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最近、たまたまこの手の分野では第一人者の一人である亀田先生がtwitterでつぶやいておりましたが、皆さまはどう思われますでしょうか?

gooドクター

A 回答 (5件)

鎌倉府を置いた理由は、私も不思議に思います。

鎌倉自体は攻めにくいとも言えますが、わざわざ本拠地多くには不便な土地だと思います。鎌倉幕府自体、「京都から攻められにくい」という理由で不便な鎌倉の地に切通しを作って幕府を開いたわけですから。
ここで参考となるのが「江戸時代、幕末の人たちの外交に対する考え方です。海外交流は「祖法」だという意見が多かったことで、200年以上昔は日本が東南アジアと盛んに交流していたことを忘れていたという事実です。
同じように考えると「鎌倉」は武士の中心地、東国支配の要だと思い込んでいたのではないかと考えられます。130年間部の中心地だったからです。事実、戦国時代になってからは「小田原」や「駿府」は重要拠点になりましたが「鎌倉」は忘れ去られています。鎌倉府も分裂以降は、再度鎌倉の地が武の中心にならなかったことからも明らかで、「過去の歴史」から鎌倉の地を重要だと足利氏が思い込んでいたというのが、一つの結論になると思います。
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当時の事を考えると「東国武士が中心の政治の中心地」とするなら、あの辺りしかなかったと思いますし、山がない関東平野では鎌倉は山城並みの場所だった、という事なのだと思います。



平安時代から東海道はありましたから、京都への連絡には小田原から湘南に拠点を置く必要がありました。これは六波羅探題を置いて公家や天皇の動向を探り「必要に応じて武力を都に上らせるぞ」という脅しをする必要があったからです。

頼朝が開く幕府は東海道沿いしかありえない、と言っていいわけです。
また頼朝の妻の実家であり、頼朝の後ろ盾になった北条家は伊豆を中心にした豪族です。

都から陸路でも海路でも幕府に対して進軍する軍隊を三島や沼津辺りの箱根・御殿場越え(つまり関東に入る前)で対戦できます。
 だからのちの後北条家のように小田原に拠点を置く必要はなかったわけですし、逆に小田原は敵が箱根山頂を占領したら、負ける位置にあったと言えます。

この2つの事を考えると、湘南の要害地である鎌倉しかないでしょう。

>「逃げ場がない」
いや、海があります。関東は鎌倉幕府が平定しているので、三浦半島にある水軍は味方、伊豆半島も北条家が交渉していたでしょうから、少なくとも的にはならない、ならば相模湾を自由に移動して房総半島に移動することもできるし、東京湾に入って船の安全を確保することもできたはずです。

東国武士は「いざ鎌倉」という合言葉をもち、実際に鎌倉道が整備されていました。これは「鎌倉が戦場になったとき」だけでなく「鎌倉に集合して、都を攻める時」にも使えたわけです。

これほどの要害をもち、武士の連携をはかる幕府があったら、京都の朝廷は何もできなかったでしょう。ま、後醍醐天皇はよくやったと思います。
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地形が守りに有利だったことが大きいです


https://kamakura-life.net/bakufu-2/#index_id1
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この回答へのお礼

逆に「逃げ場がない」という指摘も亀田先生がされてるんですよね…。

お礼日時:2021/01/31 23:47

源頼朝ですよね。



足利尊氏は、京都の室町幕府です。

本題ですが、何故なんでしょうね。
源氏が平氏を滅ぼしたのは、壇ノ浦。
帝(天皇)も、京都の平安京にいました。
当時は、大坂の堺も繁栄していたのに。

何故か、中途半端な、鎌倉。
理由はあったのでしょうが、風水ですかね。
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嫁の政子の実家、北条氏の縄張りが近いから。

嫁の発言権が強い。
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