「物質は目的を持たない」
「人間は物質である」
「だから人間には目的がない」
という論法で人間には目的がない、という主張を以前よく目にしました。
哲学には「目的論」という分野があって、それは、
「人間を含む諸存在が、(究極的に)どこに向かって(何を目指して、何(どのような状態)を達成・実現すべく)存在・活動しているのか」
を研究するものである、ということです。
1.目的論において代表的な説はどのようなものがあるのでしょうか?
2.人間には本質的に目的が「ない」と思いますか?その論拠は?
3.人間を含む諸存在の目的があるとすれば、それは何だと思いますか?
4.その他、関連することなんでも。
A 回答 (21件中1~10件)
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No.21
- 回答日時:
目的論
( ̄~ ̄;)悩み
破滅しないこと!
滅亡しないこと!
滅亡するなら、綺麗に滅亡したい?
なんか、いくら悩んでも
この回答になるんですよね
人生なんかだと
何かしらの目標をクリアーすると
次の目標を設定するのが
おきまり事みたいで
社会や世の中なんかも
何かしら流行っては、消えて!流行っては、消えての繰り返しですもんね
で、考え方をちょいとかえて
人間だけに、何かしらの目的があるのか?
なんてな考え方をすると
他の生き物は目的が無いの?
てな事が頭をよぎって
そうなると
子孫繁栄や、種族の保存なんて事柄に繋がるんですけど
人間だけ、子孫繁栄に拘り続けて
人口増加が問題視されてますもんね
野生動物や野生の植物って
人間ほど増えすぎて無いのが現実で
ある態度、調和がとれてますもんね
調和がとれてる証拠に
人間が絶滅させた、動物や植物って
かなり多いですもんね
人間って、利己的だから
このバランスを意識しなかったみたいで
今の時代だと、環境に対しての意識ってありますもんね
なら、環境との共生が目的なのかと考えてみたら
( ̄~ ̄;)地球にしても!太陽にしても
永遠ではない
てな話もありますもんね
始まりがあれば、終わりがある
終わりがあるけど、終わりたくない
終わりの回避てのが
やはり、人間の目的かと問われたら
( ̄~ ̄;)悩む~
全体のことから、個人に視点を戻して
人間が不死になったら、悲劇しか想像出来なくて
人の一生や人生って
死ってなことがらで、キチンと終わりが用意されてますもんね
なら、なるべく綺麗に死にたいもんだと
物質的な綺麗でありたい
精神的な綺麗でありたい
綺麗ってな考え方は個人差あるけど
自分自身で納得する綺麗であって
他人の評価にとらわれない
綺麗でありたいとは、思うんですよね
釜茹でにされても
「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
ある意味、綺麗な死に方なのかも知れないですもんね
纏まらないまま回答にm(._.)mお許しを
哲学の究極の一つは、終わりがあるのかないのか、だと思うんです。
終わりがあるということは、始まりがあって、つまりこの世は有限であると。
終わりがないということは、始まりもない、ということで、つまり無限であると。
このどちらかによって、現在の意味が全く違うものになってくる。
目的観というものも、全然違うものになってくると思います。
しかし、一般的にはすべて有限ということが前提になっています。
それに異論ありなのですが、論と言ってもこれが難しい。
綺麗な死、ああ、そうですね。有言実行、言ったこと全部やってから死にたいですね。
No.20
- 回答日時:
回答に上げた「人間原理」は物理学者が提唱したものですが物理理論ではなくどちらかと言えば哲学的な理論です。
「人間原理」は人間の根源的な存在目的に応える為のものでその目的とは「宇宙の存在証明」です。よって「人間原理」では「ヒトは宇宙の為に存在している」となります。
オマケです
私個人の考え
全ての存在のその存在目的は新たな形象や構造を実現です。
自然において実現し得る形象や構造に限りがあることから、その限界を超えて新たな形象や構造を実現させる為に生命体が誕生し、生命体で実現し得る新たな形象や構造に限りが有ることからその限界を超えて新たな形象や構造を実現させる為に知的生命体が誕生したと考えています。
因みに知的生命体であっても既存の知的レベルでは実現し得る新たな形象や構造に限界があるように感じられる事からそれを超える為に知的レベルを人工的に引き上げようとしています。それが脳と機械の融合です。その機械の事を「ブレインマシンインターフェイス」と言います
なるほど、いかにも現代哲学という感じがします。
先日、ジャック・デリダの「差延」という概念を知ったのですが、どうも観念の遊戯的で、しっくりこないものを感じました。
日本でも、落合陽一氏などの若い世代が、哲学的なことを提唱していますが、当然のことながら、現代哲学に強く影響されているようです。
私の拙い哲学的知識は、中世で止まっているので(笑)、よく知っていこうと思っています。
ムカリンさんのお考えも、超唯物的で、現代的であると言えると思います。私は、精神というものを考えなければ物事の半分しか考えていないと思います。
動物ですら、その精神の世界は科学的に未解明であり、況や人間をや、です。
人間の精神・心理の科学的解明は、何百年か前のユング・フロイトの域を全く出ていないと思います。
私は一般大衆の哲学愛好家として、あれこれ考えていこうと思っています。民主主義においては一般大衆が主人ですからね。
No.19
- 回答日時:
人生の目的
人生の帰趣否、人生の目的は先に述べた如く、動機から云わば、自己の奥底に伏蔵せる性能を遺憾なく発揮して真実自我、即ち霊我実現的に最善の努力するにあり。人が未だ奥底の霊性開発せざる程は、その理想もまた希望する処も相同じからざらん。
然れども最高等に進み心霊開発し霊的生活に入る時は、各自が自然に一致するならん。然れども意識の階級よりまた意向の如何により、人生の目的観も必ず同一ということは出来ぬ。人類も一切衆生と共に生物であるから、動物の進化した高等動物であると云うも、仏教では敢えて拒まぬ。
然れども人類としては万物の霊長とまで特等に発達したる身を受けしは、実に幸福の極みである。この幸福と云うは動物欲を恣(ほしいまま)に耽る為でなく、自己の伏蔵を遺憾なく開発して真実の自我を現すことの出来ることを意味するにある。人類も動物である。もし人生帰趣の光明を自覚せざらんか、ただ肉の奴隷となりて暗黒に堕するを免れず。
生物が極劣極小の状態より、数千万代に渡りて専心努力の結果とし、また宇宙の大法に随順した生物が選択せられて、即ち伏能の霊性を顕現せんとのミオヤの法則に叶う系統が、正統として幾多の階級を経て遂に人類に進化したり。人類もまた大法に随う者は野蛮より文明に進みたリ。
(人生の帰趣 岩波文庫65頁~66頁)
※ 途中ですが長くなるのでここまで。しつこいと思われたくないので投稿もここまで。どうぞ目を通してみて下さい。
No.18
- 回答日時:
量子論によれば「量子(素粒子)は観測される事でその状態が確定」する。
この「状態」を「存在」に置き換えると「量子(素粒子)は観測される事でその存在が証明される」となります。次に量子(素粒子)を「宇宙」に置き換えると「宇宙は観測される事でその存在が証明される」となります。これを「強い人間原理」に当てはめてみます。その前に「強い人間原理」について説明します
「強い人間原理」とはオーストラリアの理論物理学者ブランドン・カーター氏によって提唱された宇宙論でその内容は
「知的生命体が存在し得ないような宇宙は観測され得ない。よって、宇宙は知的生命体が存在するような構造をしていなければならない。」です。
これに「宇宙は観測される事でその存在が証明される」を当てはめると「宇宙が自らの存在を証明するには宇宙を観測する知的生命体が必要、よって宇宙は知的生命体が存在するような構造をしてなければならない」となります。
以上から知的生命体である「ヒト」のは根源的な目的は「宇宙の存在証明」となります。
このことから「宇宙が自らの存在を証明する為に宇宙を観測する知的生命体が誕生するように進化してきた」となります。
例えば「状態」と「存在」の概念は数学的記号よりも複雑な内容を持っているので、この二つを単純に置き換えて、同じ結論に至るということに妥当性があるのか、などと思うので、論旨には賛同しかねますが、結論については「そうかも知れない」と思います。
人間のような知的生命体は、一つの銀河宇宙に一か所しか存在しない、という説があるそうです。とすると、人間というものは。地球の頂点ではなく、銀河系宇宙の頂点の存在であると。
それも、そうかも知れないと思う。人間の知力、精神性などの能力がずば抜けていると思うからです。
今の文明など、実は幼稚極まりないのかも知れません。物質に偏らず、哲学的に「幸せ」を追求していったならば、物凄い幸せを手に入れることができるかもしれないほど人間の能力はすごいと思う。
だから、あらゆる生命体が、人間を目指して進化しているのかも知れません、
すべての銀河宇宙で。
No.17
- 回答日時:
弥陀の本願
大原談義に云はく『弥陀は十方諸仏の慈悲の體』と示され、実に弥陀は諸仏慈悲の體たると共に、一切衆生の大慈父に在(まし)ませり。大慈悲を體と為(す)る弥陀は、一切衆生が本覚の身許(みもと)を離れ遠く迷妄の佗郷(たきょう)に彷徨(さまよ)ひ、生死極まりなく輪廻休むことなきを愍れみ、迹(あと)を法蔵の因地に垂れ、独り超世の願を建てゝ六道貧窮の衆生の為に、大施主と為りて永延無窮の大安に濟(いた)さんと誓ひ給ひぬ。この一々の誓願は、悉く衆生を摂取して自己と同じく仏道を成(じょう)ぜしめ、永恒常住の涅槃に入らしめんとの願望である。
故に知る本願とは便(すなわ)ち、大慈の父が一切の子等をして、自己と同じく無上の仏位に成らしたいとの願望である。
例えば世間の父たるもの、我が子に対する目的は那辺に存すと云はば、その子を成長させて第二の我とし、吾がすべてを譲り、その位置を紹(つ)がせたき処にある如く、苦海に沈淪する衆生を愍れみ、いかにかして伏蔵せる仏性を開き、仏子の真面目を顕(あら)はし、父の全(まった)き如くに全からしめ、光明永(とこしへ)に輝く涅槃の霊界に帰復させたいのが、弥陀慈父が、一切の子等に対する願望である。云い換えれば弥陀の本願とは、衆生をして仏子仏心全き人格たる仏(ほとけ)に成らしめんとの望みである。
「光明の生活」163頁~164頁より写しました。
ニャンポコさんへ贈ります。
No.16
- 回答日時:
>肉を食うということに関していえば、生きてゆくのに必要な分だけをありがたくいただき、食を堪能するという手段に用いてはならないということではないでしょうか?
カントが理想と信じた「目的の王国」では、
肉を食う時は肉を食うことを目的として食うべきあり、
肉を食うことを「生きてゆく」など、他の目的の手段にするべきでは無い、ということになります。
もちろんカントは「肉を食う事」とテーマに論じたたわではなく、肉を食う事は、カントが定めた「目的の王国」を私が敷衍した事例です。
カントが生きた時代に、とくにカントが生きたキリスト教の社会には、動物に関する倫理は無かったので、カント本人は人が人と関わる局面で人間関係を手段にしてはいけない、人間関係は目的でなければならないと考えたのだと思います。
No.13
- 回答日時:
愛する他者の死に直面しても、人がなお生き続けなければならないと自己に命じるのはなぜか。
これが、本稿の議論を導く最初の問いであった。
愛する者の死という苦しみにも、何らかの意味づけを行うことができれば、たしかにその悲しみは、我々にとって少しは耐えやすいものになるかもしれない。
レヴィナスも、社会における慣習が、死の衝撃を和らげる役割を持つことを認めている。
ヘーゲルが論じたように、葬儀という儀式は「死者を生きた思い出に変え」、生き残った者たちが思い出と祈りによって死者と関係を持つことを可能にする。 この時、他者との関係は、他者と私が同じ社会体に属するような社会での連続性と化し、死にゆく他者へと向かう「『他のために』という対他性は有意味な行動として穏当な仕方で生起する」ことになる。
しかし、こうした「思い出」によっても、なぜ愛する人が死に、私が生き残ったのかという「生き残り」として苦しむ生者の問いに、答えを与えることはできない。
死者の思い出に祈りを捧げるたびに頭をもたげるのは、その死を代わってやることができなかったことへの後悔と罪の意識なのではないか。
私はその人の死に責任があった。
私こそが彼の身代わりに死ぬべきだったのだという誇張された罪障感である。
「こうした触発、それは他者の死と係わりつつ、もはや応答することなき誰かに私が敬意を表することであり、それ故すでにして罪障性――生き残りたることの罪障性なのです」。
死にゆく者の「身代わり」として名指され、自分だけが生き残った「罪障性」から逃れられないということによって、「この私」の唯一性は際立つ。
とはいえ、私を強迫してくる他者は、決して私が死ぬことを要求するわけではない。
レヴィナスは、身代わりとは「贖い」であると繰り返し述べている。
主体性とは、「他者のために罪を贖うところまで責任を持つ」ことなのである。
それは、レヴィナスの言葉で言えば、《他者をひとりにさせないこと》である。
「他者の死に対する恐れと責任。たとえ他者の死に対するこの責任の最終的意味が容赦なきものを前にしての責任であったとしても。またそれが、絶対の極限において、他者をたったひとりで死に直面させてはならないという義務であったとしても、他者の死を恐れ、その死に責任を負わねばならない。...このような他者の死と対峙しながら、無力ながらも他者の死に立ち向かいながら、死という絶対の極限において《他者をひとりにさせないこと》、それは、私を召喚する要求に対し「われここに」(me voici)と答えることにすぎないかもしれない。しかしそれこそが、おそらくは、社会性の秘密なのであり、無償性と虚しさの極みにおける隣人への愛、肉欲なき愛なのである。」
愛する者を喪った絶望の淵にあって、人は、なぜ自分だけが生き残ったのかという自責の念に襲われ、自己の存在を投げ出して身代わりになることをすら望む。
しかし、そのギリギリのところで、死者に向かって「われここに」と答えなければならないという責任が、私が尚も生き続けることの意味を辛うじてつなぎとめるのである。
或る意味で、私が生き残りとして他者の死に向き合うことは、死という答えの出ない問いを問い続けることである。
それへと向かう志向性の充実が果たされることが決してない「他者の死」という特異な事象は、了解可能な地平に合理的に位置づけることはできない。
他者の死という事象において、我々は二重の把持不能に襲われるのである。
認識によっては接近できない他者の他者性において、そして、死という根源的に経験不能な虚無性において。
したがって、他者の死へと向かう問いは、それが「何であるか」という形では答えを得ることがない。
しかし、この問いは、それ自身が答えでもあるような問いであると、レヴィナスは言う。
「この問い――死という問い――は、それ自身が答えでもある。それは他人の死への私の責任でもあるのです。倫理的次元への移行がこの問いの答えをなしているのです。」
この問いは、決して魂と魂自身との「対話」ではなく、対話に先立つ「祈り」のごときものである。
それを問うということ自体が、同時に他者への倫理的責任に答えることでもある、そのような特異な問いなのである。
死という媒介を通じて他者へ向かうことが、いつのまにか自己の責任へと反転するような問い――問う者が問われる者でもあるような問いである。
この眩暈を催すような循環の中に、いわば狂気と隣合わせの自己同一性、最も受動的な主体性が現れる。
実際には、社会生活において死の衝撃を覆い、耐えやすいものへと変えることによって、生者を慰め、苦しみに意味を与える物語は無数に存在する。
しかし、そうした意味づけの物語の背後には、そもそも知によって把持することができない死の根源的な虚無性が横たわる。
私はただ、他者の死から問いかけられる虚無の無意味さに耐え、曝されることによってのみ、死にゆく他者への責任を果たすことができるのである。
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