1. 信仰は われと神とのカカハリであり 宗教は オシへを問題にする人と人とのマジハリである。
2. 次のごとく タテの関係とヨコの関係とでまったく別だ。
タ 神 神 神
テ・・・| | |・・・:信仰
の | | |
関 | | |
係 | | |
われーーーーーわれーーーーーわれーー:各主観
❙ ❙
❙ ❙
ヨコの関係 ヨコの関係 :社会関係における宗教
3. 信仰にあっては 非思考の庭なる神であり(それは 霊性であり) 宗教においては オシへの中に神を観念としておさめているからには――ほんとうは――考えるべき思想たる神観(すなわち 知性)の問題なのだから。
4. 宗教は――考えるべきものを 無条件に心に受け容れる(つまり 信じる)ようにと説くなら 思考停止(お寝んね)を推奨する――寝技であり 屁の河童である。
5. なんで 仏《教》を信じるだの キリスト《教》を信じないだのと 知性にさからう表現が後を絶たないのか?
☆ ご見解をどうぞ。
A 回答 (26件中1~10件)
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No.1
- 回答日時:
宗教があるから信仰が産まれ、信仰があるから宗教となるのであって、別物ではない。
信仰が変われば宗教心も変わり、宗教が変われば信仰も変わる。だからその教義も変わる。従って、具現化された祈り方も、祀り方も変わる。但しそのどれもが、宗教を顕す信仰心でもあり、信仰を顕す宗教観(宗教心)でもある。また、キリスト教と仏教は、同化と異化の関係のようなもの。
仏教は観念的には即身成仏であり、修行をした人間=仏という同化の考え方が基本。
これに対してキリスト教は、人間に精霊が宿ることはあっても、人が神になることは無く、人とは隔絶した神の世界を前提にする絶対神という異化の考え方が基本である。
尚神道(日本の神々という考え方)には、現人神(あらひとがみ)の信仰があって,生きた人間に神霊が憑依(ひようい)すれば,その人間はその身そのまま神になるという、異化の部分合成(同化の特殊型)のような考え方がある。但し偶像化(神格化)された他国の神話(神々の世界)には、どうような考え方も多々見られる。
しかもその大前提として、キリスト教は父なる神の存在を示し、万物の存在を想定しており、仏教も経典で、自然や宇宙の存在を示している。
また神話の世界も、同様な宇宙観がある。
従って、部分的な無で生きようが、有で生きようが、整えられた有の世界の絶対無で生きようが、不可思議に生きようが、生きる魂には変わりは無い。だから知性に逆らうという宗教観の違いの主張は、実は、大智の部分的な顕現としての宗教心の表出であり、信仰心の表出であり、時には、そのいずれでもない無心の表出でもあるだけだ。
ご回答をありがとうございます。
★ 宗教があるから信仰が産まれ、
☆ あり得ません。
超自然・超経験の何ものかをけっきょく《かみ》としていだいた。その信仰の経験から 観想を得たり恥ぢの意識が作られますが そこに共通の要素または規則性のある因果関係を捉えこれを整理して 命題としやがてはオシへとした。
宗教は やっとこの時点でさらにオシへの団体を作ろうとした人間がいたということです。
★ 信仰が変われば宗教心も変わり、
☆ 信仰そのものは 思考に非ずです。非思考の庭〔なる動態〕として成り立っています。
しかも 生活経験をとおして 先ほど触れたヒラメキや観想などの命題を得ます。ここから オシへがつくられて行きます。
人それぞれその主観・価値観は違いますから オシへも或る程度はことなっていましょう。
★ 宗教が変われば信仰も変わる。
☆ 宗教の変化というのは 組織内で支配欲をどのように満たそうかというその流儀やあるいは金儲けの仕方を変えてみるといったことぐらいでしょう。
★ だからその教義も変わる。
☆ まぁ 解釈は変わりましょう。
★ 従って、具現化された祈り方も、祀り方も変わる。
☆ それは どうでもよいと考えます。儀式は オシへ以上に 糞くらえです。
★ 仏教は観念的には即身成仏であり、
☆ 仏性を立てたなら 観念的ではありません。その仏性の顕現のことを言うのですから。
★ 修行をした人間=仏という同化の考え方が基本。
☆ 人間のほうから同化するというのでは ただの経験思想でしょう。道元。
★ これに対してキリスト教は、人間に精霊が宿ることはあっても、
☆ 聖書の神の霊性は 聖霊という漢字であらわします。
★ 人が神になることは無く、人とは隔絶した神の世界を前提にする絶対神という異化の考え方が基本である。
☆ ダメ。人と神とは絶対の隔たりがありますが しかも聖霊が人にやどるというんですから そのかぎりで《同化》でもあるのです。
★ 現人神
☆ 主観の内部においてのみ そういう神観をいだくことは ゆるされています。それだけのことです。
★ キリスト教
☆ とキリスト信仰とをごっちゃにしています。
★ 宗教心
☆ とは 支配欲と金銭欲のことです。それ以外のものではありません。
No.3
- 回答日時:
全くの無音状態で、自分と自分が対峙するのは苦しい作業だと思います。
そもそも、苦しい作業をするのも、自己を鍛錬し、なるべく、自然環境と自己の生活というものを一体化させるのが本来の修行体験の目的なのでしょうが。私のように、自室に籠もって、暖房をつけ、パソコンを叩いているような怠惰な生活を送っている者には、修行者としての厳しく、素朴な生活を送られていらっしゃる方々の心中の厳しさは伝わってこないのかもしれませんが。
いずれにしても、娑婆との関係性を絶ち、自らが自然環境と溶け込んで、その中で電気も水道もガスの提供の難しい中で、生活する厳しさとは筆舌に尽くしがたいのかもしれませんが。
そういった、厳しい環境の中で自らの生活を律し、修行僧が何を思うのかは私では想像だに出来ませんが。
★ 修行
☆ は 人間性の安定した成就にとって 無関係です。
修行したことが 間接的にさとり あるいは すくひに寄与したという場合もありましょうし まったく何の効果もなかったという場合もあるはずです。
★ 怠惰な生活を送っている者
☆ やはり自己を誇っておられる。《怠惰》でも やって行けると。
★ 娑婆との関係性を絶ち、自らが自然環境と溶け込んで
☆ まったくの間違いです。娑婆即浄土あるいは煩悩即菩提だという命題が 提出されています。
わが身わが心は もともと 自然本性として生まれて来ています。
★ 厳しい環境の中で
☆ にしろ めぐまれた環境においてにしろ どんな境遇にあっても おのが文体――人生の歩き方――が安定して 人間性の発揮に支障がないというのでなくては いけません。
哲学のはき違えが 目立ちます。
No.5
- 回答日時:
酔生夢死で生きられるほど、財力に私は恵まれていないと思います。
★★ 自己の死に対してもあまり、驚かない精神
☆ これでは ほめられません。酔生夢死の場合にも 死に驚かないでしょう。
論点のズラシが 得意ですね。
No.9
- 回答日時:
#1のコメントに関して
とても強い固定的な想念を抱いておられるのですね。
しかも対話は少ないので、どのように書いたら良いかと迷いますね。
あなたご自身のお考えでお裁きになられるという印象を受けましたが、実際の宗教体験を通じても、外国ミッションを含めて、もっと自由性を私は宗教にも信仰の実際をたくさ見てきていますので、特異なご感想の印象を受けました。
ただそれはそれで構わないし、そればご質問者様の宗教観であり、信仰心なのでしょうから、争点を併せる気持ちがなければ対話の意味もありませんし、特別なご理解やご評価を戴くためのコメントでもありませんから。
ごとても強い固定的な想念を抱いておられるのですね。
しかも対話的ではなく、あなたご自身のお考えでお裁きになられる。
それはそれで構わないですが、争点を併せる気持ちがなければ対話の意味もありませんから、ご心配なく。
ですからあくまでもご参考になればという程度のことですが.......
★ 宗教があるから信仰が産まれ、
☆ あり得ません。
→時系列的には、仰る点はあろうかと思いますが、現在は、多様な宗教が現存していますから、
宗教に触れることで生まれる信仰はあり得ると思います。
☆ 信仰そのものは 思考に非ずです。
→そうした面もあるかもしれませんが、神の智慧や仏の智慧の教えを信じて尊ぶことも信仰です。
ですから例えば、「心を尽くし、思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」これは新約聖書のマルコによる福音書 12章30節の聖句があるくらいです。
つまり「考え、理解し、判断する知力の全てをつくして神を愛しなさい」と言うマルコの信仰心を示したものです。しかも、そもそもイエスも実在せず、ユダヤ戦記にも記されていないという人がいます。しかし、聖書で、マルコというイエスの弟子を想定し、その信仰の在り方を示したことが、他の人の心の支えになったことも事実で、そこに意味を見出してきた方が実在したということなんですね。
それは単なる情感だけではない思考を伴った信仰の在り方を示したものですよ。
ですから、特定の既存の宗教団体の抗争や押付けではなく、無教会派でも、自宅で、読み物としての聖書を読みその中での思考を尽くしての信心もあるわけです。
また、仏典も仏の信仰も同様。
仏の知恵への気づきは、人間の知恵性の為せる技ですから。
☆ 宗教の変化というのは 組織内で支配欲をどのように満たそうかというその流儀やあるいは金儲けの仕方を変えてみるといったことぐらいでしょう。
→残念ながら、そういう方もおられるのでしょうね。
独りでじっくりと読み解く時にも、聖書は応えてくれますよ。
その証拠に、イエスが悪霊を豚に込めたことが原因で、豚が死んだ村から追い払われた行もありますよね。
他人の物を貪ることを禁じていますし、金儲けでの集まりでは、卓袱台をひっくり返して追い払った聖句もありますよ。
お読みになられましたか?
こればっかりは、理性で紐解かないと、見えないのかな?残念です....
仏教にも、十善戒がありますから、類似的な教えがたくさん散見されます。
☆ 即身成仏という仏性を立てたなら 観念的ではなく、仏性の顕現である。
→つまりミイラね。でもミイラでは、信仰も宗教もありません。
生きている人へのオシエとして意味があると思われるのは、即身成仏になるという観念だと思います。
民衆には、そこにしか共感も理解も反論も生まれませんから。
☆ 人間のほうから同化するというのでは ただの経験思想でしょう。道元。
→ではなくて、元々は唐で学んだ空海から広まったオシエです。( ´艸`)
☆ 聖書の神の霊性は 聖霊という漢字であらわします。
→よくご存じですね。その通りです。
自然界にある様々な生物や事物の内に宿っているとされていて、ときおり不思議な現象などを引き起こすとされている
超自然的な存在のことを意味する言葉で、歴史的には、特に、地水火風といった自然界における四大の力を象徴する存在として位置づけられることになるほか、
ギリシア神話においては、アルテミスやディオニュソスといったオリュンポスの神々に付き従う下級の神々の存在の
あり方もこうした精霊あるいはニンフといった言葉によって言い表されていったそうですね。
☆ ダメ。人と神とは絶対の隔たりがありますが
→ ダメですか。苦笑 ギリシャ神話でいう神々の世界では、絶対的な隔たりがあるとも言えませんし、日本的な神話も同様です。
☆しかも聖霊が人にやどるというんですから そのかぎりで《同化》でもあるのです。
→聖霊は、神という奥義に気づくためのものであり、旧約聖書では、より隔絶した世界の中の聖霊ですが新約聖書で神の右に坐した人間の姿を持って教えを説いて召天されたイエスの想定により、その信仰を通じて、より同化的なものに近づいてはいますが、基本的に、偶像崇拝を禁じ、同化を認めないところに人間の脆弱性・原罪による人の道をも説いているものが新約聖書でもありますよ。
★ キリスト教
☆ とキリスト信仰とをごっちゃにしています。
→人に因り、一体化している人もおられれば、乖離の大きい人もおられるでしょう。
★ 宗教心
☆ とは 支配欲と金銭欲
→そればかりではありません。
無教会派・聖書主義の信仰力の強さと脅威をご存じですか
ご回答をありがとうございます。
★ とても強い固定的な想念を抱いておられるのですね。
☆ はい。
★ しかも対話は少ないので、どのように書いたら良いかと迷いますね。
☆ この質問で特に断定口調にすると決意しました。こういう話は 何度でもおこなって来ているからです。
★ もっと自由性を私は宗教にも信仰の実際をたくさ見てきています
☆ 信仰の人にかんしては どの宗旨であろうと よい人はよいでしょう。
宗教は 組織関係では 《自由》だとは同意しません。
★ しかも対話的ではなく、あなたご自身のお考えでお裁きになられる。
☆ 極力 推論を添えて理由を説明していると思います。ですが あなたも裁いています。
★★ 宗教があるから信仰が産まれ、
☆☆ あり得ません。
★→ ・・・多様な宗教が現存していますから、宗教に触れることで生まれる信仰はあり得ると思います。
☆ こまか! たしかに反面教師という事例があり得ます。
☆☆ 信仰そのものは 思考に非ずです。
★→ 神の智慧や仏の智慧の教えを信じて尊ぶことも信仰です。
☆ 間違いです。オシへは元より 《智慧》は 言語化され得ます。経験思想です。思考の対象です。オシへを信じるとは 思考停止に成ることです。
★ 「心を尽くし・・・あなたの神である主を愛しなさい」
☆ これは オシへです。オシへは 正解(神 の信仰)へみちびくための補助線です。補助線は 信じる対象ではありません。
★ つまり「考え、理解し、判断する知力の全てをつくして神を愛しなさい」と言うマルコの信仰心を示したものです。
☆ 指で ごらん あれが月だよと月を指し示すとき まさか指(≒補助線)を見ることはないのです。
★ マルコというイエスの弟子を想定し、その信仰の在り方を示した
☆ それも 補助線です。イメージです。
★ 自宅で、読み物としての聖書を読みその中での思考を尽くしての信心もあるわけです。
☆ 思考はなくても 信仰が芽生えます。信仰が始まってから 聖書を読むと信仰のあり方がよく分かるでしょう。
つづく
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▲ 道元:現成公案 ~~~
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☆ 信仰のチカラは ① 聖霊として神よりあたえられるもの。② 強い弱いは 関係ありません。その人にとってその情況に必要なだけ 聖霊のチカラが与えられます。
あっ:
★ 生き仏
☆ ですか。それなら 生きているあいだの成仏ですね。失礼しました。
要するに 信仰とともに 一発でしかるべき人間性のわれに立ち還るという思想です。
即身成仏は 空海。即得往生は 親鸞。