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戦国時代に日本でキリスト教になった人たちはどういう経緯だったのでしょう?
特に九州が多いですが。

質問者からの補足コメント

  • 概要は皆、知ってます。

    そうじゃなく当時の実情ですね。

    今で言う新興宗教なんで、
    今の人が簡単に新興に堕ちないと言うの
    に、なぜ当時の人が?。かな

    No.1の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/01/24 01:11
  • 記載が無いので書きますが、
    昨日NHKで戦国時代の事やってましたが、
    武闘派仏教勢力に対抗の意味もあって
    大名が話しを聞いたとの事ですが、
    強制もあったと言うのは知らない事でした。

    それ以外では九州の先進性もあってとりこま
    れたのですかね?

      補足日時:2021/01/24 13:02

A 回答 (6件)

ペトロって変な修道士の行動、けっこう残ってますが、病院のような活動から、じょじょに宗教の話にもっていったそうです。


まずは、日本語の習得から。

有力者へ西洋の品を贈り、代償として布教を認めてもらう。
信長が本願寺などの仏教勢力を嫌い、彼らの嫌がることとして、教会をたてるなどの優遇措置をしてます。信長の勢力圏ではあまり普及してなかったみたいですが、西洋の知識やモノ目当てで宣教師の話を聞き、そのうちに布教に繋がっていったようです。領主が弾圧しない=信じていい宗教として、広がっていった。けっして強制ではなかったようです。
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南北朝から室町時代、戦国時代は、平安時代や鎌倉時代に築かれた文化的美学が崩れ去っていった時期で、時代小説を書かれていた司馬遼太郎氏も、南北朝は小説にならん、と、手を付けておられなかった。



戦国時代は、男の子を夢中にさせるような、一発逆転の時代です。力で近隣諸国をねじ伏せてゆく時代は、穏やかに暮らしたい人間には、非常に辛い時代であった。魂の救済が必要な人が多かった。

その心の隙間に入り込んだのが、キリスト教であったと考えられます。また、堺という商人の自治区もあり、西欧からの文物も輸入されていたようなので、キリスト教がおまけについてきても、不思議ではないです。

日本の宗教としては、天皇家は南北朝に伊勢神宮に斎宮を派遣することもなくなってしまったし、信長は、比叡山延暦寺を敵扱いです。禁止されるまでは、キリスト教は比較的安全な宗教であったように見えます。

九州や東北は、”中央”からの影響が及びにくい。南朝も菊池一族と結びついて、九州では最後まで頑張っていたようです。

江戸末期に、討幕運動の中心が、薩摩・長州であったのも、偶然ではないと思います。
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ご指摘の通り九州が多いのですが、大名がキリスト教に改宗したとします、


すると、その領民は全員、キリスト教に改宗させられます。
そして、領地の寺は全て教会になり、僧侶は全員、神父になります。冗談みたいな話ですが、それが実情です。
領民は、大名の所有物なので、これは当然の事と考えられていました。信仰の自由などありません。
急にキリスト教に改宗させられた坊さんが、キリスト教の教義を理解していたとは思えませんが、大した問題ではなかったのでしょう。誰もキリスト教など知らないのだから、理解が間違っていると指摘する人もいなかった筈でしょう。
ある意味、異教というものを知らなかったから、この様な事が可能だったと言えると思います。仏教とキリスト教はどう違うか知らないので、仏教の宗派を変更する様な感覚で、改宗が可能だった。しかし、キリスト教から仏教に戻そうとすると、キリスト教には異教という考えが厳格に示されているので、これは簡単な事ではなかったと。
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当時のカトリック教会は日本随一の権力者織田信長のお墨付きをいただき宣教活動が大手を振って出来た、信長も地球の裏側の話が聞きたかった、信長配下の大名が理にかなった教理を受け入庶民へと伝播、信長はカトリック教理を学ばせるために4人の少年使節団を送り込み1582年~1590年帰国、活版印刷機を持ち帰る、神父となって帰国、布教活動に従事。

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宣教師は布教に命を懸けていた。

実際に大勢の宣教師が布教活動中に殺されている。
あなたは布教に命を懸けられるのか?
布教される側の問題ではなく、布教する側の信念と覚悟。それが問題だろう。
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>特に九州が多いですが。


ポルトガルの宣教師フランシスコ・ザビエルが上陸したのが鹿児島だったからです。
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強い絆で結ばれた信仰
大航海時代に貿易の拡大を求めてアジアに進出したポルトガルは、1543年に日本へ到達し鉄砲をもたらしましたが、キリスト教もこの動きに合わせて宣教エリアを広げました。1549年8月15日、イエズス会宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸すると、翌1550年にはポルトガル船が初めて入港した平戸に赴き、領主・松浦隆信から布教を許されました。これが日本におけるキリスト教の歴史の始まりです。ザビエルが去った後も、残された宣教師たちによって布教活動は続けられ、その要請によって約20年後の1571年、長崎港が開港しました。
開港とともに、現在の長崎県庁があるあたりを先端とする長い岬の台地に新しい街が誕生しました。島原町、平戸町、大村町、横瀬浦町,外浦町、分知(文知)町の6つの町が長崎における最初の町でした。当時、集まってきた住民の大半がキリシタンであったといわれています。開港後には、岬の周辺は埋め立てられ、江戸町がつくられ、南蛮船が出入りする華やかなキリスト教文化が花開き、長崎は日本の「小ローマ」と呼ばれるほどの繁栄を遂げます。
こうして長崎と天草地方に普及していったキリスト教が、ポルトガルが進出した他のアジア地域や、スペインが進出したアメリカ大陸と異なるのは、これらの地域ではまず植民地が形成され、その過程においてキリスト教も強制的に広まっていったのに対し、日本においては植民地は形成されず、貿易船がもたらす利潤に目を向けた寄港地の地元領主が率先して洗礼を受けて「キリシタン大名」となり、その庇護を受けた宣教師が領内に居住し、領民との間に強い絆で結ばれた信仰組織が作られていったことがあげられます。
この回答への補足あり
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