ここから質問投稿すると、最大4000ポイント当たる!!!! >>

様々な歴史書で紹介されていますが、アメリカの南北戦争は、黒人奴隷制に対する南北間の主張の対立が原因だったと聞きます。

つまりプランテーション農業に要する奴隷の固定化を主張する南部と、工業化が進み労働力の流動化が求められる北部という対立ですね。

子供の頃に読んだ偉人伝で、リンカーン大統領は黒人奴隷を解放しようとして南部に戦いを挑み、その結果勝利し、黒人開放へと歴史は進んだと教えられました。

でもハッキリ言って、当時小さいながらもアメリカ白人が黒人奴隷を解放するために、なぜ戦ったのか不思議に感じていました。  普通考えるとあり得ないですよね。  あまりにもキレイゴトすぎるというか ・・・ もし自分が北部の白人兵士だったら、黒人奴隷を開放するために戦場に行って南部の白人と戦えますか?

結局は62万人もの犠牲を出して戦争は終結したのですが、朝鮮半島のように同胞どうしが国内で戦う悲惨な歴史をアメリカはもっているわけですよね。

そこでお聞きしたいのですが、有体にいってアメリカの南北戦争とは結局は 「黒人奴隷による安価な労働力」 を南北で取り合ったというのが正しい考え方でしょうか?

もしそうなら、リンカーン大統領はなぜ偉人というか歴史に残る大統領として今でも語り継がれるのでしょうか?

仮に 「たしかに労働力の取り合いだったとしても、結果的に奴隷制の廃止、またその後、黒人奴隷の人権も認められるキッカケになったじゃないか」 という意見があったとしても、実際にアメリカで黒人が白人同様の人権を認められるのに南北戦争後、約100年以上もの時間を要しているわけすよね?

つまり奴隷解放、人権回復というのは南北戦争がなくても20世紀に入ってからの時代の趨勢で実現されていたというか ・・・

それとなぜ英語では南北戦争ではなく、Civil War (市民戦争?) と表現されるのでしょうか?

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (3件)

南北戦争の原因は諸説いろいろありますが、非常に単純化すれば、北部の新興工業地域と南部の大規模農業地域の対立ということです。



アメリカの農業は既に工業化が発達しているイギリスへ原料となる綿等の原料農産物供給をすることにより発達しました。
南北戦争以前から南部ではイギリスへの輸出のための綿花栽培のプランテーションが大規模に行われていました。南部の大規模農業は奴隷制に支えられ、非常に生産性が高く、安価な農産物を大量に生産できました。競争力ある南部の農業は自由に輸出したいですから自由貿易を望みます。
ところが新興工業地域の北部にとっては、まだ生産性が低い自国製品では進んだ英国製工業製品に太刀打ちでがきません。
イギリスからの輸入品との競争に弱い北部工業地域は、保護貿易を主張します。
南北戦争とはこのような国内産業のあり方、対外政策のあり方をめぐっての戦争だったわけです。
だから南北戦争では北部は南部に打撃を与えるための戦術として奴隷解放を主張したと思われます。(現に「勝つためなら奴隷のことなんてどうでもいい」というような発言も残っています。)

そして北軍の勝利となり、国内産業保護的な政策をとることができるようになり、これを背景としてアメリカ国内における工業が飛躍的に発展するわけです。
これがいわばアメリカ版産業革命です。

Civi lWarと呼ばれるのは多分対外戦争ではないからでしょう。

リンカーンが語り継がれるのは別に奴隷解放を主張したからではなく「人民の、人民による、人民のための政府」という演説が有名になったためでしょう。
日本でのリンカーン人気は、有色人種差別に苦しんだ明治の頃の日本人が、「奴隷解放宣言」を真に受けて広く紹介したためと思われます。
    • good
    • 8
この回答へのお礼

とても詳しくご解説いただき、有難うございました。 根本的には貿易政策の違いによる南北間の対立だったようですね。 奴隷解放なんて二の次、まずは自分たちの産業育成のために戦う、というのが真実だったように感じました。

考えれば、当時のイギリスは南北戦争中のアメリカを一体どのような目で見ていたのか、興味深いものがあります。

対外戦争でなかったために、Civil War、なるほどそうかも知れませんね。

また、たしかにリンカーン大統領は米国民にとって最も偉大な大統領のひとりと思いますが、日本での紹介のされ方が奴隷解放ばかりが強調されすぎて、あまりにもキレイ事のような印象を受けたものです。

やはり真実を見据えたうえで、正しく評価したいものですね。

お礼日時:2005/02/10 10:39

他の方も言われている通り、自由貿易vs保護貿易の対立が主な争点と考えるのが一番自然だと思います。


農業国or工業国の選択と言ってもいいと思います。
もし南部が勝てば(おそらく南部主導の統一というのは考えられないので2つの国ができるということになるのでしょうが)、南部は19世紀~20世紀のアルゼンチン・ブラジルのような感じで、豊かな農業国として発展したのではないでしょうか。

とはいっても貿易政策の対立だけで、あれほどすさまじい戦争になるというのも考えづらいので、いろいろとつもりつもった対立が一気に吹き出したってことなんでしょうか。
奴隷解放が大きな争点であったことも確かだと思います。
    • good
    • 5
この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。 仰るように戦争の原因はひとつだけという事はないようですね。 貿易政策の対立、奴隷労働力の確保、あるいは南北間の地域格差や、もしかするとイギリス系やフランス系といった民族対立も複合的に絡まったのかも知れませんね。

お礼日時:2005/02/10 10:48

南北戦争は黒人奴隷の取り合いと見られる一面もあるといえますが、それも含む原因で、南部独立の動きを阻止するための戦争でした。


南部は当時の社会では集約農業牧畜国で自給自足が可能でどちらかといえばフランス系でその点でも独立志向が濃厚でした。
こに反し北部は鉱工業が盛んで原料食料を南部に依存していましたしイギリス系でした。
このような対立原因が複雑にからみ南部の分離独立は国家の存立を脅かす事になつたのです。
単なる黒人奴隷の取り合いではありません。
Civil Warとよばれるのは結果的に内戦であるからです。
リンカーンが事実上合衆国の統一を達成完成した大統領とみられるので尊敬されているのです。
    • good
    • 7
この回答へのお礼

ご回答、有難うございました。 南部に独立の運動があったと聞いた事があります。 もし南北戦争に南部が勝利していれば、今頃は大農業国となっていたか、あるいは南北で別々の国家になっていたかも知れないなあ、と感じました。

お礼日時:2005/02/10 10:43

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Q南北戦争の意味

南北戦争の意味

南北戦争って北部(保護貿易、奴隷解放)と南部(自由貿易、奴隷解放反対)の戦いなんですよね。
結局北部が勝ったわけですけど、莫大な数の犠牲者が出た他、黒人奴隷に対する偏見や差別はしばらく続いたようですし、南部なんか奴隷制が続いてただけじゃなく、KKKなんて団体も出てきちゃって、結局何のための戦争だったのかよくわかりません。
第一、暴力や武力なんかで統一させようって考え方からしておかしいと思います。
しかし、現地の人たちの中には南北戦争があったおかげで今の自分たちがあると言っている人もいるようです。

一見すると南北戦争がなくても話し合ったり何らかの機会があればいずれ奴隷も解放されて多くの犠牲者を出さなくてもすんだと思うんです。

もし南北戦争がアメリカにとって必要な出来事だとしたら、その理由は何なのでしょうか?

Aベストアンサー

こんにちは、

夫は南部出身のアメリカ人で先祖が南北戦争で(負けたんですけど)戦ったことを誇りにしています。ジョンウェインやクリントイーストウッドの映画を見ると胸がいっぱいになるのと同じですね。

アメリカ人は独立戦争と南北戦争については国の基盤を築いた戦争であると強く認知しています。

貴方が”暴力や武力で統一させようって考え方からしておかしい”と思うのは、日本が独立戦争を経ずに国体を維持できたからです。

独立戦争の後、アメリカは憲法を発布してひとつの国として歩き出しますが、それぞれの州が自治権を持っていて、いかにも統一が取れていない。

現実的にあそこで北部アメリカと南部アメリカに分割される大きな危険をはらんでいました。実際に南部の州はワシントンからあれこれ指図を受けるのは真っ平ごめんでした。私は奴隷問題は二の次だったと思っています。この辺はご自分でお調べになってみてください。

例えば九州で反乱が起きたときに古代日本の帝王はやはり軍勢を送って乱を鎮めていますよね。。。。磐井の乱でしたか。それと同じことです。話し合いでかたをつけようとすると、今の日本の政治みたいになりますよ。

南北戦争の後、アメリカの国としての統一が固まりました。

ワシントンDCにいらっしゃる機会があったら是非リンカーンモニュメントにいらしてみてください。彼がいかにアメリカ人から尊敬を受けているか一目でわかります。

こんにちは、

夫は南部出身のアメリカ人で先祖が南北戦争で(負けたんですけど)戦ったことを誇りにしています。ジョンウェインやクリントイーストウッドの映画を見ると胸がいっぱいになるのと同じですね。

アメリカ人は独立戦争と南北戦争については国の基盤を築いた戦争であると強く認知しています。

貴方が”暴力や武力で統一させようって考え方からしておかしい”と思うのは、日本が独立戦争を経ずに国体を維持できたからです。

独立戦争の後、アメリカは憲法を発布してひとつの国として歩き出しますが、そ...続きを読む

Q南北戦争、なぜ北部は奴隷制を嫌がった?

タイトルの通りの質問内容なのですが。。。
Wikipediaで南北戦争を調べてみたところ

それに比べ、北部では米英戦争(1812~14年)による英国工業製品の途絶でかえって急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし奴隷制とは相容れられなかった。また、欧州製の工業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められていた

とありました。わからないのが、
・流動的労働力と奴隷制はなぜ相成れないのか?
(というかそもそも流動的労働力の定義は何か?)
・工業産業はその流動的労働力というものを要するのか?
の2点です。
一方で南部の綿花栽培が奴隷制を必要としていたのはなんとなくイメージできます。

さらにもう1つ疑問があるのですが、リンカーンなど北部の政治家が
奴隷制に反対していたのは主に人道的理由からでしょうか?
それとも↑のような、経済的な理由が主なのでしょうか?

よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

流動的労働力とは、自由意志で移動できる労働力。南部の黒人奴隷は所有者の農地に固定されていましたので、奴隷制を廃止したら多くの黒人が北部へ移動し、北部の労働力不足が解消されると期待されました。
もちろん、そうなると南部の農場は人手不足になります。

南北戦争継続のため、黒人奴隷を解放して正規軍に入れようとする動きは、南部(連邦)側が先でした。南部で実現できたかは疑問ですが、その情報を得たリンカーンが先手を打ったものです。個人的な心情とは関係なく、軍事的・政治的理由です。

Qアメリカの奴隷制度の実態について

アメリカの奴隷制度の実態はどのようなものだったのか教えて下さい。

僕は歴史に全然詳しくないので、これは素人の質問であることをご了承ください。


アメリカで奴隷制度が廃止される前の黒人の生活実態はどのようなものだったのですか?

例えば奴隷制度といっても、実際には働いた分賃金をやり取りする雇用形態の形をとっていたのですか? それから黒人の労働市場は誰がどんな形で取り仕切っていたのですか?

それからもう1つ疑問なのが、現代日本の感覚で「奴隷」と言うと、完全に人権のない家畜のような扱いを受ける存在という意味で使われたりしますけど、本当にそんな扱いを受けていたのですか?

「風と共に去りぬ」とかを読むと、確かに当時は白人と黒人の身分が違う社会だということは明確に分かりますけど、案外、白人と対等に生活している黒人もいたりして、少なくとも今の日本人がイメージする「奴隷」というのとは大分違うのかなあと疑問を感じました。

Aベストアンサー

アメリカの奴隷制度を語るためには、古代からつづく地中海世界の奴隷制度を確認しておく必要があります。

紀元前の時代から「奴隷制度」というのはありふれた制度であったといえます。奴隷の多くは、アテネなどの都市国家から離れたアフリカ大陸や未開なゲルマン民族やスラブ民族であったものの、都市国家間で戦争がおき、負けたほうの市民が奴隷として売られることも多くありました。
また海賊などが船を襲ったときに、人質となった人々のうち金持ちは地元から身代金を持ってきてもらって引き換えに開放されたのですが、身代金を払えない人々は奴隷商人が買い取って、地中海から離れた中近東などに売っていたようです。

これらは1世紀ぐらいには、かなり高度に組織化されており、ローマ帝国の奴隷にはアフリカ出身の肉体労働者から、ギリシャ出身の教師の奴隷や医者の奴隷なども居たようです。また、奴隷には賃金がある程度払われており、それを元手に儲けあるいは宝くじを当てるなどして、主人にお金を払い奴隷身分から開放されたようです。
 
 またプランテーション的な農業が多かった地中海世界では、奴隷は労働力として必要だったものの、積極性は皆無だったため、馬牛などを使った場合の生産性と奴隷を使った場合の生産性について議論した同業経営書などもあったようです。

いずれにしても「奴隷」の地位は、主人の所有物であり、馬や牛などの家畜と変わらない存在でした。3世紀ぐらいの奴隷の価格は30万円前後であり、家畜を飼うほうがいいか奴隷を飼うほうがいいか、というものだったと思います。


時代が下がって中世のヨーロッパにも奴隷性が残っていました。この奴隷性の特徴はほぼ古代と変わらないのですが、供給先がアフリカとスラブ民族に変化していきます。また、当時のヨーロッパは相対的に貧しい地域でしたので、中近東などから宝飾類やスパイスなどの輸入に対して、奴隷を代金代わりに払っていたようです。
アラブ諸国では、白い肌が珍重されるために特に女性は高値で買われていたようですが、これは現代のニュースにも同じ側面が出ています。

わずかな金額で買われる少女予たち:http://japanese.ruvr.ru/2012_11_29/96332677/

アメリカ合衆国が独立すると、ほぼすぐに黒人奴隷が供給されるようなります。このときに供給したのはヨーロッパに存在する奴隷商人だったことでしょう。
アメリカは広大な土地があったため、労働力がいくらでも必要だったからです。

奴隷制度そのものもヨーロッパの制度とほぼ変わらなかったと思います。重要なのは
・奴隷は主人の所有物であること
・奴隷の子供も奴隷であること
・奴隷の生殺与奪権は主人にあること
です。

先ほど書いたように、奴隷の労働力を向上するためには多少の娯楽必要になりますので、小遣い程度の賃金を与え、日常的な楽しみは享受できた、という場合も多いようです。
しかし、アメリカ南部のなにもないプランテーションで働く奴隷には、娯楽もなにもなく掘っ立て小屋で寝起きをする暮らしの人々もいました。
 これらの処遇は、主人の資質によるところが大きく、それは古代から同じでした。

アメリカの奴隷制度を特長つけているのは、黒人法という法律でしょう。アメリカには独立当初からわずかですが自由人としての黒人がおり、また奴隷から解放された黒人もわずかながら増えていきました。
 ヨーロッパでは(実際に差別がなかったとはいえませんが)、肌の色で差別する法律は無かったのですが、アメリカには黒人法(black code)が制定されていました。

この法律が制定されたのは、皮肉なことに奴隷解放を是非とした南北戦争の後のことであり、憲法で奴隷制を廃止したのにも関わらず、黒人法で差別することになっていったのです。

つまり、私たちの知っている奴隷制というは、南北戦争までの「主人が所有する」という奴隷性と、戦後の黒人法による実質的な差別の二つに分かれます。

以後は黒人法による「実質的な奴隷制」の継続の根幹です。
黒人法は多岐にわたる法律の総称なのですが、その内容は
・選挙権の実質的な剥奪 投票税などで黒人の投票権を縛った
・異人種間の通婚の禁止 白人と黒人が結婚することを禁止した
・教育の分離      白人と黒人は教育する場所を厳密に分離された。
・公共施設の隔離    鉄道・バス・レストランなどの場所を分離した。
・武器の所持や夜間外出の禁止
・徒弟法        黒人が労働する際に、お礼奉公を義務つけるなど、実質的な職業の自由を奪った。

これにより、黒人は白人とは違った「2級市民」の扱いをうけ、特に南部の奴隷出身者は、実質的にそのまま主人の元で働くことを余儀なくされました。
また、黒人が自立して働き、個人の権利を確立することはかなり難しかったと思います。特に教育で差別され、賃金や選挙権で差別されているのですから、実質的に奴隷と同じだったといえます。
ただし、元々自由民だった黒人も少数ながらいましたし、北部では(黒人が元々少ないが)かなり自由に生活が出来ていたといえます。

これらの黒人法は1866年(南北戦争終戦の翌年)から数年で公布され、南部11州で常態化していきます。
これが解消されるのは1964年の公民権法が施行されてから、ということになり、この法律が施行されてからまだ50年たっていないことになります。

今でも黒人差別は南部が激しく、北部は比較的穏やかです。しかし、それ以外にも黄色人種差別やヒスパニック差別などもあり、白人優位主義が消えたわけではありません。
 

アメリカの奴隷制度を語るためには、古代からつづく地中海世界の奴隷制度を確認しておく必要があります。

紀元前の時代から「奴隷制度」というのはありふれた制度であったといえます。奴隷の多くは、アテネなどの都市国家から離れたアフリカ大陸や未開なゲルマン民族やスラブ民族であったものの、都市国家間で戦争がおき、負けたほうの市民が奴隷として売られることも多くありました。
また海賊などが船を襲ったときに、人質となった人々のうち金持ちは地元から身代金を持ってきてもらって引き換えに開放されたの...続きを読む

Q白人はどうして黒人を差別するのでしょうか?

アメリカで黒人が白人に差別されたと
デモや暴動が起きているそうです。

どうして白人は黒人を差別するのでしょうか?

日本では、ボビーオロゴンやビリー隊長とか
大人気だし。野球でも黒人が大人気なのに
どうして差別されちゃうのでしょうか?

私にはどうしても分からないのでよろしくお願いします。

Aベストアンサー

 まずアメリカは国土が広大で地方分権も進んでいるので地方によって人々の考え方が大きく異なり、アメリカと一口に言っても州や地方によって差別の現状は大きく異なる事と、アメリカにおける人種差別をもって白人全ての人種差別を語る事はできない事を申しあげておきます(北部ヨーロッパやイベリア半島では人種差別差別はまた違う様相を呈しています)。
 それとビリー・ブロンクスは大学教育を経て社会的に成功している黒人で、ボビー・オロゴンはナイジェリアの富裕層の出身です。一般的に差別を受ける黒人系アメリカ人とはその立ち位置は大きく違います。
 アメリカでの黒人差別は様々な要素が複合的に絡まりあって成立しています。差別の原因となっている要素を幾つか列挙してみます。

・歴史的経緯
かつて白人は黒人をアフリカ大陸から連れ出し(多くの場合、奴隷化したのは現地のアフリカ人達なのですがややこしくなるので割愛します)奴隷として過酷な労働条件で使役してきました。これを根源的な原因として加害者だった自分達白人を黒人は憎悪しているのではないかと考え、それ故に黒人との共存や黒人の社会進出を苦々しく思う白人は常に一定数存在します。

・社会階層的経緯
多くの黒人系アメリカ人は依然として貧困層であり充分な社会進出を行えていません。白人全体における犯罪経験者の割合と黒人のそれを比べるのであれば前者が明らかに高い数値を示すでしょう。その黒人は非文化的で危険であるというイメージが一部のメディアによって増幅され、それに強く感化されてしまう白人が人種差別に走り、さらにそれがイメージに輪をかけるといった悪循環がアメリカ社会には存在します。

・文化的経緯
同じかつての黒人奴隷を導入した国でも南米などでは人種の混合が進み、人種差別などそもそもどれを差別すれば良いのか解らない程複雑になっている国もあり、これらの国では当然人種差別は殆どありません。
 これとは違いアメリカでは人種・文化の混合が行われませんでした。原因については不勉強なのでなんともいえませんが(カルバン主義やアングロサクソンの島国根性が関わっているのかもしれません)、一部の白人にとって黒人が“同じアメリカ人”では無く“国内に居住するよそもの”的な存在になってしまった事は否めません。

 まずアメリカは国土が広大で地方分権も進んでいるので地方によって人々の考え方が大きく異なり、アメリカと一口に言っても州や地方によって差別の現状は大きく異なる事と、アメリカにおける人種差別をもって白人全ての人種差別を語る事はできない事を申しあげておきます(北部ヨーロッパやイベリア半島では人種差別差別はまた違う様相を呈しています)。
 それとビリー・ブロンクスは大学教育を経て社会的に成功している黒人で、ボビー・オロゴンはナイジェリアの富裕層の出身です。一般的に差別を受ける黒人...続きを読む

Q南北戦争の原因とその後の発展への影響について

アメリカの南北戦争が起こった原因として、北部と南部の産業(商工業と農業)、貿易政策(保護貿易主義と自由貿易主義)、政治体制(連邦主義と州権主義)、奴隷制(反対と賛成)を巡る対立などが一般的に知られていますが、これらの要因は具体的にどのようにして形成されたのでしょうか?
また、実際戦争には北部が勝利しましたが、もしこの戦争で南部が勝利していれば、今でも北部と南部の対立が続き、二度の世界大戦にも参加せず、現在のように全世界にこれほど大きな影響力を持つ大国には成り得なかったという意見が多く聞かれますが、これらの推測を裏付ける証拠としてどのようなことが考えられますでしょうか?
近い内の特別授業での発表内容の参考にしたいと思っていますので、皆さんのご意見よろしくお願いします。

Aベストアンサー

漫談です。

南北戦争はサムター要塞事件で本格化するのですが、まずは南北とも、

「まずいなあ、とりあえず兵隊集めなきゃ」

なんです。両方とも出だしはグダグダなんです。が、ひとつだけ大きな違いがありました。
北部、連邦はハッキリとリンカーンが「南部の軍事的撃滅。連邦再統一」という方針をもっていました。
方や南部は最後まで戦争目的が明確ではなく、最初の内は「南部が所有する資産防衛」という曖昧なまま進みます。南部は戦争初期における将軍の質以外、全ての面で、実は食料生産力でも劣っていたので、このような不明瞭なドクトリンではもう負けるしかないのです。
南部の勝利は、戦争途中の連邦大統領選挙でリンカーンが落選する以外、チャンスすらありません。

南部は漠然と、南部の綿花供給能力で欧州列強に国家として承認してもらい、北部と停戦して独立できたらいいな、が、まあ目的といえば目的なので、万が一、ゲティスバーグでリーの率いるノース・ヴァージニア軍が北部のポトマック軍を破滅的に粉砕していたら、欧州が

「おれたち南部から綿花ほしいから、戦争やめてくれ」

と言ってくれたかもしれません。ここで戦争が止まったら(終わったらに非ず)、なんとなく気まずい間柄の北部と南部が北アメリカ大陸で共存し、ゴタゴタ続きの大陸国家として歩むのではないかと思います。

戦後は、パナマ運河掘削、対スペイン戦争、ハワイ、フィリピン、日本、アラスカ対策などができなくなると思います。
で、結局これらの政策のため、「合衆国」としてある時点でまたまとまるようなオチではないでしょうか。

でも、ゲティスバーグのとき、実は名将リー、お腹くだしているので、これは大分無理があると思ってください。北部は南部を確実に撃滅できる国力があるので、勝つ戦争を捨てることはないでしょう。

漫談です。

南北戦争はサムター要塞事件で本格化するのですが、まずは南北とも、

「まずいなあ、とりあえず兵隊集めなきゃ」

なんです。両方とも出だしはグダグダなんです。が、ひとつだけ大きな違いがありました。
北部、連邦はハッキリとリンカーンが「南部の軍事的撃滅。連邦再統一」という方針をもっていました。
方や南部は最後まで戦争目的が明確ではなく、最初の内は「南部が所有する資産防衛」という曖昧なまま進みます。南部は戦争初期における将軍の質以外、全ての面で、実は食料生産力でも劣ってい...続きを読む

Qリベラルとは?

・左派、革新、社会主義
・右派、保守
という分類ができると思うのですが、
リベラルや自由主義は、どう考えたらいいのでしょうか?
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共和党政策が旧保守主義(右派リバタリアン)で、それ以後を新保守主義(ネオコン)といい保守と名乗っていますが、実態は左派リバタリアン(左派が保守に転換し、現状を保守する為に革新的手法(戦争など過激な改革を許容する)を執ると言う主義)です。

 自由主義の反対となる統制主義も左派だと共産主義や社会主義、比べると右派に成るイギリスの「ゆりかごから墓場まで(高福祉政策)」などが有ります。

 簡単に言うと、積極的に変えようとするのが左派で、変わらないように規制するのが右派です。そして変える方向(変えない方向)が自由か統制かで分類できます。

 日本には明確に保守を謳う政党が無いので、イメージがわき難いのかも知れませんが…。
 (自民・民主党は中道で、共産党は左派統制主義ですから…。)

 政治思想は、下記のXY軸に表す事が出来ます。(リベラルを日本語に訳したのが「革新」あるいは左派です。)

 Y軸 Libertarian(自由・市場主義 = 小さな政府) - Statist(統制主義 = 大きな政府)
 X軸 Liberal(革新) - Conservative(保守)
 真中 Centrist(中間主義)

 各派の解説は下のURLの解説部分を参照してください。
   http://meinesache.seesaa.net/category/719933-1.html

 自由主義と言うとリバタリアンの範疇になりますが、アメリカの政治に例えると、レーガン大統領より前の共...続きを読む

Qイデオロギーって何ですか???

イデオロギーとはどんな意味なんですか。
広辞苑などで調べてみたのですが、意味が分かりません。
どなたか教えてください。

Aベストアンサー

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオロギ-には賛成・反対といった概念がないのです。

例えば、環境破壊は一般的に「やってはいけない事」という一定の考えに
組織されています。つまりみんなが根本的な共通の考え(やってはいけない事)として組織されているもの、これがイデオロギ-なんです。
しかし、社会的立場によってはその「やってはいけない事」を美化して
公共事業と称して環境破壊をする人達もいますけど。
ここでイデオロギ-という概念に対して色んな論説が出てくるわけです。
一応これは一つの例ですけど。

というかこれくらいしか説明の仕様がないですよ~~・・。
こういう抽象的な事はあまり難しく考えるとそれこそ分からなくなりますよ。
この説明で理解してくれると思いますけどね。

イデオロギ-というのは確かに色んな解釈をされていますけど、
狭義ではそれぞれの社会階級に独特な政治思想・社会思想を指します。

つまり分かりやすく言えば、人間の行動を決定する根本的な物の考え方の
体系です。一定の考え方で矛盾のないように組織された全体的な理論や思想の事を
イデオロギ-と言うんです。

例えば、人間はみんな千差万別であり色んな考えを持っています。
だから賛成や反対といった意見が出てきますね。
しかし、イデオロギ-というのはみんなが認める事象の事です。
イデオ...続きを読む

Q朝鮮戦争の原因は何ですか?

映画「BROTHERHOOD」を観ました。
突然に北側から攻撃が始まるのですが、この戦争の原因は何でしょうか?
主義が違うからといっていきなり同じ民族同士で戦争を始めるというのが理解できません。
また韓国にはアメリカ軍もついているわけですから、勝てる見込みもありません。

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり、補給も中国を経由して確保できますから短期決戦で勝利出来る計画でした。
開戦当初は計画とうり戦車部隊を先頭にした北朝鮮が優勢でしたがアメリカ軍がその背後の仁川に逆上陸し、補給路を切断したので補給を絶たれた北朝鮮軍は敗北後退し、アメリカ軍の優勢な空軍力により中国国境近くまで追いつめられました。

緩衝地帯の消滅を恐れた中国が義勇軍を送り中朝連合軍と国連韓国連合の戦争になり持久戦となりました。

この時点で中国とアメリカの戦争になったのです。

戦争に残虐な行為はつきもので、双方の兵士、民間人を問わず戦場になった所は悲惨な運命にあいます。

朝鮮戦争はソ連アメリカの代理戦争で、日本の敗戦により北朝鮮を支配したソ連よりの北朝鮮人民共和国が朝鮮半島を統一支配する為に起こしたものです。
背後にはソ連、中国がいたのです。

アメリカは韓国を緩衝地帯としていましたからその防衛は韓国軍にまかせる方針でした。

朝鮮は確かに同一民族といえますが古くは高麗、百済、任那時代から敵対関係の時代もあり、気候風土、気質もかなり異なります。
アフリカで民族よりも氏族単位で内戦が絶えないのと同様です。

北朝鮮はソ連の余剰戦車が多数あり...続きを読む

Qエルサレムに、なぜ3宗教の聖地が在るのですか?

エルサレムでは、紛争が延々続いていますね。
あんなに狭い所に、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という3宗教が聖地を持っているから、トラブルが起きるのは当たり前だとは、とは思います。その3つの宗教は、ユダヤ教、それから発生したキリスト教、そしてそれらと影響のあるイスラム教、という関連のある宗教ですね。
世俗的には、エレサレムの街自体は、たとえば交通の要所とかではなく、たいして重要な街とは思えません。
それなのに、、なぜ3宗教は、エルサレムに聖地を持っているのですか?
たまたまエルサレムに3聖地が混在するだけなのですか? あるいは、歴史上や宗教上で、何か慨依性を持っているのですか?

Aベストアンサー

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ(イスラエル)の地にやってきて、神様は「よーしお前ら、ここをお前たちに与える」と畏れ多くもありがたくおっしゃいました。しかしそこは当然先住民がおりまして、「なんか、先に住んでる人がいますけどこれはどうすればいいですか?」と伺いましたところ、「お前たちに与えたから殺しちゃってオッケーよ」とおっしゃいました(本当)。かくして彼らはそこにユダヤ人国家を作りました。ユダヤ人がイスラエルを「約束の地」と呼ぶのはそういうことです。
そんなこんなの経緯は旧約聖書に書かれています。

さて、ユダヤ教徒はエルサレムに神様を祭る壮大な神殿を作りました。その頃がユダヤ教とユダヤ王国の絶頂だったといえるでしょう。その後神殿は破壊されてしまい、その一部が残るのみとなりました。その遺跡が「嘆きの壁」と呼ばれるところで、そこでは常に敬虔なユダヤ教徒が祈りをささげていますが、そのお祈りの内容は、「神様、あの栄光の日々がまた訪れますように」というものです。その「また訪れてほしい栄光の日々」とは3000年くらい前の話なんですけどね。

ユダヤ人の国は、あんなこんながイロイロとありまして分裂したりして、やがてローマ帝国の属州となりました。ローマ帝国ってところは実は非常に寛大な帝国で、帝国に従うなら信教の自由も認められていました。日本人レベルでいえば、「それならいいじゃん」というものですが、「この世で神様とお呼びしていいのはおひとりだけ」と信じる彼らにとって異教徒がウロウロしているのが非常に気に障って障ってしょうがないのです。イスラエルでは、ローマ帝国に対するテロ活動が盛んでした。
ユダヤ教徒の歴史では、そういう「ユダヤ人受難のとき」にはエリヤとか神様の言葉を預かる「預言者」が登場して人々を導きました。ユダヤ教徒たちは、そういう「救世主」が出てくることを待ち望んでいたのです。

そういったタイミングに登場したのが、ナザレ生まれのイエスでした。イエスはユダヤ教史上、というか宗教史上において革命的な言葉を発しました。「ベイベー、愛だぜ」と。彼は、あの神様のことを「父ちゃん(アバ)」と呼びました。後になんだかんだでイエスは神の子となりました。マリア様が処女のまま神の子を受胎したお話はご存知でしょ?
それがどれだけ革命的であったのはまた別の機会に譲るとして、「憎みあうより、愛し合おうぜ」と言い出したイエスは人々からローマ帝国を排除する指導者となることを熱望されましたが、「だから俺は憎みあうのは嫌なんだよ。愛し合おうぜ」といって人々を失望させ、エルサレムからすぐ外に出たところのゴルゴタの丘で十字架にかけられてしまいました。
その後、実は一度もイエスと会ったことがないパウロが「イエスは救世主(キリスト)だったー!」と言い出してキリスト教が誕生します。なお、旧約聖書では「救世主はベツレヘムに生まれるよ」と書いてあったので、イエスはベツレヘムで生まれたことになりました。
当然のことながら、キリスト教にとってエルサレムは「イエスが十字架にかけられた場所」ですので極めて重要な聖地であります。

そのイエスが十字架にかけられて50年くらい経ったとき、「もう我慢ならねえ、ローマ人は出ていけ!」とユダヤ人は反乱を起こしました。それ以上にブチ切れたのはローマ人です。「人が下手にでてりゃあ属州のくせにでけえ態度をしやがって。ローマ帝国の恐ろしさを骨の髄まで教えたるわ」と本気で怒り、反乱を鎮めただけではなく、何かとややこしい神殿を破壊し、「ややこしい神を信じてるお前らはこの辺りに住むんじゃねえ」とユダヤ人をパレスチナから追放しました。
これがディアスポラです。以来約2000年、ユダヤ人はイスラエルの地に再びユダヤ人の国を再興することを願いながら世界中でお金を稼ぐこととなります。

時代はずーっと下りまして、メッカの洞窟で、青年ムハンマド(マホメット)の前に大天使ガブリエルが現れて「君が預言者だよーん」と告げました。イスラム教の誕生です。ムハンマドの元にガブリエルを派遣したのはあの、例の、何かとややこしい「神様」でいらっしゃいます。そういや、マリア様の前に「あなたは神様の子を宿したよ。おめでとう」と告げに来たのもガブリエルでした。ガブリエルさんはどうもややこしいお仕事を何度もされているようです。
ムハンマドのあまりに偉大な足跡に関していちゃもんをつけると冗談抜きでアルカイダから死刑宣告されてしまいますので、それについては割愛します。
イスラム教にとって最も重要な聖地は、ムハンマドが神の啓示をうけたメッカです。しかしムハンマドは一神教教徒なわけですから、「死ぬまでに偉大な神殿があったエルサレムで死にたいなあ」と当然といえば当然で、ややっこしくなることを願います。
そして、そのエルサレムの地で天に旅立ってしまったのです。エルサレムはイスラム教にとっても「教祖様が入滅された場所」となってしまったのです。

かくして、エルサレムの地はユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒が俺の場所だ、いいや俺の場所だと大変にややこしい場所となってしまいました。

まずですね、一神教ってのが興るんです。「世の中に神様と呼ばれるお方はおひとりだけ」という考え方です。
この一神教の神様は、ユダヤ教が呼ぶヤハウェ、キリスト教が呼ぶゴッド、イスラム教が呼ぶアッラー、全て日本語に訳せば同じ「神様」です。
この神様はモーゼさんの前にそのお姿を現したときに、「俺以外の神扱いされてるやつは全部ニセモノのまがいもののファック野郎だ!」とおっしゃいました。そこを起源にしてユダヤ教が始まりました。
ま、いろいろ経緯はありましたが、ユダヤ人一行は今のパレスチナ...続きを読む

Q紀元前と紀元後をなぜ分けるの?

タイトル通りの疑問なのです。当たり前すぎなことなのかもしれませんが、教えてくださいお願いします。どういういきさつで分ける必要になったのでしょうか?
またいつから分ける様になったのですか?

Aベストアンサー

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれた年を紀元とすることにしました。
これが、現在我々が使っている西暦の始まりです。
何故西暦0年が存在しないかと言うと、西暦が作られた6世紀半ばのヨーロッパは、まだ数学が発達していなかったためか、「0」の概念が無かったのです。
そのため、「西暦0年」ではなく、「西暦1年」から始まったのです。これは平成0年がないのと同じですね。
だから、紀元1年より前の年をあらわすには、0がないので当然ながらマイナスを使えず、「紀元前」とするしかないわけです。
この西暦は、まず教会で用いられ、それがヨーロッパの一般人に定着するのはそれから数世紀経ってからで、 実際に世界的に使われるようになったのは、18世紀になってからです。
日本に至っては、明治以降、つまり19世紀に入ってから、やっと使い始めました。

つまりは、西暦に関するご質問ですね?

いま現在、我々が使っている西暦は、イエス・キリストが生まれた年を紀元(はじまり。すなわち西暦1年)としています。(ところが後日、実際には何年か違うらしいことがわかった。)
この西暦を考え出したのは、数学と天文学に通じていたローマの修道院長、ディオニシウスで、6世紀半ばのことです。
それまでは、日本の元号のように、何皇帝の何年というような呼び方をしていました。
しかし、それでは年数の計算が不便なので、ディオニシウスは、キリストが生まれ...続きを読む


人気Q&Aランキング