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今、クリプキのWittgenstein On Rules and Private Languageを読んでいるのですが、そこに出てくるヒュームの私的因果の不可能性という概念がよくわかりません。

そこに記述されている内容の具体的に何が私的因果に相当するものなのか?よくわかりません。

簡単に説明できる方、よろしくお願いします。

A 回答 (5件)

まず用語を整理しましょう。


「私的因果」というのは、クリプキの用語です。ここではいったんヒュームと分けて考えます。

「因果」というのは、原因と結果、つまりヒュームがもんだいにしたのは、結果から原因が導かれるという考え方そのものです。
わたしたちは日常的にこの因果関係に従って考えています。

「グラスを落とすと割れる」、ということを考えてみましょう。
わたしたちはふつう、このことを「あたりまえ」と思っています。
この「あたりまえ」を、ヒュームはもう一歩踏み込んで考えた。

「グラスを落とす」というできごとにつづいて、「グラスが割れる」というできごとが生じる。これが何度も何度も繰り返すにつれて、「グラスを落とす」というできごとが生じるときはいつも「グラスが割れる」のできごとも生じると期待するようになる。
原因と結果という概念はこのようにして形成される。
このことは「習慣」という、人間の本性に深く根ざす原理に基づいている。
わたしたちが因果関係を信じ、帰納的推論を「正しい」とするのは、この「習慣」によってでしかない。
「グラスを落としたから割れた」という因果関係などどこにも存在しない。

ならばわたしたちが因果関係を信じているのはなぜだろうか。
それは「グラス」も「落ちて壊れたグラス」も世界の構成要素ではあるけれど、このふたつのタイプの出来事をつなぐとされる「落とすと割れる」は、世界の構成要素ではなく、わたしたちが習慣によって世界に「読み込ん」でいるからだ。
原因や結果という概念は、わたしたちが経験上、形成してきたわたしたちの態度を、世界の側に「投影」したものにすぎない。

これがヒュームの言う「懐疑的解決」です。
さて、これのどこが「解決」なんでしょう。実はあんまりはっきりしてないんです。
ただ、このヒュームの「懐疑的解決」は、哲学史的に見て非常に大きな意義があった。
というのも、アリストテレスが紀元前三世紀に論理学を整理して以来、西洋の論理のすじみちは18世紀にヒュームが登場するまで、ずっとこの論理学(演繹と帰納)に支配されてきた。
それに疑念をさしはさんだのが、ヒュームだった。そういう意義です。

ところがこのヒュームの「懐疑的解決」というのは、残念ながらあまり論理的なものではなかった。
そして20世紀に入って、ウィトゲンシュタインが登場し、帰納と演繹という推論の手続きは、論理学的な方法ではない、と批判したわけです。

クリプキはウィトゲンシュタインの帰納法批判をヒュームの帰納法批判と比較していく。
その部分がご質問の箇所であるわけです。
ところがクリプキはヒュームの「懐疑的解決」をそのままの形で使ったわけではありません。
「私的因果の不可能性」と呼ぶものに置き換えたんです。
ではクリプキが「私的因果の不可能性」と呼んだのは、どういうことなのか。
(「私的」とあるんだったら「公的因果」ってのもあるんじゃないか、とか、どこからどこまでが「私的」なんだろう、と考えるのはちがいます。これはウィトゲンシュタインの「私的言語論批判」、「人は『私的』に規則にしたがうことはできない」から来ています。つまりこれも非常に簡単に言ってしまうと、「規則に従う」という実践は、絶対に「私的」にはできない。かならず「公的」な行為だ、ということです。つまり、この世界のものごとに「因果関係」がある、と認めることは、絶対に「私的」には行えない。わたしひとりが「ある」と言って、ほかの人がだれ一人として認めなければ、それは「因果関係がある」とは言えないからです)。

それが#1の方がコピペしている部分なんです。
「できごとaはできごとbの原因である」(因果言明)という言うことにまったく意味はないんでしょうか?
これを事実言明(事実に基づく命題:すなわち真か偽かで判定しうる)ととらえると、ジレンマに陥ってしまう。
この因果言明は、事実言明とはちがうものである、と考えれば、意味があるととらえることができる。
ならばこの因果言明の意味は、どうやって説明したらよいのか。

「言明の正当化条件」を与えてやれば意味がある、つまりそれが
>タイプA によってタイプB が引起こされるという一般化されたタイプの一員であるときにのみ、
という条件なんです。

この「正当化条件」という分析哲学の概念をわたしは説明することができません。
学生の方でしたら、どうか先生に聞いてください、としか言うことができません。
飯田隆『クリプキ――ことばは意味をもてるか』(NHK出版)を読んでもいまひとつピンとこない(ただ、この本は全体の論理の流れをつかむことはできます)。

そういうことで、非常にいい加減な回答で申し訳ないのですが、このあたり、ということで。
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この回答へのお礼

ここまで説明していただいて、感動しました。ありがとうございます!レポート一本できてしまうくらいの詳しい説明ですね。続きの理解は自分で頑張ってみます。実は明日がレポートの締め切りなんですが、何とかやります。

お礼日時:2005/02/16 19:18

原文でWittgenstein On Rules and Private Languageを読まれているのですか?でしたら原文では”私的因果”はどのような単語を使っているか教えて下さい。

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この回答へのお礼

private causationですね。お返事ありがとうございます。

お礼日時:2005/02/16 19:20

質問者さんがどの程度の回答を求めていらっしゃるのかお聞かせ下さい。


分析哲学としての回答を求めていらっしゃるのでしたら、ごめんなさい、できません。
そうではなくて、もっと基礎的な、哲学史レベルでの回答ならできるかと思うので。
あと、わからないところをもう少し具体的におっしゃっていただけたら助かります。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。要するに、ヒュームは因果に対する懐疑を主張しているようなのですが、どういう因果だと成立し、どういう因果だと成立しないと述べているのでしょうか?私的因果が不可能だ、と言っているけれど、それは原因と結果を個別のものとしてとらえる限り、因果は成立せず、レギュラリティーのもとでとらえた因果は成立すると述べているのでしょうか。でも、それは一体どういうことでしょうか?両者の違いは何でしょうか?

ちなみに、私自身は、ヒュームの本は読んでいません。クリプキがヒュームについて述べていることに基づいて質問しています。

お礼日時:2005/02/15 19:35

その本を読んだ事が無いのでなんとも言えませんが、下のURLにヒュームの思想の思想の概略が書かれています。

下記引用します。

”[この諸個人に共通の無私的な「公共利害の普遍的感覚」による道徳の上に、世間の暗黙的合意、すなわち、〈黙約(コンベンション)〉が成り立ち、これによってこそ社会は構成されている。”

つまり個人的な因果を考慮した行動は社会を形作るルールになり得ない、という事が、質問者さんのおっしゃる私的因果の不可能性の説明では無いかと推測しました。

参考URL:http://www.edp.eng.tamagawa.ac.jp/~sumioka/histo …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。拝見しましたが、いまいちピンときません。

お礼日時:2005/02/15 19:37

私的因果の不可能性


[概要] 事象a によって事象b が引起こされる場合、それは事象a b にのみ関係することではない。タイプA によってタイプB が引起こされるという一般化されたタイプの一員であるときにのみ、事象a によって事象b が引起こされる、と言いうる。すなわち、他から純粋に独立した事象に因果は成立しない(意味をなさない)。因果という発想は、なんらかの規則性によって関係づけられていると思われている二つのタイプにおいて、そこに含まれる事象においてのみしか、意味をなさない。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。これ、インターネット上のあるページからの引用ですよね。読みましたけれど、よくわかりません。もう少し、噛み砕いて説明してもらえませんでしょうか。

これは、因果について論じているのですが、「私的」というのは、一体何のことだか、わかりません。

お礼日時:2005/02/13 17:00

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