プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

模範的な人間になろうとしなくても良い?
聖書には信者の模範になりなさい、と書いてあるはずですが、色々な人の話を聞くと矛盾を感じてしまいます。
練られた品性と聖書には書いてあるのに、品行方正になろうとしなくて良いとか。単純に疑問です。
クリスチャンの目的として、キリストの似姿になり、霊的に成熟した者となるように、とあるのに。

A 回答 (10件)

エホバの証人は模範人間の押し付け、行いでは救われない、イエスキリストを信じて救われる、父と子と聖霊三位一体、聖霊が善悪を教えてくれる、クリスチャンは聖霊に導かれ聖霊に育てられる、無理をして偽善者の真似をしてはいけない。

    • good
    • 2
この回答へのお礼

ありがとうございます!

お礼日時:2021/01/30 09:22

Shin-514さんがどのような状況下で、聖職者さんから「模範となる人間にならなくてもいい、品行方正になろうとしなくても良い」と言われたの分かりませんが、 ⇒ ans 聖書の学び会で言われました。



いつでも誰にでもどのような状況下にあろうとも「模範となる人間になれ、品行方正になろうとせよ」と強弁するような輩は、まず信用できないと考えていいです。 ⇒ 主張 私は強弁は人にはしないけど、自分自身そうでありたいという気持ちはあります。

いろいろの状況が考えられます。 一通りではないです。
「一通りではない」という発想を嫌い、自分の信念というか思いを一筋にしてしまう方もいるので、状況は、かなり複雑です。
私は参加したこともないので、「聖書の学び会」にはどのような方がいられるのか実態を全く知りません。 でも、いろいろのヒトが来ることもあろうなと想像します。 単純に聖書やキリスト教に少し関心をもったので"参加してみた"というヒト、「聖書の学び会」にはどのようなヒトが来るのかを知りたくて参加したヒト、学校に出す自主研究や教科のレポート作成のために参加するヒト、誘われて付き合いでなんとなく参加したヒト、病気などの不安から救われることを期待して参加したヒト、自分自身の生き方に負い目のようなものを感じ自分を救ってくれるイエスが学べるかと期待して参加したヒト、自分の生き方を良い優れた方向に向かっているものと自負していてさらにそれを強化して高潔さのようなものに仕上げる手段になることを期待して参加することにしたヒト、将来自分が「聖書の学び会」を開き講師になるための経験を増やすために参加しているヒト、近所付き合いのために参加しているヒト、、、
その講師の方が、「自分自身の生き方に負い目のようなものを感じ自分を救ってくれるイエスが学べるかと期待して参加したヒト」に強く思いを寄せているとしたら、「~~~をしたらダメ」「~~~を守り抜くことが救いを得るには必要です」のようなことは言わないでしょう。
通常、「聖書の学び会」のようなのも、ただの日曜礼拝でも、何か聖書の一節の紹介と説明がなされるようです。 (私は結婚式のときしか知りません)
そうすると、次のようなことを取り上げる場合もあると思います。

https://bible.org/article/%E7%A5%9E%E3%81%AE%E6% …

ローマ人への手紙3章
3:9 では、どうなのでしょう。私たちは他の者にまさっているのでしょうか。決してそうではありません。私たちは前に、ユダヤ人もギリシヤ人も、すべての人が罪の下にあると責めたのです。
3:10 それは、次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。ひとりもいない。
3:11 悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
3:12 すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった。善を行なう人はいない。ひとりもいない。」
  ~~~~~~~ 「お前はダメ」って、神は言わないかも ~~~

3:20 なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。
  ~~~ 「ちゃんとしているから救われる」のでもないようだ  ~~~

3:22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
3:23 人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
  ~~~ 栄光は受けられなくても、神は私も救ってくれそう  ~~~

3:25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。
  ~~~ だらしない罪人を救うためのものなんか 驚いた ~~~

3:27 では、人の誇りはどこにあるのか。それは取り除かれました。どんな法則によってか。行いの法則によるのか。そうではない。信仰の法則によってです。
3:28 なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。
3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。
 ~~ 「聖書の学び会」に次回も参加しよう。不安や恐怖が減るかも ~~

悩んで苦しんでいるヒト、自分の過去に負い目のあるヒト、道徳心や誠実さを貫き通す自信がないために苦悩しているヒトも、「聖書の学び会」に来ているのだと、講師が思えば、そのような話しをすることはあるのでしょう。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

罪人のかしらであるパウロを知れば分かりますし、だらしない罪どころの話ではないですからね。
モーセ、ダビデ、パウロに共通するのは、人殺しです。
パウロのように、自分の弱さを心底認めて受け止めた事で神様の力が働かれて伝道の力となったんです。
私も、自分の弱さを用いられて、大きな働きをしたいです。

お礼日時:2021/01/28 17:05

> 模範的な人間になろうとしなくても良い?


> この話は聖職者が私に向けて話された話でした。
> 矛盾していると思いました。
> 聖職者が、模範となる人間にならなくてもいい、品行方正になろうとしなくても良いと言われたのです。

聖書には、あちこちに、ペトロの裏切りの話しが出てきて、教会の説法?でも、しばしば取り上げられます。 状況によっては、聖職者となるような人でも、模範的とは言えない行動をとるものだ、それはあらかじめ警告され予言されても、避けようがなく、その人は模範的ではないことをしてしまうのだと説明されているようです。
もちろん、あくまで品行方正をどのような場合にも貫こうとする人もいます。 しかし、そのどちらかが義であって、他方は義ではなく、なすべきではないとはされていないようです。
また、品行方正とか義とかが何かに関しても、言を左右にするというか、解釈を工夫して、正当化したり言い逃れたりすることもあるのです。
例えば、皇帝が命じる納税への対応に関しても、言い逃れができるんだということを教えているのです。

日常の家庭でも、もう寝なさい/もう起きなさい、楽しく話しましょう/静かにしていて、仕事をちゃんとしなさい・勤勉でなくちゃ/仕事ばかりしてないで、もっと積極的ポジティブに/不安を避けて自粛しよう そのような逆転的な指導はポピュラーです。

聖職者の片言隻句、聖書の一部を抜き出して、「おかしいー」というような発想は、それなりに理性をもっていておかしくない年齢、人生経験を重ねているのなら、避けるようにしたいものです。 もちろん、怒りや悲しみにとらわれたり、発言者に個人的感情を強く抱いているような場合には、理性的対処ができないことがあっても仕方ないです。

マタイによる福音書23章37節にあるように、人の行動をコントロールするのは、イエスのような者にとってもできることではないのです。


Shin-514さんがどのような状況下で、聖職者さんから「模範となる人間にならなくてもいい、品行方正になろうとしなくても良い」と言われたの分かりませんが、いつでも誰にでもどのような状況下にあろうとも「模範となる人間になれ、品行方正になろうとせよ」と強弁するような輩は、まず信用できないと考えていいです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

Shin-514さんがどのような状況下で、聖職者さんから「模範となる人間にならなくてもいい、品行方正になろうとしなくても良い」と言われたの分かりませんが、

聖書の学び会で言われました。



いつでも誰にでもどのような状況下にあろうとも「模範となる人間になれ、品行方正になろうとせよ」と強弁するような輩は、まず信用できないと考えていいです。

私は強弁は人にはしないけど、自分自身そうでありたいという気持ちはあります。

お礼日時:2021/01/28 10:34

> 聖書には信者の模範になりなさい、と書いてあるはずです



どこに書いてあるのか、誰が誰に向かって、どのように言っているのかを調べてはいかがでしょうか。
「……と書いてあるはずです」では、先に進みません。

> クリスチャンの目的として、キリストの似姿になり、霊的に成熟した者となるように、とあるのに。

どこに書いてあるのか、誰が誰に向かって、どのように言っているのかを調べてはいかがでしょうか。

https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A …
https://ja.wikisource.org/wiki/%E3%83%86%E3%83%A …
テモテは、ただのクリスチャンではないです。 パウロも、テモテに特別の教えをなべているのです。

ペテロの手紙でも、同様です。
https://www.bible.com/ja/bible/1819/1PE.1.%E6%96 …
選ばれた特定の人に「こうせよ」と"志の持ち方・目標"を示しているのです。
当然にできることならば、わざわざ言うことはないです。
できない、難しい、達成困難だから、強く言っているのです。

聖職者になることを目指すのならば、「模範的な人間になろうとしなくても良いですよ」ということはないでしょう。 ただ、模範的な人間になろうとしても、なれるものではない、ということでしょう。
修道院があるのだって、そうしないと、上手く模範的にはなれないという認識があるのでしょう。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

この話は聖職者が私に向けて話された話でした。

矛盾していると思いました。

聖職者が、模範となる人間にならなくてもいい、品行方正になろうとしなくても良いと言われたのです。

お礼日時:2021/01/27 03:03

信仰の自由を尊重しますが…



キリスト教の懺悔…告白して謝れば贖罪出来る。って卑怯極まりないですよね(^^)

慈悲と犠牲と奉仕を強要する様な話はいかがな物かと考えてしまいます。

善を行うのは当然の事
弱きを助けるのも当然の事

過ちを許す?
過ちを犯せば断罪すべきです♪
    • good
    • 1
この回答へのお礼

卑怯極まりない?それをしたのは人間の方なんですよ。

その罰を人に代わってイエス様が身代わりになりすべての罰を受けて死なれたんですよ。

強要は良くないですが。

救われていない人はずっと神様に断罪と罰の裁きを受け続けるんですよ。

お礼日時:2021/01/26 20:03

キリストのようになって生きていければ理想ですが、


人間社会で働いて生きていくということは強くなる=汚れていくということです。

そして、新約に書かれている内容はあくまで理想であって、実社会では通用しないことばかりです。
だから、日曜礼拝などへ参加して日頃の罪深い生活態度を悔い改め、許してもらうのです。

そして、純粋に信仰に根差した生活を送りたいなら、組織へ属さないことです。早く経済的余裕を作り、引きこもりになって世間に慣れないこと=強くなることを捨てる=汚れることを捨てることです。すなわち精霊による洗礼=個人信仰ですね。

ですが、最初の頃は教会へ通い、神父様なり牧師様などのお話を聞いたり、他のクリスチャンとの交流を経験して、実態を学んでおくことも有益です。

以上はあくまで私の個人的な考えです。参考までに。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます!

私も同感に思います。

参考になりました。

お礼日時:2021/01/26 13:44

模範的な人間になりたのなら


なれるように生きればいい

なりたくないのなら
そのように生きるしかない・・・

でもそれを決めるのは自分しかいないんです。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

もちろんですね。

お礼日時:2021/01/26 13:45

した方が良いと考えています。



人の手本になる様に?
誰が手本にしてくれる様な人。


率先垂範…範を垂れる…
子は親の鏡…
背中を見て育つ…

人の振り見て我が振り直せ。
反面教師…

生き方について考える事は大事ですね。
素晴らしいって言われる人に成長してください。
    • good
    • 2
この回答へのお礼

手本にするのはもちろんイエス様ですよ。

人との関わり方、関係作りなど、神の国を現す任務には欠かせないです。

だから、教会に属することが大切だと思うのです。

お礼日時:2021/01/26 13:47

人間は矛盾を内包しています。

人間が聖書を作った時点で矛盾をはらむのは仕方ないです。そこに信仰の多様性を受け入れる余地が有り、宗教を素晴らしい物にしているのではないでしょうか?
    • good
    • 0
この回答へのお礼

ありがとうございます。

聖書は、神の霊感によって記されたのですが。

解釈するのが人間で、それは神の御心に沿ったものでなくてはいけないんです。

お礼日時:2021/01/26 13:49

>模範的な人間になろうとしなくても良い?


 仏教でも同じですが、仏門に入って厳しい修行に耐えてというのは一部の人で、寄進する程度の多くの信者は、「普通の人」に過ぎません。
 キリスト教徒と言う人も同様に、礼拝に出て献金はするけれど、厳密な戒律を守ろうとする人は少ないです。

>キリストの似姿になり、霊的に成熟した者となるように、とあるのに。
 それを厳密に求めると信者になろうとする人は、ほぼ居なくなると思います。
 一口に「キリスト教」と言っても、カトリックとプロテスタントは違いますし、プロテスタントの中には多くの教派があり、それぞれ厳格さも違いますので一概には言えませんが、現実的な布教と、ピラミッドの頂点にまで登りつめようとする人は自ずから向き合う姿勢が違います。
 信仰の度合い・深さによって、個々の言動に違いが出ると思いますが、それは仕方がないと思います。
    • good
    • 1
この回答へのお礼

ありがとうございます。

最後の結論分かります。

ですが、聖書解釈において、二転三転する話をされるので戸惑い困ります。

お礼日時:2021/01/26 09:47

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

関連するカテゴリからQ&Aを探す