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【日本史】名古屋城には誰が住んでいたのですか?

江戸城も名古屋城も徳川家康は住んでいないって聞いて驚きました。

徳川家康はずっと京都の伏見城に住んでいたらしいですが、なぜ名古屋城=徳川家康となっているのですか?

あとなんで徳川家康は京都の伏見城にずっと住んでいたのに御陵を遠くの栃木の日光に日光東照宮を作ったのでしょう?京都の伏見城の近くにお墓を作らなかったのはなぜですか?

A 回答 (4件)

二代将軍以後はこういう感じ


江戸城  徳川宗家(将軍家)
名古屋藩 尾張徳川家(御三家)
紀州藩  紀州徳川家(御三家)
水戸藩  水戸徳川家(御三家)
宗家・御三家の生まれ以外は松平姓を名乗っている
8代以後は
御三卿
田安:一橋:清水徳川家 8代吉宗(紀州)の家系 

徳川将軍家領は、城は城代がいます。
城主はあくまで将軍となります。
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この回答へのお礼

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お礼日時:2021/02/13 12:29

名古屋城には誰が住んでいたのですか?


 ↑
尾張徳川家です。
御三家筆頭ですが、八代将軍のとき
紀州の吉宗が将軍になり、
以降、徳川本家と反目することになります。
その結果、幕末、薩長両軍の
通過をあっさりと認めてしまい、
倒幕に貢献しています。



あとなんで徳川家康は京都の伏見城にずっと住んでいたのに
御陵を遠くの栃木の日光に日光東照宮を作ったのでしょう?
京都の伏見城の近くにお墓を作らなかったのはなぜですか?
 ↑
1,京都に住んだのは公家勢力や薩長勢力を
 牽制するためです。

2,家康が日光に祀られることになったのは、
 家康本人の遺言があったからです。
 家康は、不動の北辰(北極星)の位置から
 徳川幕府の安泰と日本の恒久平和を守ろうとした
 と伝えられています。
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名古屋城は、家康の子、徳川義直が初代城主、以後、尾張徳川家として存続。

秀吉の死後、対豊臣の前線基地のような形で建てられました。
江戸城は、豊臣政権下、最初はボロいまま住んでました。その後、秀吉の老化と共に、大阪近辺に定住、伏見城や大阪城の二の丸、城下の屋敷などを転々としてます。そして将軍になってすぐ、三男の秀忠に将軍職を譲り、駿府に隠居城を建てて、そこに住んでました。江戸城には、あまり長くは住んでいません。

伏見城は、関ケ原の前哨戦で鳥居忠吉以下、全員戦死の激戦区でした。いろいろとトラブルが起きやすい土地柄のようです。
家康は老後を駿府で過ごしてますから、候補地としては江戸近辺。日光に決めたのは、風水の関係みたいで。。江戸を守る要所に、お寺などを建てて、道を整備。その仕上げが日光東照宮。
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名古屋城に住んでいたのは、尾張徳川家の人たちです。

全部で17代まで城主がいました。
初代城主→徳川家康の九男の義直(よしなお)
二代城主→義直の長男光友(みつとも)
三代城主→光友の長男綱成(つななり)
四代城主→綱成の十男吉道(よしみち)
五代城主→吉道の長男五郎太(ごろうた)
※3歳で亡くなったので、ここで尾張徳川家の直系は途絶えます。

六代城主→三代城主綱成の十一男継友(つぐとも)
七代城主→三代城主綱成の二十男宗春(むねはる)

八代からは分家の高須松平家から迎えた人とか養子など色々です。

>あとなんで徳川家康は京都の伏見城にずっと住んでいたのに
>御陵を遠くの栃木の日光に日光東照宮を作ったのでしょう?
家康はずっと伏見には住んでいませんよ。1602年に再建されましたが、江戸幕府を1603年に開き、1605年に将軍職を秀忠にゆずってからは駿府城を「大御所政治」のかなめとしてそこに住んでいます。
家康の真の墓は日光ではなく、静岡県久能山にあります。これは家康の遺言によるものです。
日光はいわば「仏壇」。これも遺言による分祀であり、それを豪華なものにしたのは家康の遺言ではなく家光の決断です。
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