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新選組の全体的な活動について簡単かつ具体的に教えて下さい(汗)
教科書に全くのっていなくてわかりません。また、新選組で有名な永倉新八についても教えてもらえると嬉しいです!

よろしくおねがいします。

gooドクター

A 回答 (3件)

幕末の流れというのは分かり難いうえに授業でもすっとばすんですよね。



江戸末期ごろに攘夷という思想、これは西洋などの外国人をぬっころせというやつが起こりますが、幕府は中国(清)がボコボコにされたのを知っていたので手を出すなと言います。しかし攘夷のやつらは幕府の命令に反して西洋の船に手を出したりして、幕府と対立していくわけです。その攘夷のやつらが天皇をかついで、尊王攘夷としてまとまると、幕府との対立もはげしくなります。
そんな時代に、幕府側に力を貸そうとやったのが新選組とかですね。とかって書いたのは、そんな人の集まりの〇〇組みたいなのは結構ぽこぽこと沢山あったようです(良く知らない)。

尊王攘夷側は天皇の居る京都に集まってごちゃごちゃやろうとしているので京都の治安が悪くなる。なので幕府側が江戸で人を集めて京都に送り尊王攘夷側のやつらを殺そうっていう、その一部が新選組になるわけです。
治安維持などというと良い人そうですが、基本は武士がやらないような汚れ仕事(人殺しとか)をやるので、腕に覚えがあるのはもちろんですが、頭はあまりよくないw 有事はがんばるって口約束で普段はごろごろしてて幕府から金が出るみたいなものですから、がらの良くないやからも沢山いるわけです。
新選組自体も、かっこいいこと言ってますが”自分が気に入らなければ殺す”みたいな、まぁ今のやくざと同じような”決り”で動いてたんですね。第二次世界大戦後の愚連隊とか、そんなのに近いのかも知れません。

なので戊辰戦争で負けた後は京都から去るわけですが、新選組という名前もさっさと捨てて、新しいなんたら組みたいなのに入ったり作ったりしていたはずです。

永倉新八さんのことは良く知りません(wikiでも)。幕末を生き延びて北海道で残りの人生を送っていたはずです。幼い孫と歩いている時に地元のやくざに絡まれたが一睨みで相手がびびって逃げていった、などというエピソードがあったような気がしますが、面白さ半分の作り話かもしれません。
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この回答へのお礼

ネットに載っていないことを詳しく書いて頂けていて助かります。
回答感謝です!!

お礼日時:2021/02/11 15:45

司馬遼太郎の燃えよ剣、新選組血風録など、一読を。


江戸郊外の天然理心流道場がルーツ。清川八郎の企画に乗せられ、京都へ。
そこで京都に残ったのが、水戸出身の芹沢鴨一派と、近藤勇一派。京都守護職会津藩松平容保にスポンサーになってもらい、新選組スタート。その後、芹沢一味を粛正。
京都警備がメイン。犯罪者ぽい浪人の粛清で、京都人たちの評判はまずまず。
京都でクーデターを計画していた長州藩グループを、池田屋事件で阻止。
大政奉還後、鳥羽伏見の戦いを経て、江戸帰還。その後、東北方面で合戦に参加。最後は、副長の土方歳三のみ、北海道へ。五稜郭の戦いで戦死。

永倉新八は、初期の天然理心流メンバーの一人。いろいろあって、大正時代まで長生き。明治時代、すごい剣の達人がいるという噂を取材したら、それが永倉新八だったという伝説が残ってる。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
やはり永倉新八は剣の腕前がすごかったんですね!

お礼日時:2021/02/12 19:29

wikに出ていますがな。


https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E9%81%B8 …

幕末の京都は政治の中心地であり、諸藩から尊王攘夷・
倒幕運動の志士が集まり、従来から京都の治安維持にあたっていた
京都所司代と京都町奉行だけでは
防ぎきれないと判断した幕府は、
清河八郎による献策で浪士組の結成を企図した。

江戸で求人したあと、京に移動した。
しかし清河の演説でその本意を知った近藤勇や芹沢鴨らが反発、
京都守護職の会津藩主・松平容保の庇護のもと、
新撰組として発足した。

同様の配下の京都見廻組が幕臣(旗本、御家人)で構成された
正規組織であったのに対して、
新選組は浪士(町人、農民身分を含む)で構成された
「会津藩預かり」という非正規組織であった。

隊員数は、前身である壬生浪士組24名から発足し、
新選組の最盛時には200名を超えた。
京都で尊王派の弾圧にあたった。
商家から強引に資金を提供させたり、隊の規則違反者を次々に
粛清するなど内部抗争を繰り返した。

慶応3年(1867年)6月に幕臣に取り立てられる。
翌年に戊辰戦争が始まると、旧幕府軍に従い転戦したが、
鳥羽・伏見の戦いに敗北したあとは四散し、
甲州勝沼において板垣退助率いる迅衝隊に撃破され
敗走し解隊。
局長の近藤勇は捕らえられ斬首刑に処せられた。




新選組の全体的な活動について簡単かつ具体的に教えて下さい
  ↑
元治元年(1864年)6月5日、池田屋事件で尊王攘夷派志士を斬殺・
捕縛。8月、禁門の変の鎮圧に参加した。

長州征伐への参加に備え、戦場での指揮命令が明確になる小隊制
(一番組〜八番組および小荷駄雑具)に改組。
「軍中法度」も制定した。しかし新選組に出動の命令はなかった。

慶応3年(1867年)3月、伊東甲子太郎らの一派が思想の違いなどから
御陵衛士を結成して脱退。同年6月、新選組は幕臣に取り立てられる。
同年11月、御陵衛士を襲撃し、伊東らを暗殺する(油小路事件)。



永倉新八
 ↑
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E5%80%89 …

新撰組最強の一人ですね。
斉藤一などとともに、新撰組生き残りの
一人です。
維新後は、北海道で警察官に
剣道を教えていました。

7~8人が一斉に掛っても
竹刀がかすりもしなかった、なんて
伝説が残っています。

本人に言わせると。
無数の白刃をくぐり抜けて来たので
身体が自然に反応するようになったのだ
とかなんとか。

氏の証言をもとに、子母澤寛が「新撰組シリーズ」
の小説を書き、これがヒットして
新撰組が有名になりました。

氏は、大正時代まで生きました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
たくさん書いてくれて嬉しいです。参考にさせてもらいます。

お礼日時:2021/02/11 15:43

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gooドクター

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