プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

自分自身になにか悲しくつらい出来事があったとき、人はその出来事の原因と
なった事象を、この世に二度と存在させてはならないという思いに至ります。
それは自分と同じ悲しみや苦しみを、他者には味わってほしくないという気持
ちのあらわれで、いわば他者への〝愛〟であると言っていいのかもしれません。

ところで、コロナ禍で感染し重症化の末、命を落とした者たちは、その悲劇的
な事態の原因を何であると思っていたでしょうか?
私は、喘息患者ですが、喘息もやはり死に至る病です。
発作が起きた時の苦しみと絶望感は、そうなった者にしかわからない出来事な
のです。そういう意味で、現象的にはコロナの肺炎にも通底するものがあるで
しょう。

幸い、私はまだ死んでいませんが、死の一歩手前まで行ったことはあります。
三途の川の手前まで、死んだ猫の魂と一緒に大八車に乗って旅をしている夢を
みたこともあります・・・・。

そんな私ですが、喘息の原因たる「アレルギー物質」に対して、この世に二度
と存在させてはならない、などという思いを抱いたことは一度もありません。
喘息の原因は、すべて自分にあるのであっても、親や神様を恨む気持ちすらな
いです。

そこで、皆さんに考えてほしいのですが、
コロナで殺された?人たちは、コロナをこの世から撲滅したいなんて思ってい
たのでしょうか?、
それって、アレルギー物質の「ピーナツ」に対して、こんなものこの世から絶
滅させてやる!と考えるアレルギー患者ぐらい有り得ないことですよね?

じゃあ、コロナ禍で死んでいった者たちの思いを、われわれは倫理的にどう看
取すべきなのでしょうか? そして、生きているわれわれが何をするのが一番
倫理的に叶う行為なのでしょうか?
コロナだって、やれ撲滅だ、人類の敵だ、なんて言われて困っていると思いま
すよ? 忌憚のないご意見ご回答をお願いいたします。

A 回答 (6件)

猫の手を潰す必要なんて何処にもない。


とてもおとなしい猫だし、悪いことなんて何もしやしないんだ。
それに猫の手を潰したからって誰が得するわけでもない。
無意味だし、ひどすぎる。
でもね、世の中にはそんな風な理由もない悪意が山とあるんだよ。
あたしにも理解できない、あんたにも理解できない。
でもそれは確かに存在しているんだ。
取り囲まれてるって言ったっていいかもしれないね。
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この回答へのお礼

スレチなご回答ありがとうございます。

人間は猫よりも倫理的に劣ると言うことですよ、要するに。

お礼日時:2021/02/06 23:13

思いません。


いや
思うかな?
うむ
つまりわからん

というか
倫理的というのは、そのような事ではないのではないか。
などと思います。
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この回答へのお礼

微妙なご回答有難うございます。

「倫理」という言葉の解釈をめぐる議論をしても意味
ないでしょう。
では、質問のような思考を総じてなんと呼ぶのがいい
と思われるのでしょうか?

お礼日時:2021/02/06 18:13

No.2のものです。



お礼ありがとうございます。
仰る通り、私の思いは何の価値もありません。参考程度です。
ただ誰かや何かを好きだ、尊敬していると主張しても、

あなたが思う事、発言する事、あなたの振る舞いを見て決め
られると言いたかったんですよ。なにせ会ったことが無い人
なわけですから。好きだという人の振る舞いから推察するし
かないんです。

なので、

「ああ、○○って、こういう人に崇拝されるんだ。」

と参考にされるだけでは?

そして、
「○○って凄いんだなー」と解釈されるか、
「○○ってなんか執着がつよい人たちの集まりだな、異常だ。」
と解釈されるか、違ってきます。

私は過去に死んだ人や歴史上貴ばれたアイデアより、今自分
と接する人の方が大事だよと態度に出す人の方が好きです。

テクニックは冷たい物であり、熱い心情が本物であると主張する
方々はテクニックに救われ、誰かの熱い心情に傷つけられたこと
が無いのではないかと思います。

それは、自分を矮小なものとして受け止められない、
甘えの一種ではないかと思うのです。

その矮小さと言うのは、

「自分には、崇拝したり、好きになったり、憧れるほどの権利
 資格すらないのかもしれない。」

というくらいまで疑うべきです。

簡単に言えば、貴方の態度により、

「俺、倫理が嫌いになった。」

と言う方が出てくるかもしれないと、疑うべきだということです。
その程度の自分であるなら、何かを好きだとか、良いと思うとか
主張しないほう賢いという事。

「今の私では、私が好きだとか、大切だとか言うと、
 私の好きな人の評判が落ちたりして迷惑になる。
 まだまだだ。」

という事があるんです。

ここまで思いつめれば、話すことや悩むことが減り、
目の前の人を大事にし、愛する余力が生まれるかもしれません。

過去の倫理や道徳の大家を引き合いに出すときは、誰かを勇気づけ
たり、良い方法があると教えるときに限るべきでは無いでしょうか。

例えば、
そのくらいの「戒め」を自分に課すのは倫理的では?

その方々の名声を使って、いま現実に生きている人を叩いては、
その方々の苦労が水の泡になりますよ。
その方々の名声はその方々の物であり、私たちが使う時は誰かをた
すけたいと思う時に(仕方なく)借りるべきです。
それも自分の思いが通じなかったり、自分の心を守ろうとする時に、
無断で奪うものじゃないと感じます。

「沢山の友人に出会う予定なので一人くらいは惜しくないです」

と言うのなら致し方ないですが、

私たちが一生の中で関われる人の数は、引き合いに出した偉人の人
生より、(とても)少ないと思うんです。

「彼の人生は、彼の人生。
 私の人生は、私の人生。
 だから、私は出会う人すべてを有難いと思う。
 だから、過去に死んだ人より、今の接している人を大事にしたい
 と思うんです。
 
 それは私がちっぽけであると理由からですが、
 私にはそれが大事なんですよ。」

あなたが憧れる倫理とは、今自分が接する人より大事なものだとい
うのならば、このやり取り見ている人が受け止めると思います。

以上、ご参考になれば。
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コロナ禍で死んでいった者たちの思いを、


われわれは倫理的にどう看取すべきなのでしょうか? 
 ↑
なんで、コロナだけを特別扱い
するのか理解出来ません。

肺炎で死ぬ人などは、年に10万人も
おりますよ。
心臓病は20万、ガンは37万。

コロナは、一年以上経ちますが
やっと0,6万人です。

コロナを特別扱いするのは、コロナに
気の毒です。
倫理に反します。




そして、生きているわれわれが何をするのが一番
倫理的に叶う行為なのでしょうか?
 ↑
地球は、この世界は、人間の為に
存在するのではない、と思い知るべきです。
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今回のコロナに関しては、


各自が認識している状況が違っていると感じます。

簡単に言えば、

・私も大丈夫だし、皆も大丈夫でしょ?
・私も助からないかもしれないし、
 皆も助からないかもしれないでしょ?
・私は大丈夫だけど、皆はあぶないでしょ?
・私は助からないかもしれないけど、皆は大丈夫でしょ?

組み合わせですが、4通りありますよね。

例えばですが、

「自分が大丈夫なら他の人は良いって考えは何事ぞ?」

と言っている人は上のどれでしょうか。
こんな風に前提としている物が違うと思うんですよ。

質問者さんが言う通り、実際に事件に遭遇した人ほど、
当事者ならではの問題に集中しており、
それ以前に誰もが語っていた意見成るものを主張しません。

確かに、私が挙げた4通りは、すべて他人事の感覚なんです。
しかし、運悪く事件に遭遇したとき、
助けがあるのか、無いのか違ってくると思うんです。
さてどの対応をしていた人に助けが集まりやすいでしょうか?

私たちが言う倫理観というのは、
私たちが事件に遭遇したり、困ったとき、

「いつの間にか、
 自分達ですぐに助け合えるように集まっていた」

という状況を作り出すための知恵ではないかと思います。

「普段から、そういう人だけで集まっておこう」

という活動でしかありません。

倫理観に欠ける人は、
誰にも相手にされないでしょう。
そうなれば親や神をたよるしかありません。
しかし、子の親と言うのはそうならない様に教えるものですよね。

ここで、

「私はいつもみんなの幸福を願っていた。」

と言う人がいても、この人の周囲には助けが集まりませんよね。

「いや、そうじゃない場合って、結構酷い人だからね。
 普通じゃん。だからなに? って感じじゃないの。」

と言われますよ。
つまり、私たち一人一人がどう思うかというのはとても安い。
これに気が付いているかどうかが倫理の本質だと思います。

以前、身内に目の前で罵倒されまして、大げんかになりました。
その時彼女が言ったのは、

「お前の事を私がどれだけ心配したか。
 それが分かっていない。これくらい良いじゃないか」

と言われました。どれだけ、彼女にとって思う事の価値が高い
のかと驚きました。

「心の中で善良であれば、他人を罵倒しても良い。」

こういう発想はありますか?

もしこれを良しとするなら、自分が思う倫理や正しさについて考
えるべきでしょう。しかし、そういう人の思いついたこと、正し
いと感じたものはどの程度の価値があるんでしょうか?

「私は自分の思いとか本心とかが大事だと思っています。
 その本心が綺麗であれば、それを理解しない人が悪いと思います。
 そんな私が考え付いた正しい話があるんですが、
 聞いてみたいですか?」

「うーん、そういう人が思いつくことってことだよね。
 その程度のありがたさで、とりあえず聞いてみるよ。」

となりませんでしょうか。

私たちは他人との付き合いの中で、ある程度の線を引きます。
その人がどんなに素晴らしいことを考えても、

「そういう人が正しいと信じる程度の話」

でしかないんです。

考えた内容が正しければ価値があるのではなく、
自分が真似をしたい、いざという時に助け合いたいと望む人が
いう事だから価値があるんです。

倫理であろうと何であろうと、
自分が望まれていることに価値があり、
自分の価値を上げ底にするための論法などありません。

仲良くなりたくない人が神を語れば、

「そういう人に人気の神なんだね。」

と思われるだけです。

論理であろうと、倫理であろうと、歴史であろうと、メソッド
であろうと、神だろうと科学だろうと、
それの実績や力にあやかることは不可能であり、
逆に自分の性で相手の評判を下げるだけなんですよ。

つまり、あなたが倫理について悩んでいる事が大事であり、
正しい倫理がどうであるかはあんまり関係ないと思いますよ。

なるべく誠実でありたいという姿勢が伝わり、
(そのネタは何でも良く)
あなたの助けになるという事です。

私たちにはコロナを語ったり、倫理を語ったりするほど力が無いと
思いませんか?

みんながそうだからと言って、いい気になって好きなことを言う人
は、そういう人に見えるってだけです。

「自分も心配だけど、皆も心配だよ。」

と唱えているだけで良いと私は整理しています。
何故かというと、これ以外は、どうも印象が宜しくない。
そうなりませんか?

たった4種類チェックするだけです。
凄い簡単ですよね。この程度の話に決着がついていない人が、
何かを提言するというのは無謀に思えます。

正しい倫理が何かは、わかりませんが、
質問者さんの悩みは好感が持てます。
ただ、私の好感など何の価値もありません。


以上、ご参考になれば。
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この回答へのお礼

参考意見を有難うございます。

>私たちが言う倫理観というのは
私たちが事件に遭遇したり、困ったとき、
「いつの間にか、自分達ですぐに助け合えるように集まっていた」
という状況を作り出すための知恵ではないかと思います。


倫理感が助け合いを生むということですか?
おそらく違うでしょう。
人類史上で最高の倫理の具現者であったイエス・キリストは
とある事件に遭遇し困った事態になったとき、誰からも助け
てはもらえませんでした。
むしろ彼は、自分を裏切るであろう人間(弟子たち)を予言
さえしていたのです。
それが、倫理の最高の顕現である男が、神の御前で血の涙を
流しながら決意した倫理的行為でした。
私は、それを支持しています。
あなたなら、どう思いますか?
なんだ、最後に仲間から裏切られるなんて、倫理観をもって
なかったからじゃないのか?とイエスという男を蔑むでしょ
うか?
あなたの論法で言えば、そうなりますよね?
あなたの言っていることは、ただのテクニカルな現象の分析
つまり道徳的な規範性に過ぎないのですよ。
それは、倫理とは程遠いものです。

お礼日時:2021/02/05 21:01

私は還暦になりますが、子供の頃小児喘息で酷かったです。


私が子供の頃は、医者に行けば必ず注射。これが当たり前でした。
子供だから注射も太ももなんです。ガリガリに痩せた私には地獄のような注射で、親に騙されながら医者に連れて行かれました。

喘息は本当に苦しいですよね。TVのドラマでときどき喘息の発作を起こす演技をしている役者を見る度に、あんなものじゃないって思います。息を吸う度に「ヒューヒュー」と音も出るんですよね。
無意識ですが肩を上げ下げしないと息ができない状況でした。
注射が嫌なくせに、苦しさがたまらなくて、自分から医者に連れてってと言ったこともありました。大人になってから聞いた話ですが、親戚では「この子は成人式まで生きられない」とまで言われていたそうです。

小学校のとき体質改善のパスパートという液状の薬剤を腕に塗るという治療をしました。腕にメスで13ぐらいの平行線状の傷を付けてそこに塗り込むんです。麻酔無しです。今週は右、来週は左と毎週交互に2年間通いました。

効果があったのか。身体が大人になったためか。中学前には完全に治っていました。

そんな私が大人になって過去の苦しみを忘れて煙草を覚え、挙げ句の果てに急性心筋梗塞で死にかけたんです。まだ4年前のこと。ホント馬鹿ですよね。そこで初めて「死」というものを身近に感じました。

人というのは「死」というものに無頓着になっている気がします。自分がその渕まで行ってみないと、気付かないバカヤロウなのかも知れない。

これだけコロナが蔓延しているのに、自分には起こらないと根拠のない自信を持っている人が多いように思います。他人事だと勘違いしている若者が多いんじゃないかなと感じます。コロナが完治しても酷い後遺症に苦しんでる若者も多いらしいのに。

自分、または自分のごく身近な人がコロナに感染しないとわからないんじゃないのかなと感じます。そうならないと考えることさえしない愚か者が多いように思いますね。
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この回答へのお礼

小児喘息のお話ありがとうございました。

私も小児喘息を克服しました。町医者で効果のない治療を延々と続けら
れ死ぬほど苦しみましたが、最終的に母親が探してきてくれたニンニク
発酵抽出液(第3類医薬品)を服用することで、あっけないほど簡単に
完治しました。それから何年かの月日を経て大人喘息へ移行し今に至っ
ております。大人喘息が完治する見込みは今のところ不明です。

コロナに関して、若者が他人事のように振舞うことを、あまりよく思っ
ておられないようですが、それは何故でしょうか?
私は個人的には、それはそれでいいと思います。
むしろ、彼らの人生の自由を社会全体が脅迫的手法で抑え込もうとする
やり方に違和感をもっています。
リスクのある人に感染したらどうするんだ?と憤慨する人は、そのリ
スクのある人をいったいどうしたいのでしょうか?

リスクのある人間が(皆、私のように)そのリスクを甘んじて引き受け
いかなる悪感情も呪いも恨み言も外部にも自己自身にももたないという
覚悟があるのなら、コロナ対策という「被害妄想的パニック」は不必要
としか思えないのですが・・・・。

お礼日時:2021/02/05 20:06

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