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wikiには、「養老2年(718年)、一品に昇叙される。翌養老3年には元正天皇より異母弟の二品・新田部親王とともに皇太子・首皇子(のち聖武天皇)の補佐を命じられ、また皇室の年長者として褒賞されそれぞれ内舎人・大舎人・衛士・封戸を与えられた。養老4年(720年)5月に自らが編集を総裁した『日本書紀』(紀30巻・系図1巻)を奏上する。同年8月には当時の朝廷最大の実力者であった右大臣・藤原不比等の薨去に伴って、舎人親王は知太政官事に就任して太政官の首班に立ち、知五衛及授刀舎人事・新田部親王および右大臣(のち左大臣)、長屋王とともに皇親政権を樹立する。」との説明があり、とても高位の存在で、不遇でも、軽くあしらわれたのでもないようです。
内舎人・大舎人という名称は、当時の高位のもの、皇族の子弟にとっては、使用人の名前でしかないと思うのですが、生まれも高貴で、諡号も崇道尽敬皇帝・尽敬天皇とされるようなヒトの名前が「舎人」なのはどういう事情があると考えられているのでしょうか。

A 回答 (2件)

お礼について



①②③で理解できるものもあるけれど、それほど単純ではないような気がします。 

もちろん①②③だけとは思っておりません。しかし天武朝ではその傾向が強まったのではないかと想定しています。

8世紀の前半であれば、漢字を使用できる人、読める人は限られていたでしょう。 通常の個人を識別し呼ぶ名称としての「名前」は、その個人を取り巻く集団内の文化や慣習をベースに付けられるもので、他の集団や地域から眺めた視点での識別をベースにしているとはちょっと考えにくいです。

①②③がご指摘の点を踏まえていたことは十分考えれら、①②③と矛盾するとは思っておりません。むしろ、その名称からその皇子等の勢力の背景が浮かび上がるのではないかとも思います。

まして、「馬小屋で生まれたイエス・キリストにあやかった名前だろう。ある意味、③の国際関係を意識した名前」ということは、子供に付けて呼ぶ名称としてはあり得ないと思います。

生まれて間もなくは「諱」が付けられ、記録に残るような「厩戸皇子」や「舎人親王」のような公式名称は、ある程度成長してから(または夭折後?)に付けられるものでしょう。③には「国際関係」という言葉も使っていますが、海外の文化を意識した名前とご理解ください。

いずれにしても、この辺の話は分からない点が多いのは事実です。仮説としては色々あって当然かと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

> 記録に残るような「厩戸皇子」や「舎人親王」のような公式名称は、ある程度成長してから(または夭折後?)に付けられるものでしょう。

それはわかります。 でも、それは後世あるいは存命中であっても当人とは直接的関係を持たない者が「あの人」という代わりに使う代名詞のようなものであって、名前ではないと思います。 上宮聖徳法王帝説にも、「生児 厩戸豊聰耳聖徳法王」という記述と、「至長大之時一時聞八人之白言而辧其理 又聞一智八 故号曰厩戸豊聰八耳命」という記述がありますが、きっと名前が分からないか、伝えられてはいないかで、尊称かあだ名か代名詞のような表現として、厩戸が使われたのでしょう。近親者やいつも一緒にいた人々にとっての名前や、本人が自認していた名前は伝わっていないのでしょう。
この丘に菜摘ます児 家聞かな 名告らさね そらみつ やまとの国は おしなべて 吾こそをれしきなべて 吾こそませ 我こそは 告らめ 家をも名をも
というくらい、名前を知らせる、名を使われることに神経質で恐れももていたのであれば、名はおいそれとは伝えないのが常識なのでしょう。

そうすると、舎人も代名詞というか、経理の係長、受付の女の子、出入りの庭師の親方のようなものであって、名前ではないということになるのでしょう。
日本根子高瑞浄足姫、元正も諡号であって名前ではない、氷高・日高・新家も諱と言われているが、地名由来であって、実は他称であって諱ではないのではないのだろうと思います。 舎人親王ですが、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀」とか「元正天皇御宇之時 勅一品舎人親王従四位下太朝臣安麻呂等俾撰日本書紀」などとの記述から想像出来るのは、舎人親王は個人の名前ではなく、職名・官名のようなモノではないかと想像してしまいます。続日本紀の養老2年正月の舎人親王を二品から一品へも官位舎人長を上げたということではないのでしょうか。 身分も性も違いますが、金刺舎人若島(嶋)の舎人も個人の名前ではなく職能名で人物を指し示す例ではないでしょうか。
日本書紀に記述されている個人名のように思われるものの相当部分は、職能・出身地・あだ名などであって、実は名前とは関係がないものなのでは内でしょうか。 今でも、昔からある街に行くと「屋号」で、氏姓ではなく、個人を呼ぶのに屋号を使うことがあるようです。

お礼日時:2021/01/03 11:35

律令体制が構想され始めた飛鳥時代も含め、律令体制が完成した奈良時代当時の皇子などの名前の付け方は、次のようなモノと考えられる。


①地名またはその地を治める有力豪族名
②特定の職域集団の名前
③主に中国から伝来した中国を含む諸外国の有名人にあやかった名前

つまり、皇子の名前は、①の有力地域、②の主要な職業集団、③外交や海外文化導入といった内政外交の重要な諸分野の名称から名付けられている。
例えば、聖徳太子は厩戸皇子と考えられているが、厩戸とは馬小屋のことだから、舎人皇子(舎人親王)よりも遥かにヒドイ名前だろう。
しかし、これはどう考えても、馬小屋で生まれたイエス・キリストにあやかった名前だろう。ある意味、③の国際関係を意識した名前だ。
であれば、厩戸(聖徳太子)が、外来宗教である仏教とその関連文化の導入に傾倒した人物であったことと見事に合致している。

また、特に天武天皇は、主要な官職を皇族独占体制にしている。主だった皇族には、名目的だったかもしれないが、皇族にそれらの分野を管掌させる意味を込めていたのかもしれない。
であれば、舎人親王には、天皇家の直臣集団である「舎人」の長という意味で名付けられたということになる。②のパターンだ。

当時の舎人集団は、律令体制を支える朝廷の官僚たちで、今でいえば霞が関の中央官庁のキャリア官僚たちに相当する。その集団のトップという意味の名前なのだから、逆に非常に重要視された名前だったことになる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
> 奈良時代当時の皇子などの名前の付け方は、次のようなモノと考えられる。①地名またはその地を治める有力豪族名 ②特定の職域集団の名前 ③主に中国から伝来した中国を含む諸外国の有名人にあやかった名前

そうなのでしょうか。
高市皇子、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子、穂積皇子、長皇子、弓削皇子、磯城皇子、舎人親王、新田部親王、
大海人⇒長⇒智努⇒与伎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%A1%E6%B5%B7 … 麁鎌   鎌子・鎌足
道祖、船、大炊、池田、塩焼、  黄文、 長屋、安宿
①②③で理解できるものもあるけれど、それほど単純ではないような気がします。 
8世紀の前半であれば、漢字を使用できる人、読める人は限られていたでしょう。 通常の個人を識別し呼ぶ名称としての「名前」は、その個人を取り巻く集団内の文化や慣習をベースに付けられるもので、他の集団や地域から眺めた視点での識別をベースにしているとはちょっと考えにくいです。
まして、「馬小屋で生まれたイエス・キリストにあやかった名前だろう。ある意味、③の国際関係を意識した名前」ということは、子供に付けて呼ぶ名称としてはあり得ないと思います。

お礼日時:2021/01/02 08:38

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