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このところ、宗教批判の「質問」が何故か多くなっています。

それ専門の方がおられるようですし、時代としては人々の心は宗教から離れて久しく、宗教を嫌う人も多いということは認識しております。

しかしながら、あまりにも感情論が多いので、少し考察を改めてしたくなりました。

他に考えたいこともあり、時間は限られているので、連投癖のある方は少々控えていただきたいし、なるべく質問内容に沿ったお答えを頂けるとありがたいです。

1.宗教の定義について

私の宗教に対する定義は以下の通りとなります。
「宗教とはある哲学(世界観・人間観・世界観)を信じ、実践することを体系化したものである。」

また、宗教の目的は、個人の幸福とその延長線上にある社会の発展・繁栄である。

あなたの定義はどういうものですか?

2.キリスト教とは、どういう教えであると認識していますか?

3.イスラム教とは、どういう教えであると認識していますか?

4.仏教とは、どういう教えであると認識していますか?

※三大宗教については多くの派があります。その派を明記いただければ幸いです。

5.商売宗教、インチキ宗教をどのような根拠で断定していますか?

罵詈雑言と同様であると判断した場合には無視させていただきます。(それ専門の人がいると認識しています)
そうでなければ、返答は必ずさせていただきます。時間がかかる場合もあるかも知れません。

では、宜しくお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 返答の順番が前後する場合がありますけれど、悪しからずご了承ください。

      補足日時:2021/01/15 14:49
  • 助かりましたマークは間違いです。
    スマホでやってると、こういうことがよくあります。

    No.16の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/18 21:09
gooドクター

A 回答 (22件中1~10件)

仏教では、人間の苦しみは当の本人の中に存在しているという考え方があります。

そうして何が苦しみの原因であるかを知らないで苦しんでいる事を『無明の故』と云っているようです。

この無明の闇を、取り去って、自分の苦しみの原因を根本的に解消する事が『宗教の目的』としているようですが、この無明の闇を取り払う事が出来た場合に、お釈迦様はこの『根本理由は余りにも難しくて、誰に話しても理解される事は無いと感じたようです。』

しばらくの間、説法する事さえも無駄では無いか?と悩み続けていたようです。釈迦が辿り着いた境涯は、自身の悩み、苦しみ或いは疑問の原因を全て把握出来たからですが、釈迦の言っている事を理解出来るようにする事が大変に難しい事から、釈迦が一切の苦しみから解放されて、2,600年を経た現在に至っても、釈迦の教えの神髄さえも余り知れていたり、行き渡っているとさえも言えない状況になっています。

この日本に置いて、最大仏教宗団である『曹洞宗』に置いてさえも、『最大の癒しの心理学としての、極意である見性体験』などは存在して居ない、などと『大学との間で論争を繰り返しています。』

又世襲と云うか、代々の釈迦の弟子を自任している人達の間でも『悟りとは何か?』を知っている人の方が遥かに少ないようです。

では、悟りに付いて説明します。

悟りに至る為の必要事項は、『一切皆苦』です。是は今の時代なら『鬱や神経症や恐怖症や不安障害や、心配性でも強迫行為でも強迫障害など』と云った心疾患に苦しんでいる事が必要かも知れません。

その理由ですが、心に苦しみを抱えている場合では、自分の心に疑いを抱いているからです。宗教的に有能な能力がない者でも、悟りが開けるようにと禅では大変な工夫がなされて来ました。

その禅で考案されたものに禅問答と云うものが存在しています。この禅問答の内容を説明すると少し解るかも知れません。

禅問答が出来た心的な背景を説明します。禅問答は『分からないものの代表格』と云っても良いと思います。その理由は簡単です。人間の自意識では理解出来ない様に作られているからです。

その理由は脳の構造上の問題だからです。

普通では、人間の脳内には自我意識が単体で住んでいると思われています。

是は大いなる錯誤です、自我意識の他にもう一つ意識が存在して居ます。それが本題である『仏性です。』悟りを開くと云った対象のものです。

或いは自性を徹見するという場合での、対象物です。言い方を変えるなら『命を働かせている意識』と云っても良いです。

脳科学で説明するならこうなります。ウイキぺデアからです。

”ロジャースペリー 分離脳
ノーベル賞受賞者
受賞年:1981年
受賞部門:ノーベル生理学・医学賞
受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究

ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球がそれぞれ独立した意識を持っていることを実証した。”

この中に書いてある、右脳の意識が人間の生命の維持機能です。言い替えるなら『命の働き』です、『仏性』です。

この意識と出会う事を『見性』=『悟りを開く』と表現します。そしてその体験を『手から手へと直に手渡しで伝えられてきたものが』”禅”と呼ばれてきたものです。

釈迦の心を直接『手渡しで伝えてきた』処から仏心宗とも呼ばれているようです。ところが、鈴木大拙博士が存命中には、インドでも中国でも、絶えて無くなって久しいと云っていました。

本題に戻します、人種を問わず人間は言葉を持っています。この言葉を使う機能が左脳の人格になります、自意識という意味です。

処が右脳には、言葉が存在して居ません、言葉が存在して居ない世界は、ものが、未分化の世界という意味があります。

この未分化の世界とは、無限という意味があります。従って右脳の意識には無限=永遠の意味を理解していると云った意味があります。

死に対する不安の為に『心疾患』が発症しています。また人間には憧れとして永遠の命を希求する場合がある様です。この憧れは『右脳の永遠性を憧れているためです。』

禅問答の話に戻るなら、右脳の言葉を持っていない機能からの文章が、禅問答になっています。

悩みとか苦しみは、何処から押し寄せているのかが知れない、得体の知れない漠然とした不安が大きな要素になっています。

この不安を感じさせている者が、無明に拠る苦しみの原因です。キリスト教に置いては原罪と呼ばれいているものです。こういった苦しみから救われる事を、キリスト教では『知られざる神と和解する事』を意味します。

脳内での出会いによって『心の矛盾を解消させることを意味しています。』

仏教でも同じです。無明の闇を追い払って、心同士がお互いに手を取り合って生きて行くなら、例え今正に死の淵で、命絶えようとしていたとしても、多幸感でいっぱいになっています。

死に往く人が、心からの笑顔でいられる理由が此処に在ります。

死の淵でさえも『多幸感でいられるなら』命在る場合では尚更です。』

釈迦のメッセージはこう云った事だと思います。『究極なる心の癒しの心理学と云われる理由です。』

死の淵から生還した、女史がその、多幸感に付いて語っている動画です。

是は1/2ですので、2/2も探して見て頂けるならもっと良

く理解出来ると思います。

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この回答へのお礼

この動画のはなしが、幻覚等でなく真実ならば、これは大変な発見ではないかと思いました。は初めて聞く話だったので。

お礼日時:2021/01/31 04:05

他者の言葉を自らの糧にできることは素晴らしい。

言葉を聴いて、自らを省みて道を堅固ならしめる人を賢者と言わずなんと言おうか。
語られたこと以上に智慧を深めて道を見出さんとする人、この人は立派な修行者に違いない。

お話をして甲斐があることは難しい。尽くしても、大概が棒に振られる。
だけれど、今回この様に甲斐を得ることができて大変良かったし、嬉しく思います。
尊敬すべき友は得難い。
今日、私はあなたを尊敬します。
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この回答へのお礼

このように、真っ直ぐに褒められると照れますね。

何年か前に、同様に私を真っ直ぐに褒めてくれた人がいました。からかっているわけでなく、本心からだと思いましたので、私は彼女のことを本当に素敵な方だと思いました。

何故かならば、人の長所を見たときに悲しいかな、嫉妬をして認めないばかりか、引きずりおろそうとさえする人が多いのに、仮に一時的な感情であったとしても、その長所とそれを持つ人間を尊崇する心を持っていると思うからです。それを歓び、それによって気持ちを高ぶらせる純粋さを捨てていないからです。

そういう人とこそ付き合いたいですね。友と呼ぶに相応しい人です。
キサラギさんに私の大好きなエマソンの詩の一節を贈ります。

私の胸は言った おお友よ

君ひとりゆえに 空は晴れ

君ゆえに バラは赤く

万物は君ゆえに その姿は気高く

この世ならぬものに見える

宿命の水車の道も

君の貴さゆえに日輪の大道となる

君の高潔さは私にも教えた

私の絶望を克服すべきことを

秘められた私のいのちの泉は

君の友情ゆえに美しい

お礼日時:2021/01/26 00:39

> 本当の自分を発揮するはじまりであると、そのように理解しています。



間違いない事です。それは完成です。
そして、完成というからにはそれは永遠であり続きはありません。
汚れて百年生きるよりは、浄らかに一日生きることの方が優れている。
修行時代に描いた何千枚の絵のどれもがかけがえのない試行錯誤のものであり意味も意義もあるが、修行時代を終えて画伯となった時に描く一枚の方が、過去作品のどれよりも普遍的に優れていてかつ確固たる個性を湛えている。

自分の本心で生きられる様になるとは、そういうことに似ていると思います。
その時人は過去を全て乗り越えて、完成した一歩を踏み出すのだと思います。

ニャンポコさんが限界を感じるというのはわかる気がします。そしてその原因を社会に見るのも理解できる。では、荒れ狂う時代に生まれたならば人は解脱できないだろうか?文明の廃れた時代に生まれたならば解脱できないだろうか?

私は、原始時代でも現代でも、未来でも、その本質の通るのが解脱であり作仏であり覚りであると思います。

ニャンポコさんがこの時代、この社会に生きていると言うことは、そこに因縁があったと見るべきではないでしょうか。
いや、因縁に縛られるべきではないのですが。。

例えば親友は選んで作るものではありません。出会いによって出来る。
生まれる時代や社会も、そうなのではないだろうか?と思いもします。

その様に生きると言うそれだけのことが難しい。
僕も月曜日になればきっとまたいつものデスクに向かうだろう。肚が決まってないと言われても言い訳はできない。
けど、何よりも言い訳できないのは自分に対してと言うことになる。
自分の人生を、最も近くで一番見ているのは自分だから。
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この回答へのお礼

「人身は受けがたし爪の上の土・人身は持ちがたし草の上の露、百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」(日蓮)

仏教では「末法」を説いています。そのことは子供のころから知ってはいましたから、ある程度は覚悟していましたが、大きな勘違いをしていました。
自分を高みに上げてしまって、楽な気持ちになるべきではなかったということです。

そういう時代で希望とか理想を捨てないという生き方は、寂しくて苦しいものなのだという覚悟が足りなかったと思う。
因縁があって生まれてきたのは間違いないことですから、そこで生き切ることですね。

お礼日時:2021/01/25 01:18

>溌剌たる青年が、気が付けば利権のとりこになっているとか、現実の厳しさに負けて愚痴の人生になっているとか、そんなことばかりですよね。


時代が悪いということは、そういう悪い縁ばかりが周囲にあふれているということです。そこが、極めて難しいところである、と。<

その様なことも多いですね。現に私も、そういうところは少なからずあります。しかしそれ以上に、目は澄んできています。

私は最近、”なんで?”を問うようにしています。自分の考えていることに対して、なんで?なんで?と繰り返し問うのです。

すると、”なんで生きないの?”という答えが出て来たんです。

このサイトでもそうですし、私も前回回答で言いましたが、なぜ生きるのか?という問いは、あくまで問いです。答えを求めている。しかし、なんで生きないの?というのは、生きればいいじゃない、やればいいじゃない、という、解決の言葉であると思うのです。この答えを胸に抱いて日々を過ごすことで、次第に難しい所から抜け出して、当然のように生きられるようになるんじゃないかと、私は予感しています。

>ところで、キサラギさんは「涅槃」ということをどう定義していますか?

やりたいことをぜんぶやった、清々しい境地だと思います。もう思い残すことが無いという状態。つまり、想いが尽きた状態です。解放と言っても良いと思います。そこには何も無いわけでは無くて、むしろ全てが完成しているのではないでしょうか。

仏教的に言うならば、菩薩が立てたその誓願が果たされた時、仏になる(=涅槃に到達する)のだと思います。

それは、大いなる安らぎとか、しあわせの境地とか、一切苦悩の終わりとか、色々伝え聴くところではありますが、私にとっては、”解放”とか、”完成”と言う事になります。

勿論、このやりたいこととは、やったけどつまらなかったとか、おもしろそうだから、とか、そういうことではなく、自分が心底に望んでいるやりたいと思っていることです。本心の事です。そしてこれは、ニャンポコさんの別質問の、”自分と他者の関係の本質”にも大いに関わっていることです。つまり、この世に自分一人しかいない場合と、他者もいる場合とでは、この、”本当にやりたいこと”の実際の在り様は変わってくる。そして私どもは、後者の場合、他者も存在している世界を生きているのです。
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この回答へのお礼

自分の哲学を持つということは、真理を得たということになります。
皆が共有している常識を、それとするなら、何の葛藤もなく楽チンに生きてゆけます。

ところが、常識から離れたものや、反するものであった場合、その哲学に生きるのには大変な勇気が必要だと思います。

私も、逡巡やら怖れやら混乱やら疑いやら諦めやらがありましたが、結局止めることはありえない、という一点で踏みとどまっていたと思います。
その度に研ぎ澄まされてきたと思っていますが、限界も感じています。
それは、自身の限界だけでなく、社会の限界です。私が仏道を求めたのは、そのためです。

私が信奉する哲学では、涅槃のことを成仏といいます。それは、仏道修行の末に自身の本質が仏であることを悟る、そして、仏界を定業化することであると。
ですから、その状態は終わりではなく始まりである、と。本当の自分を発揮するはじまりであると、そのように理解しています。

お礼日時:2021/01/22 23:30

> 真実の存するところとは何処なのか?そこを目指す気持ちを持てるのか?維持できるのかは、極めて難しい問題であると思います。



私は教えよりも道を重視します。何故なら教えとは、道を尋ねた人に対する答えのことであるからです。

真実の存するところへは道によって到達します。私はその様に確信しています。

絡めて話すならば、
4.私の考える仏教とは、仏道とその目的地について述べたものであり、その目的地は涅槃です。またその道は仏になるための道であり、その道を通っては仏以外の者になる事はおそらく出来ない。書家になるのに書道を歩み、画家になるのに画道を歩むのと同じです。仏になるのには仏道を歩む。仏になるための道は仏道の他には無い。しかし道は他にもある。仙人になるためには仙道があり、聖者になるためには聖の道がある。数多の宗教が、自らの教えの示すところが真実最高に素晴らしい道だと説く。これらはおそらく同じでは無いが、全く違うものでもなく、幾らか共通の部分もあると考えられる。ゆえに人は思うだろう。果たしてどれが最高の道なのだろうか?と。

その最高の道は無上道と言う。また、大道とも言う。そして仏道の実態は、この大道なのであると言うのが、仏教の主張だと私は認めている。大道の様子は、例えば車が走るような線状ではなく、どちらかと言えば海の様である。どこまでも平らかであまりに広いので、どちらへ行けば良いのか迷う人も出る。そこで人は羅針盤を持たねばならない。この羅針盤が、いわゆる徳にあたる。徳が完成した時、人の心は直くなり、羅針盤をチェックする必要はなくなる。直き心の人は自由に振る舞ってしかも道に迷う事がなくなる。維摩教ではこの直き人を菩薩と言う。

ところで私はこう考えています。仏道が海のような大道だとしたなら、他の道はなんであるのか?それは、他の道もやはり、大道なのです。その訳はこうです。
海には地上や地下を流れる無数の川が注ぎ込んでいる。この川が、つまりは世に存する無数の道なのです。
その無数の道は皆、大道(海)に至る。それで、その全容をもって、道の有り様と為し、これを真の道と言うのだと思います。

しかも、川の水は皆、天から降り注いだものであり、天の水は主に海洋から龍の体を通して引き上げられたものなのであります。ならばどう言うことか?
未だ川にすら至らない雨粒でさえ、それは"一滴の海"なのです。

人は道の人を尊敬し、道を極めた人をさらに尊敬する。道を目指す人を応援し、道を外す人を貶す。しかし、本当の意味ではこの世には、道を外れる人などいない。つまりそれはどう言う道かと言うと、人の心の真実と言う名の道なのです。人は心から、悪に染まりたいと思うことがない。人は皆、苦悩から逃れたいと思っている。そのように思っている者が人なのであり、そしてまた、真性に黒い人も居なければ真性に白い人も居ない。真性とは須く透明であるからです。(日本では古くから、透明のことを白と呼ぶと聞きます。この表現はかなり秀でていると思います。)

ただ、少なからずの人、いや、多くの人は道の真実の在り様を知らないので、自分の本性が海であるのに、風によろめき日に乾く、自分は儚い一つの小さな雨粒であると思っている。

人は思う。どのように生きれば良いのか?答えは何か?と。
答えは、自身に問うて、好きな方にゆけば良いのだと。自分を信じて、行きたい方へ行けば良いのだと。私は思う。素直になって、進むだけで良い。それで人は皆しあわせに、例外なく、望んだ以上の、遥かに優れた所に到達できるだろうと。

だが、それが常に、人にとっては難しい事であるので、人は苦悩するのでありますが。

嫌な人とも付き合わないといけない、嫌な仕事をしなければいけない、嫌な自分で居なければならない、死にたく無いのに生きるのがつまらない、そのように思う人は、何故?を問うべきです。何故と問いかけ続けるなら、何故生きるのか?と言う問いに行き着く。そこで問うと良い。

自分はこの生で、本当にはどうしたいのか?と。
どのように生きたいのか?と。

そうすれば、次第に道に近づき、間もなく至る。自分の中に道があることに気がつく。

慧能は言う。外に仏を求めるのでは、のんびりに過ぎる。と。

道を求めるのも同じです。

2.キリスト教は、神に至る道だと私は認識しています。神とは全一者の事です。全一者の他に存在はないので、これは包括者と言って良い。そして人は啓示によって神の言葉を聴き、世の真実に通徹する。その真実とは、人はその内において神に包まれていると言う真理です。意味的には一滴の海の譬えと似ていると言って良いと思う。ただし、このような解釈が直接的に聖書に書いてあるわけではありません。私の解釈です。

3.イスラム教についてはほとんど知りません。建築が素晴らしく、偶像崇拝を禁じているためにカリグラフィーや文様が発達したと言うことくらい。ただ予想ですが、かなり深い哲理が存在してそうな気はします。何故なら、神を偶像化しないと言うことは、見かけの姿ではなく言葉や意味によってそれを追求している面が強いと思われるからです。それは真実の追求にあたっては本質的な態度だと言えます。ただ、カリフ制度とは何なのか疑問はあります。言及するほど知らないので、なんとも言えないところです。
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この回答へのお礼

大いに語っていただきました。

「教え」とは、神仏の教えから、学者・成功者・芸術家、職人の親方の教えまで、様々あり、「道」とは、各々が持つ「人生観」と言ったもので、どの教えを取り入れるか、参考にするかを含めて、自由にカスタマイズするものであるということでしたら、全く道理であると思います。

以前、どこかで語ったかもしれませんが、私は宗教という名称のものも、哲学という括りのものも、あらゆる思想、人生哲学つまり「教え」ですね、これを一括りにできると考えています。
それは、すべてが結論を持っているということです。結論とは西洋哲学で言う「存在」です。そこに至っていなくても、それに代わるものがつくられてゆくであろう、と。

例えば、私の父はペンキ屋の職人だったのですが、彼の教えは、職人としての技術の先に、「俺の人生は、家族のために仕事を一生懸命やることだ」と。
それが、すべてと考えていたかどうかは分かりませんが、そうだとするならば、そう信じていたとするならば、それが、「存在」にまでなると思います。

ですから、人の定めた「道」は、既存の「教え」をそのまま採用するにせよ、多少アレンジするにせよ、哲学が同じとは限らないので、同じ所へ流れ込むとは限らないと、私は思います。

キサラギさんは求道者だと思います。私もそうであると自負していますが、いつどうなるか分からないというのが厳しい現実であると思います。
溌剌たる青年が、気が付けば利権のとりこになっているとか、現実の厳しさに負けて愚痴の人生になっているとか、そんなことばかりですよね。
時代が悪いということは、そういう悪い縁ばかりが周囲にあふれているということです。そこが、極めて難しいところである、と。

ところで、キサラギさんは「涅槃」ということをどう定義していますか?

お礼日時:2021/01/21 12:53

たしかに、3000ってキリが良いのか?


悪いのか?

( ̄~ ̄;)

現代だと、三権分立てな言葉からして
3って微妙な感じもするけど

不思議ですね( ^∀^)(笑)
「宗教の定義」の回答画像17
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この回答へのお礼

3・5・7の奇数って、何か不思議な感じ。

お礼日時:2021/01/20 10:54

その「唯一の方法」とは何ものであり、何故そうなり得るのか?



簡単に言うと
自身の心を、精神を、生命を輝かせれば
慈悲を体得する事ができ、菩薩・仏となれるのです

自分を磨くしかないのではないでしょうか
どのように磨くのか、それは
生命が最高の宝とするならば
最高の宝で磨くしかありません
ダイヤモンドはダイヤモンドで磨くのです
我生命も生命で磨くしかないのです
我生命を磨くダイヤモンドこそ
仏の生命である「本尊」ではないでしょうか

本尊を次々変える宗教
一年で効力を失うと言う宗教
キーホルダーにぶら下げる宗教
車のボディに張り付ける宗教
中にはデスカウントで売っている場合も
又、何でも拝んでしまう宗教も多いです
つまり
本尊が分からないのですね
つまり宗教が分からず、初詣にクリスマス、教会での結婚式
違う本尊でも関係なく札所参り
ミソクソめちゃくちゃですね
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

助かりました

宗教には祈りの対境として、必ず本尊(仏教用語?)があります。
キリスト教であれば、十字架、キリストの像、マリアの像などで、仏教では、仏像、曼陀羅などで、これらの本尊とは何かと言えば、その宗教の哲学の結論、西洋哲学的に言えば、「存在」の表現ということになると思う。

キリスト教では全知全能の神です。仏教では、阿弥陀如来であったり、大日如来であったり、様々です。
また、天照大神であったり、キツネであったり、ヘビであったり、するわけですが、すべてその本尊を存在と信じて祈り、願いを託す、と。

また、宗教には、南無阿弥陀仏、南無妙法蓮華経、アーメンなどの、真言宗的に言えばマントラという言葉が付き物です。
これらは、その存在を信じ尊崇しますという誓いの言葉のようなものと理解できます。

日蓮仏法では、存在の表現である本尊に向かい、題目を唱えることにより、自身が本尊に冥合してゆき、研かれてゆく、と。
それが「唯一の方法」であると。

お礼日時:2021/01/18 21:07

広さと狭さ


大きさと小ささ

人が集団になるのも
小ささを補う為でありますもんね
確かに真理ですね
(  ̄▽ ̄)にっこり

仏教の面白いところが
広さをちゃんと定義してて
何億後年先から、みたいな話って
多いですもんね

現世の広さを無量大数なんて説いてるところも

世の中ってでっかいんだぞ~
さらに
死んでからも、いろいろな階層を説明してて
輪廻の話なんかも

((o(^∇^)o))

キリスト教みたいに、死んで神の元
楽園に向かう

てな考え方と、突き詰めたら同じように解釈できるけど

より、現実の広さを語り、輪廻の大きさを語るところが

素敵ですね

大きさものや広いものにたいして
個人として、どうあるべきなのか?
なんてなことから

個人よりさらに小さいところに
踏み込むのも
東洋的な発想なのかも?( ̄~ ̄;)

西洋は、争いの歴史だから
明確な目的てのがあったと
個人的に思ってて

東洋も争いはあったけど
日本だと、争うのは武士なり大名なり
専門職に任せてましたもんね

争いより、個人がどうあるべきなのか?
現世では、お上にまかせて
来世や死後!
それに加えて、個人よりもさらに小さい
ミクロな在り方なんかが

気脈や禅なんて、特にミクロな話ですもんね

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

三千大千世界、なんてのは空間的広大さの表現で、三千塵点劫は時間的長大さの表現。
一念三千は、ミクロな話と言えるかも。

何故かみんな三千ですね(^◇^)

お礼日時:2021/01/18 20:20

●極楽浄土と地獄


地獄や天国は、実はこの現実の世界にある事ぐらい
少し高度な経典を読めば、簡単にわかるのです
鎌倉時代の日蓮は、法華経を通して結論しています
「抑(そもそも)地獄と仏とはいづれの所に候ぞとたづね候へば・
或は地の下(地獄)と申す経文もあり・或は西方(極楽浄土)等と
申す経も候、しかれども委細にたづね候へば我等が五尺の身の内に候とみへて候」
と、つまり自分自身(生命)の中に極楽も地獄もある、と言う事なのです
よく「十界回論」等で語られる、仏教の初歩的知識です

●人間精神の改革が仏教の信仰により可能・・・・
何を変えても、一切を動かしている「人間」そのものが無慈悲で、
利己主義のままでは、世の中がよくなるわけがない

仏教の生命論は深く
生命活動を立体的、流動的にとらえています
生命の機能 本体 可能性をも解き明かされています
更に生命の個別化の原理、個性化の原理、深層の究明等
これ程まに生命の真実の実態を明かした哲理はありません
そして、人間生命の根本的な問題を明かし、それを解決する
「唯一の方法」を示しております、

宗教をを判別する手掛かりに「死」をどのようにとらえるか
と言う事が一つ、重要な事かと思われます

宗教別に死を考察
http://rokusann.sakura.ne.jp/newpage21.html#rabe …
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この回答へのお礼

釈尊は法華経において初めて十界の存在を明かした。
法華経を最も理解したと言われる天台(智顗)はそれを十界論として立論をした。
日蓮もその十界、十界互具、一念三千、更に理の一念三千、事の一念三千という哲学を説いている。
簡単に言えばこういう風に理解しています。

つまり、釈尊の仏教も日蓮の仏教も、自分自身の中に地獄も天国もあるという哲学であるということですね。

十界論で言う「六道」中心の人間の心の状態、つまり「六道輪廻」では、エゴを脱却できず、良い世の中にはならない、ということは私も経験上痛いほど納得できます。

それが、四聖中心、あるいは菩薩・仏中心の心の状態になれば、どんなに素晴らしい社会になるであろうと思いますが、その「唯一の方法」とは何ものであり、何故そうなり得るのか?ということになってきます。

お礼日時:2021/01/17 23:38

1の人の集まりてのは


ひとりで宗教だとのたまっても
他人に与える影響はないですもんね

他人とわかり合うための、集まりであるべきだと思ってますよ

なので、5にあげた個人を大切にしない集まりなら

1の集まる意味や意義を、見失ってますもんね


4の広さって定義したのは
死後の世界観なども含まれるから
死後が含まれるなら、当然!前世や来世もね

なおかつ、最小の小ささってのも
すべての広さを認識するであろ
人の魂を、さらに
業や欲や煩悩などなど
魂をさらにこまかくしてる感じも
((((;゜Д゜)))
言葉にすると怖いけどね

だからこそ、つつがなく生活することの意義を見いだすのかと

悟りって!( ̄~ ̄;)

こんな感じの補足ですよ
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この回答へのお礼

人が何で集まって集団を作るかと言えば、アリや蜂の集団と同じで、個が恩恵を受けるためであると言えると思います。
宗教の教団に限らず、人は集まるもの、というのは「真理」の一つと言えると思います。

三世の生命観、死後の世界を空間的「広さ」と捉えたわけですね?
また、精神というものの複雑さの一つ一つをミクロの世界と想像できたわけですね?

お礼日時:2021/01/17 23:08

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