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(伊達)松平陸奥守・(島津)松平薩摩守等。譜代・親藩・外様に関係無く官位?に松平を付けるのは何故か?教えてください。

A 回答 (3件)

例にある伊達家は家康の六男の忠輝に姫を嫁がせているので松平姓を許されたと思います。

もともと伊達政宗と徳川家康が親密であり,二代秀忠,三代家光も一目置いていましたので#1の方の言う外様の大大名で許された一つの例だと思います。島津の場合は松平薩摩守というと家康の四男の忠吉が名乗った名前であり,島津に許されたのは幕末の時期だと記憶しています。こちらは徳川幕府の権威の維持のために大大名に松平姓を許し,日本の大名は全て徳川を中心に姻戚関係があると思わせるための策略であったと思います。ですので#1の方の言う細川家のようにそれを拒んだ大名もあります。
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この回答へのお礼

松平も安売り気味でしたね。分かりやすい説明有り難うございました。

お礼日時:2005/02/18 09:50

良いHPがありました。

(^ ^)

参考URL:http://www1.odn.ne.jp/~cag38460/public_html/02se …
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この回答へのお礼

分かりやすいHPでした。有り難うございました。

お礼日時:2005/02/18 09:52

>譜代・親藩・外様に関係無く官位?に松平を付けるのは何故か?


大きく2通りあると思います。
一つは徳川家の御家門の家々。これらは親戚筋ですので松平姓を称します。あと、譜代で松平姓の家も遡れば遠い親戚筋です。

もう一つは、国主クラスの外様の大大名は松平姓の使用を許されてたりします。将軍の名前から一字をもらう偏諱などと同様に国主の特権でしょう。
ですので例えば長門・周防三十六万五千石の国主・毛利大膳太夫も松平姓を賜っているので「松平大膳太夫」と称しました。
国主には徳川・松平と姻戚関係にある家が多いです。ただ熊本藩主・細川越中守のように、松平姓は由緒のある名前ではないという理由で辞退した家もあります。
豊臣秀吉も、有力大名に豊臣姓や羽柴姓を与えてます。

それと官位に付けている訳ではありません。
普通の外様や譜代の大名は松平姓の使用を許されていません。
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この回答へのお礼

分かりやすい説明有難うございました

お礼日時:2005/02/18 09:46

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Q徳川姓と松平姓の関係

徳川一門でも、徳川を名乗ったり、松平を名乗ったりしていると思います。
親族でこの2つの姓名はどのように使われているのでしょうか(2つの姓のボーダーラインはどこで切られているのでしょうか)?
又、松平姓は、徳川の遠縁を含んで、皆、徳川家の親戚なのでしょうか?
親戚の中で2つの苗字を分けるのは何の為なのでしょうか?理由があるとおもうのですが・・・。
教えて下さい。m(__)m

Aベストアンサー

他の回答者さんの答えにもありますが
松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他の兄弟は次男秀康は結城家に4男忠吉は東条松平家に、5男信吉は武田家、6男忠輝は長沢松平家…と養子に出されてました。
つまりたとえ家康の子でも一度他家へ養子に行ったものは徳川姓は与えられなかったと言う事です。

同様に秀忠の4男保科正之も高遠藩主、保科正光の養子となっていて兄忠長と異なりのちに与えられたのは松平姓でした。
徳川家宣の弟・松平清武も越智家の養子となっていたため、のち松平姓が与えられています。

御三卿に関しては吉宗長男・家重に障害あると言うことで、そのスペアとして次男・宗武、4男・宗尹を江戸城内に住ませたのが起源ですので、存在目的が「将軍継嗣」でしかないと言う事もあり、将軍継嗣の条件である徳川姓が与えられたと言う事情によるものです。

なお水戸頼房に関しては徳川姓が与えられたのは徳川忠長死後であり、それまでは松平頼房と名乗っていました。
水戸家に関しては将軍継嗣になれないと言う事柄は公武応勅法制十八ヶ条を根拠としています。しかしこれは偽書であり実際にはこう言う規定はありませんでした。事実水戸綱条が将軍候補者としてに名前が上がった事もあり、水戸光圀も綱条が尾張・紀伊がダメなら水戸が将軍になると発言しています。

他の回答者さんの答えにもありますが
松平姓には3つあります。
1家康が徳川姓に改姓する前から松平姓であった松平姓の諸家。(十八松平)
2家康が徳川に改姓した後に松平姓を名乗った諸家(会津・御三家の連枝等)
3有力外様大名で松平姓を与えられた諸家(伊達・毛利等)

徳川姓の緒家は徳川将軍家、御三家(尾張・紀伊・水戸)、駿河大納言家(忠長)、御両典(綱重・綱吉)、御三卿(田安・一橋・清水)がありますが、家康に息子は多くいましたが徳川姓を与えられたのは義直、頼宣、頼房のみです。
他...続きを読む

Q江戸時代、藩がどう分布していたかがわかりやすい日本地図を探しています。

たとえば、
今の山口県のあたりには長州藩があり、藩主は毛利家
ということが見てわかりやすい日本地図を探しています。
そのような地図がおいてあるサイトをご存知の方はいらっしゃいますか?

Aベストアンサー

江戸時代初期は大名の取り潰しが多かったので、いつの時代が必要なのか難しいですが、一応300藩と言うことで参考URLをご覧ください。
地方ごとに分かれています。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/hantop.html

Q上屋敷、中屋敷、下屋敷

それぞれどんな位置づけなのでしょうか。

よろしくお願い申し上げます。

Aベストアンサー

江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別荘の役目にあたり、藩主の休息所や側室の住居、など内々の用途にあてられる事が多くいわば隠れた屋敷に相当します。 このため藩主の好みで庭園など上屋敷以上に凝った工事もあったようです。
詰める家臣も下級のものが当てられますが、上級の家臣は都度上屋敷から出勤する形が多かったようです。

中屋敷はそれを持てるのは限られていて江戸に常駐するなど幕府要職につくものに許されていました。
それぞれ用務が多いなど必要があったからです。
事務所のようなものと考えれられます。
側室の住居などが置かれる事もあったようです。

江戸時代参勤交代で江戸にやってきた各藩が逗留する為、それぞれ江戸屋敷の敷地を幕府から与えられ、造営したのが江戸屋敷上屋敷です。
敷地は譜代、外様の区別、石高に応じて場所、広さなどが区別されました。
上屋敷はいわば本宅にあたるもので、公式な行事や登城の場合の主発点として使用されます。

徳川御三家、譜代外様の大藩などは重要度や家臣も多いので上屋敷だけで収容するのが難しいなど理由が認められた場合、別宅の造営を認められました。
それが中屋敷、下屋敷のはじまりです。

下屋敷は別...続きを読む


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