですね。愛という言葉が胡散臭く使われることもしばしばある中で、ニャンポコさんのそれは大変真摯に感じられます。
(少しつらつらと書きます。)
私にあるのは、親愛、友愛、恋愛、、、慈愛は、、、心の中にはあるのでしょうが、それを表出し行為すると言うことはほとんど出来ないですね。
愛の本質、、これはなんでしょう?
まじで深くて難しいな。。
今僕が考えて分かるものなのかさえ分からないw
愛の完成形と言うもの想起することで、その本質にアプローチすると言うのはどうでしょう。素晴らしい愛はよく自然に喩えられます。お日様のような、とか、慈雨とか。誰彼と分け隔てなくと言うのが一つの特徴ですが、、、それは愛の本質を語る上ではむしろ偏っているのかも知れない。何故なら、菩薩仏、神と言われる存在の持つ愛がその様に分け隔てないものだとも思われ、それに対する四悪趣にある愛は偏ってる、と言うことは、自分中心の四悪趣の方から見れば菩薩仏の方が偏っているわけであります。
だから愛の完成形というよりは、"純粋な愛"とは何かを、考えたら良いのかも知れない。悪趣から仏類の間を跨ぐ愛の本質がわかるかも知れない。
"大切に思うこと"。ここら辺から思索の純度と深さを高めて行きたい感じですね。悪趣であろうが仏類であろうが、愛の対象を大切に思っていることには違いがないですから。
苦楽を共にしたい、たとえ離れていても、みたいな気持ちもあるかも知れません。心は一つだと言う念いもあるかも知れない。ここら辺は日本の伝統的な家族愛、同朋愛の様相な気がします。
「愛とは一つにしようとする力、意志」なのか?
ここら辺で一先ず回答を投稿します。
>「愛とは一つにしようとする力、意志」なのか?
私と似たような発想をしていると思います。
ということは、「鋭い」ということになります(笑)。
おそらく、この方向性に答えがあるのではないかと。
男女の愛、家族の愛、愛社精神、愛国心、等々、すべてある意味一体化しようとする意志に思えます。
この「愛」という人間の持つ(動物も持っているでしょう)本能的な「意思」
(ですよね、やはり)が家族・一族・会社・国家・あらゆる集団の成立・維持の最大の原動力であったと言えると思います。
何故一体化しようとするかといえば、集団というものは自身がよりよく安全により豊かに生きてゆくために不可欠のものだからであり、当然大切なものであるからです。
ところが近頃では、「愛」などという面倒なものは不要であり、経済的利益などの利己的な利益を原動力の代わりにできるであろうという考え方が多くなっていると思います。
名越氏によれば、それは未熟な利己的な愛であり、代替品にはなりえないという結論になりましょうが、このあたりのことを考え合わせてみると、さらに見えてくるかなと思います。

No.25
- 回答日時:
歓喜の源。
私ははじめ、ピンと来ませんでした。
それで考えてみたのです。
ニャンポコさんはそこに何か素晴らしい、原動力になる何かを想定され、それを歓喜と仰ったのだろうと。
次に、そのイメージはどの様なものだろうかと想像するに、光輝と言えるものかもしれないと思い至りました。
そして、ニャンポコさんの事だから、おそらくこの光輝は生命なのだと言うのではないか?
その様に解釈した次第です。
「生命」という言葉では、ありきたりで新しいイメージが出てこないであろうと思ったのです。
生命の本質自体が歓喜に満ちたものではないかということです。その歓喜が悪い心(煩悩など)で隠され、曇っているのが、恋愛したり、何か目標を持ったりしたときに、噴き出してくる…それを、愛だの情熱だのと呼ぶ。
そんなイメージです。

No.24
- 回答日時:
友情や信念は燃えるものに通じますね^^
その信念の背景にはやはり、何かがあると思います。
それを探し求めるのが哲学でもあると思いますね。
それの名を問うなら、なんでしょう?
https://youtu.be/iU5av55T2Yk
「歓喜の源」(仮称)
もっといい言葉があるでしょうが…
人間の心の奥底にこれがあって、これに近づくほどに心が
歓び、燃えるのだと思います。
第九がそれを表現しようとしているのだ、と。
ベートーベンは偉大な芸術家です。

No.23
- 回答日時:
すみません、ニャンポコさん、話の流れをポーンと飛んで路線が全く変わってしまうんですが、見てもらいたい動画があります。
名越康文さんが、ビル・ゲイツとウォーレン・バフェットが交わした約束について語った小話です。僕はこの話を聴いて、納得したというか、尤もだと思ったのです。
生き方の話です。
私は、ウォーレン・バフェットもビル・ゲイツもあまり興味はなかったです。
それは、正確な情報をもとに判断したものでは勿論なかったですけど。
有名人の判断って難しいですよね。話に主観が入ったり、尾ひれがついたりして、美化されたり逆だったり。
ただ、思ったことは、この二人はただの成金ではなく、信念を強く持っている。信念を持った人ほど「友情」を大切にすると思うのです、孤独を強く感じているし、人間の信念をかけがえのない美しいものと感じていると思うからです。
自分を分かってくれる人、価値観・目的観が一致している人に強い友情を感じるものです。その価値観・目的観に自信を持っているほどに、つまり、信念が強いほどに、その友情は研ぎ澄まされて、一緒に死んでも構わない、くらいな
心情になると思う。だから、財産の半分くらい、どうってことないわけでしょう。
劉備玄徳・関羽・張飛の三人も、主従関係ではあるけれど、ベースは友情でしょう。そういう友情はいいですよね、憧れます。

No.22
- 回答日時:
愛ゆえに生まれ
出会い そして
愛を生じる
再び出会う時に
生きる意味と
存在したことの意味と
永遠であることの意味を
知るに違いない
何か重要なことを、僕は理解しつつある。。
。。。。。。
鋭いのくだり、その通りでございます^_^
さて、一つになろうとする力、意志という事でしたが、ニャンポコさんはそれを家族や国家、社会などに拡大されました。僕はさらに拡大させようと思います。ニャンポコさんも喜ぶと思います^_^
この宇宙の諸物諸相は時間が下るに従って複雑化して行っています。多様化、個性化して行っている存在世界ですが、その方向だけだとこの世は散り散りになってしまう。そこに、一つになろうとする力、意志が働いたとするならどうなるか?
現状のような宇宙像となるのではないだろうか?
この意味で、愛はharuさんも言う存在性であります。散り散り、つまり、個立化して行く方向に対し、纏まる力、全一になろうとする力が現存している。この仕組みは何故あるのか?
それは実に愛ゆえなのであります。
愛とは求める力。
何を求めるのか? 他を求めるのであります。
他とは何か?
存在であります。
他を求めるゆえに自主が生まれ、他と出会った時に存在することの意味が確定する。
ゆえに他を軽んじては自主が存在することの意味を逸してしまう。
愛は他を軽んじない。個立たる自主が愛を持つゆえに、冒頭の詩が始まるのです。
今回はいつもとだいぶ、質的に異なる回答ですが、どうぞお納めください^_^
>何か重要なことを、僕は理解しつつある
キサラギさんの興奮というか歓びが伝わってくるようです。二乗の歓びというものは、天界よりも深いものです。
まさに私も、名越氏の言葉をきっかけとして、私の認識の世界の中に太い動脈が一本出来上がった思いです。
「成住壊空」の中の「壊」がエントロピーの増大ということであり、「成」つまり、生命の誕生(微生物から人間、星、銀河宇宙にいたるまで)宇宙に遍満する元素等が一つになろうとする不可思議な現象であると言えます。
例えば、人間を構成する一つ一つの元素、細胞などに精神・自意識があったなら、彼らは他の元素、細胞を愛し、大切にし、お互いに生かし合おうという心に満ちているはずだと思います。
そうでなければ、人体を維持してゆく奇跡的働きをすることはできないでしょう。これは、人間社会も同じ原理に貫かれていると考えられます。
こう思索を進めてゆくと「愛」というものは、宇宙の中の根源的な働きの一つである実存の、ほんの一つの顔に過ぎないのではないかと。
その全体像を想像したときにもはや「愛」という言葉は不適切なのではないかと思いました。

No.20
- 回答日時:
欧米人の考える理性とは、人間性に近いニュアンスを持つようです。
だから彼らは、人間である証左として理性の有無を言う事がある。一方、日本人の考える理性とは、怜悧なもの、人間性というよりもむしろ、場合によっては冷たいともとられかねないものとしてのイメージがあります。僕はこの違いは大変大きいなと、この度intergrityを考える上で思ったんですね。訳語は正しいのであるけれど、洋の東西で内容が違っていると。先ずこれが一つ。(日本では人間性のことは、心とか、やさしさ、と言う表現になると思う。これを英語にすると、warmheartednessと言う、なんとも言いにくい合成語になってしまう。これはダライ・ラマが西洋に仏の心を紹介するときに使った言葉としても有名です。その意味で、西洋と日本(極東)の精神性は、むしろ互いに出会うために存在したのではないかとさえ思えるほど、面白い振れ方で相違を示しているのであります。日本では心と理性は対置するものですが、洋の東西の精神を勘案した場合、この二つは、一つのものに対する二方向の見方なのであると気がつきます。)
次に本音と建て前なんですが、日本社会はまさしく建前社会だと思います。役割分担の社会であり、仕事は能力で行うよりも立場によって行われます。
だから本来ならば責任の所在と言うものが全く明らかであり、言い逃れできないために責任感の強い日本人像があったはずなんですよ。でも、例えば東電の原発事故の時、誰か責任取りましたかね?僕の印象ではうやむやにされたと思ってます。江戸時代なら何人かがそれこそ腹切ってましたよ。現代社会の悪いところは、そういった責任を取るべき人が身柄を明かさず、言い訳を募って逃げるところです。一言で言えば狡いんですな。ある立場の人が頭を下げて禿げを見せればそれで済んでしまう、社会がそれで許してしまうのが悪いところだと思います。怒りと決意が足りてない。身を切る想いで、責任を取らせないといけない。そうしないと、事故や不祥事が起こりにくい社会や組織の仕組みを作る動機と推進力が生まれない。
この意味で、荒くれ者ではない方の武士が持っていた責任感とはえらい違いと思います。
>日本人の考える理性とは、怜悧なもの、人間性というよりもむしろ、場合によっては冷たいともとられかねないものとしてのイメージがあります
なるほど。その通りだと思います。どうしてそうなのかということを私なりに考えますと、欧米の理性というものを日本人が輸入した時に、人間性というものを削除して冷たい=カッコいいものとしてしまったのではないかと。
例えば、こ洒落たバーで白人の男女が話していることは、お洒落で洗練されているものと思い込んでしまうようなもので、実は結構人間臭い話だったりする。そういうシンプルな勘違いからそうなったとも考えられます。
ところが、近頃では、西洋も人間性を失ってきているように見えます。これは
日本の冷たさを逆輸入してしまっているのではないかと、ひょっとしたらそうなのではないかと心配しています。
現代はリーダーたちが責任を取らんですね。所詮は雇われ社長ですから。そのポストに就くことが目的で子供のころから人より抜きんでることを考えてきた人たちですから、責任を取れと言っても、私は「不可能」だと思います。
しかし、よきリーダーは必要ですよね。必然的に教育、その背骨としての文化の変革がなければならないということになるでしょう。

No.19
- 回答日時:
腹を切るのは確かに責任を取ると言う意味ではこれ以上ない覚悟の示しだとは思いますが、潔さかなと言うと、、私は考え込みます。
潔さとは何かについてもお話しするのは楽しそうですね^^一先ずこれは置いておきましょう。intergrityは普通の英単語です。新しい造語ではないです。企業家の道徳とか、そういう文脈で使われることも多い単語です。
僕の中国人の友達が、日本社会に適応できなくて日本社会をよく批判するんですよ。彼の言い分は日本人は心が狭いと言う事なんです。息苦しすぎると。ブラック企業が横行し、不誠実な仕事態度が横行し、来日前に想像していたアニメの世界のような日本像との大きな乖離が埋められないようです。
日本はシビアな社会ですからね。それに加えて自分を責めやすい国民気質と社会の空気についても苦しく思うらしいです。事実日本では自殺者が多い。
どうして日本人が約束の時間を寸分たがえずに行動するのかとか、そこら辺も奇異に映るようです。職人の世界で言うような、分かるまでやれとか、そういうセリフも困惑するようです。先ず理由を教えてくれと、思うようです。
>冷静な批判・批評というものを見極め、それを認めなければいけません。キサラギさんあたりは、それができる見識がある人だと思っています。
全くその通りです。ありがとうございます。
日本が特異な文化圏であると言うのは事実のようで、それを理解できる外国人と、拒否反応を示す外国人がいるようです。日本が好きになり移住して、日本人になり、日本の名前を名乗るようになる方も居れば、日本が好きなんだけど、やっぱりどうしても無理なところがあって、あきらめる人も居る。いやいや、日本は最悪だと言う人も居る。
つい先日見つけた興味深い方がいるので紹介します。
名越康文さんという方です。精神科医で、独特の分析眼と共感力を持っている人のようです。
この動画では、バッシングは、実は愛からくると言っています。それも、稚拙な愛からくると言ってますね。ニャンポコさんがこの見解をどう受け取られるかに興味があります。日本の世相で、匿名者が集団で誰かをバッシングする風潮に深刻な懸念を示しておられたので。
文化の違う人たちと交流することは刺激的ですね。その刺激を嫌がる日本人は多いですが、これも「変わらない日本」の原因の一つかと。
男と女は違う。だから魅力を感じるのですが、それすらも嫌がっています、現代人は。こりゃまずいっすよね。
名越康文さん、15年前だったか20年前くらいだったか、よくテレビで見ましたが、「いいこと言っているなあ」と思っていました。ファンですね。それが、年輪を重ね、さらに深い域に達したな、という印象ですね。
「愛」というものをよく理解していないという自覚はありましたが、この動画を見て、やっぱりそうだったということを確信しました。
恋愛しているときのことを思い出してみると、「一緒にいたい」「溶け合いたい」と思いました(ピークの時)。でも、独占したいとか、思い通りにしたい、なんていう心がなかったわけではないと思う。今になってみれば、相手が幸せになることをもっと考えてあげればよかった、などと思います。
これら全部が愛なんでしょう。それが、こちらの心の状態によって様々に変化していくものなのだろうと思います。
名越さんは「知りたい」と言いましたが、これは十界論で言えば二乗(声聞・縁覚)の心が主たるものであるからそう思ったのではないかと。彼は学者ですから。私は「知りたい」という心はあまり強くなくて、「一緒にいたい」とか
「同じ方向を見ていたい」という思いが強いです。
また、名越さんはより深い愛ということを言っていましたが、これは菩薩・仏のことで、稚拙な愛は四悪趣の心の時の愛なのではないかと思いました。
そうすると、この利己と利他にまたがった「愛」というものの本質は何なのでしょうね。

No.18
- 回答日時:
すみません、少しだけ連投します。
お礼はいつでも^^理性と言うのは英語ではreasonと言うそうです。そして、reasonsとは、理由、訳です。これらから理性的と言うのは、見識が高いとか計算高いと言う意味ではなく、理由を明らかに見る能力と言う事になります。
満員電車で妊婦を見かけたら、席を譲ろうと声をかけるのは、理由が明らかであって議論の余地はありません。自明のことです。(他に席を譲れない、譲って欲しくないその場の理由があるなら、それもまた理性の判じる所であり明らかな事であります。)
この自明、当たり前のことが、現代日本ではどうも難しいことになっているのではないか?
それで、理性が欠如しているなどと言われることになるのではないかと思うのです。
ニャンポコさんの見る噴出している日本人の悪いところについてもお話聞きたいですね。
仰るような自明のことが自明でない、何故か?と理由を問うてもはっきりしない。
こういうことが若いころからたくさんありましたし、随分イライラしたものです。酒飲んでケンカしたこともあります。
で、それはいったいどういうことなのかと考えてみますに、日本人は欧米人に比べ随分理性(合理性)というものを重要視していないということが言えると思います。つまり、哲学がちょっと違う、ということでもあるでしょう。
理詰めでの結論に対し、行動が一致しない。その理由の一つが「もっと深い結論がありそうだ」ということと、目的が自分の利益であって、それを隠しているということ。
前者のことについて付言すれば、かつて日本で栄えた仏教文化の影響が根強く残っているということが原因であると思います。仏教哲学というのは重層的であるし、二重性があると思います。
後者のことについて付言すれば、「本音と建て前」「清濁併せ呑む」の言葉に表れているように、本音を隠して建前を使うということです。
これは、人間の保守化・保身化つまり老化であると思います。欧米に比べ日本は若干これが強いと思います、経験上。
また、現代の日本人は、本音を隠して建前を使うという特質は変わらないものの、その理由を口に出して言うようになったと思います。無理があるので理路がおかしいことが多いと思う。
その分議論が多く、複雑になり、また、若い人は議論自体を好まないので、「理」の通りづらい世の中になっているという点が、噴出している欠点の一つであると思います。

No.17
- 回答日時:
いやー、侍なんて泥臭い奴らは潔さとは対極だと思いますよ。
僕が思い浮かべる侍は戦国武者のイメージですね。>海外の特に知的レベルの高い人たちは日本人のことを文化レベルが低いと言います。日本人はそれを知りもしないし、知ったら、顔を真っ赤にしてカンカンに怒り、認めないでしょう。それが日本人です、残念ながら。
僕はこういう見方があるのは知ってるんだけど、その様には見ないんですよね。と言うのも、やさしさと言うのは知性や文化文明のレベルと関係が無いからです。
西洋の左のインテリはそう言うんですよ、日本人を下に見がちなんですよね。日本人は冷たい、モラルが無い、その上変態だっつってwね。でも、僕は思うんですよ。お前らそんなに大したもんかよって。大戦争、奴隷制、人種差別、搾取、自然破壊の先駆者やんけ。ってね。確かに西洋人は科学のパイオニアではあるが、僕はそういった西洋人の誇りには懐疑的なんですよ。同じ人間だろって、お前らが言ってることだろ?えらそーに矛盾したこと言うんじゃねぇよって思いますね。
彼らは確かに頭はキレますが、普通ですよ。日本人一般に比べて威張れるような人間じゃない。人格者でも人徳者でもないですよ。普通に喜怒哀楽の人間です。彼ら個人が嫌いなわけではないが、彼らのそう言う自分達の未成熟を差し置いて思想的にさも自分たちは正しいことを言ってると言う体で日本人をこき下ろすところが大嫌いですね。顔は赤くしませんが、僕は言いたい。言ってしもた後やけど。
でintergrityってのは、”自由な理性”ってのが肝らしいです。まぁ、それが良いものであるってのは認めますよ。でもそれに相当する精神性、或いは代わりになる精神もそれを指し示す言葉も日本には無い、文化レベルが低い、西洋の劣化コピー、民主主義社会の失敗作、みたいな言い方は受け入れられないですね。西洋人はその戦闘力と経済力でもって自分たちの文化文明を世界に広げられたから、矛盾少なく現代世界に適応してるだけですよ。日本みたいな個性のある文化圏では、そんな西洋文化文明を如何に取り入れ消化するかに労力割いてる。そんな非西洋圏の苦労にも思い至らずにガタガタ言うんじゃねぇって思います。
でも、事実として、いじめの話とか、不正の話とか、世相を見て、日本人らしくないなとは思うんですよね。日本人てなんやねん?て話になってくる。
まぁ、潔しを思う割には清濁併せ呑むなんて言い回しもあるし、世俗ではそう言うもんなのかもしれないですけどね。構造的には、政治思想の意味では無くて、社会主義的なのは事実ですが、それは悪いわけではないしね。そういうスタイルなのであって。ここら辺は社会理解と言う事の課題が大きく横たわってますね。
>それでも日本人らしい倫理観を大事にしてきた民族でもあると思うのです、私も。それが、古いものを粗悪なものとして排除するという考え方が強くなって、実際に排除されてきているので、日本人の悪いところが一気に噴き出していると私は見ています。
ここら辺ですよね。例えば満員電車で誰も妊婦に席を譲らない日本とか、そんな風に言われるんですよ。確かにそういう光景はよくある。僕は普通に席を立って声をかけるけれど、そういう人は多くない。なんでみんなそんなに疲れてるねん、ってことなんですね。情緒は生きてる。理性は生きてない。こんな風に見えるらしいですよ、西洋人の左のインテリからすれば。大和撫子?凛とした女性とか、男はなんて言うのか知らないけど、キリっとした男前とかは、滅多に見ないですね。
サムライは腹を切って責任を取ったのだから、潔さの究極だと思いますよ。また、その哲学性が面白いと思います。外国の人にはわからんでしょう。日本人である私にもわかるようなわからんようなですから。
日本人を悪く言う人は欧米人だけではないです。アジアでも中南米でも、世界中です。勿論、親日派もいますけど、世界中に。
偉人・賢人から見れば、仰るように目くそ鼻くその世界ですが、本来批判とか批評というものは「必要」なものであると考えています。叩かれれば人間は強くなるものだということです。
アメリカとか中国の大学では、提出される論文の数が日本に比べかなり多く、
そして、叩かれに叩かれるそうです。
日本の場合はそうでもなく、学問の世界以外でも、批判・批評ということをあまりしない、寧ろそれが悪であるという認識さえあると思います。
褒め合ったり、なあなあになったりすることが多い、と。それが日本が「変わらない国」である原因の最たるものであると思います。
いい時はそれでもいいのですが、悪くなってくるといけません。
intergrity とは新しい言葉、造語なんでしょうか?
「自由な理性」ですか、なるほど。それが、日本人に欠けているというのは私も認めるところですが、そんなにボロクソに言われる筋合いはありませんね。
まあ、人の悪口を言うことが楽しくて仕方がないという人はいますから気にせず、また、東日本大震災で褒められたからと言ってそれに縋らず、冷静にゆきましょう。
冷静な批判・批評というものを見極め、それを認めなければいけません。キサラギさんあたりは、それができる見識がある人だと思っています。
>満員電車で誰も妊婦に席を譲らない日本
そうなの?昔は言うのが恥ずかしい、近頃は「めんどうくせえ」というのはあるとは思いますが、これは悪意の批評でしょうね。

No.16
- 回答日時:
いや、ツイッターでintergrityについて少しやり取りがあったんですが、うまい日本語訳が無いって言うんで色々考えたんですよ。
自然法とか、浄徳とか。でも、潔さってのが僕的にはヒットしたんで、潔さ、高潔さってのが、intergrityかなと。今は思ってるんです。検証中なんだけど。で、日本のこの空気で空笑いをしてしまう感じのところに、人々、一人一人が持つべき潔さが表立って見られなくなったんじゃないかなと。まぁでも、潔さなんて元々表立つものではないんだけれど。
潔さといえばサムライですが、サムライの文化ってある意味特殊というか、
歪んでいるとも思えるんです。
「やあやあ、我こそは〇〇なり~」なんて名乗りを上げて戦うなんて変ですし、「歌舞伎の見え」なんてのもサムライの文化の表現だと思うのですが、
考えると変ですよねw
我々はサムライ文化を美化しすぎているのかも知れません。
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年末につき返答がモタつくかもしれませんが、ご了承のほど。
>宇宙の中の根源的な働きの一つである実存の、ほんの一つの顔に過ぎないのではないかと
なんか変な文章ですね。
「宇宙の究極の実在の、働きの一つではないかと」としてください。