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594年の仏教興隆の詔と645年の仏法興隆の詔の違いを教えて下さい。名前は似てますが違うものなのですか?

gooドクター

A 回答 (2件)

当時の仏教は、蘇我一族繁栄の源だった。

蘇我氏が仏教寺院建築・仏像仏具製造技術を独占的に握っていたからだ。仏教そのものも姻戚の聖徳太子が第一人者となっている。

594年の推古も蘇我系の天皇だ。まだまだ仏教が浅かった時代だ。だから仏教興隆の詔を出して仏教隆盛を図った。

645年もまだまだ仏教全盛とは言えないが、この詔は孝徳天皇の即位間もない頃だ。つまり乙巳の変の直後の体制が作られたころだ。そして朝廷の重臣には蘇我一族が数多く任じられている。
そして乙巳の変の中心人物は中臣鎌足という神道の一族だ。

孝徳天皇は、立場上、中大兄と鎌足を皇太子と内大臣という重職に就けたが、基本的には蘇我宗家以外の蘇我一族を数多く重職に就けている。

そのうえでの、即位直後の仏法興隆の詔だ。
これは「俺は中大兄や鎌足の言いなりにはならないぞ。これからも蘇我一族の奉じる仏教を大事にするぞ」という宣言だろう。
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この回答へのお礼

分かりやすく説明していただきありがとうございました。授業中に資料集を見ていて気がつきそれ以降疑問だったのですが、ようやく理解ができました!

お礼日時:2021/02/08 22:55

「日本書紀」の推古天皇の2年に、次の記載があります。


二年の春二月の丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔して、三宝を興し隆えしむ。是の時に、諸臣連等、各親の恩の為に、競ひて仏舎を造る。即ち是を寺と謂ふ。

「日本書紀」の孝徳天皇の大化元年の8月に、次の記載があります。
癸卯に、使を大寺に遣わして、僧尼を喚し聚へて、詔して曰はく、磯城嶋宮御宇天皇(欽明天皇のこと)の十三年の中に、百済の明王、仏法を我が大倭に伝へ奉る。是の時に、群臣、俱に伝えまくを欲せず。而るを蘇我稲目宿禰、独り其の法を信けたり。天皇、乃ち稲目宿禰に詔して、其の法を奉めしむ。訳語田宮御宇天皇(敏達天皇のこと)の世に、蘇我馬子宿禰、追ひて考父の風を尊びて、猶能仁(仏と読む)の教を重しむ。而して余臣は信けず。此の典幾に亡びなむとする。 (要約すると、以前仏教を広く信仰させようとしたが、ほとんどの大臣も重要な人物もそれに従わず、仏教は滅んでしまう状態になってると説明しているのです)
   …… 中略 ……
朕(孝徳天皇のこと)、更に復、正教を崇ち、大きなる猷を光し啓かむことを思ふ。
   …… 中略 ……
凡そ天皇より伴造に至るまでに、造る所の寺、営ること能はずは、朕皆助け作らしむ。今寺司達と寺主とを拝さむ。諸の寺を巡り行きて、僧尼・奴婢・田畝の実を験へて、尽く顕め奏せ とのたまふ。
( 前には仏教興隆の詔を出したのに、仏教が無くなってしまいそうだから、 私は、寺を 天皇だけでなく、伴造https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%B4%E9%80%A0が寺を造るときも、援助して、また、仏教関係を崇めるようにするのだという詔を出したことを、多くの人に伝えろ と言った )
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この回答へのお礼

資料もあり理解しやすかったです。ありがとうございました!

お礼日時:2021/02/08 22:53

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