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江戸時代に年金はなかったと思いますけど、働けなくなった独り身の高齢者はどうやって暮らしていたのでしょうか?

gooドクター

A 回答 (6件)

日本には、唐の制度を真似た「五保」という五軒単位に民を組織する制度が古代からあった。

年貢を納める責任も五軒単位で、このような連帯責任制度は必然的に相互扶助関係も生むことになった。

江戸時代には「五人組」と呼称されるようになっている。藩によっては相互扶助を重視していた。
そのほか、地域の寺が困窮者の面倒をみてもいたようだ。
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「働けなくなった独り身の高齢者」を100人調べたとしても、10人、20人が似た状態と言うことはないでしょう。

 それぞれなのでしょう。

薩摩、土佐、備前、大坂、京、尾州、越後、甲府、江戸、陸前でも違うでしょうし、町方と村方ではずいぶんと状況が違っていたようです。さらに、上級武士、下級武士の次男、名主など、本百姓、小作人、家人・下男下女、商家、商家の住み込み使用人、職人、屑拾いや棒手振、無宿人、与太者、夜鷹、いろいろいるのです。
https://www.excite.co.jp/news/article/Japaaan_61 …
特殊ケースの一つですが、遊郭の遊女は、数え歳で28歳で年季明けとなる決まりでしたが、相当数の遊女が年季前に死んだらしいです。そのような状況のとき年季の後は長生きできたという例は少ないでしょう。
高齢の意味ですが、50歳を高齢と考えた場合、家長などの場合、40歳代で次世代に責任権限を譲渡した形で、自分は隠居として権威を持つというような生活ができる人もいたようです。それほどの地位がない場合は、40歳代は30歳代までと違い体力が低下していますから、現代で言えばシニア扱いで、自分の体力に合わせた労働で生活の糧をえていたようです。
もはや働くこともできなくなったら、公序や周辺の人からのお恵みだけでは、栄養が十分にはとれないので、(働けない状態からさらに)急速に体力が低下し、栄養失調や暑さ寒さ風邪や内臓疾患などに耐えられず、短期間に死んでいました。 
でも、家族などに支えられている高齢者の場合、60歳、70歳、80歳と、働けない状態ではあるがそこそこに明るく生きて、長寿祝いを周囲や藩などからいただいていたようです。 古稀を迎える人も結構いたのです。 
実に様々だったのです。
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ある程度互助のシステムがあり、町内単位で面倒を見ていたようです。

当然姥捨て山のような話老人を山に捨てるといったことは、ありませんでした。様々な記録を見ると簡単な内職や作業をして生活をつないでいたようです。地方には特産物があり、その生産を手伝ったり、江戸では内職や針仕事などがありましたました。
ただし、飢饉があると江戸の周辺でも餓死者が出ましたから、その時は年寄りだけでなく、多くの農民が苦しみました。幕府や藩は、食事を配るなどの政策も行いましたが、それでも老人や子供は、病気にやられたようです。免疫力が低下していたからでしょう。元々江戸時代の平均寿命は40歳前後ですし「伝染病」で死ぬ人も多く,近所では支えきれないといった状況も生まれていたようです
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寺男。

朝、お寺の庭掃除をする代わりに、ボロだけと家に無償で住める。
そこそこ働ければ、衣食住、なんとかしてもらえました。
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独り身の高齢者は長生きできませんでした。


自分で食事の用意ができなくなれば自然に死んでゆきました。老衰です。

働けなくなった老人は息子が面倒を見ました。
「子供は宝」と言われたのはこの様な親孝行が当たり前だったからです。
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ある程度の年齢になると島や山間部に送られて孤立状態にさせてたらしい。


事実上の死刑だな。当時の財政じゃそれが最善だったんだろうが。
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