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維新が成功して明治政府が出来た時に江戸城で働いていた侍は明治政府の公務員にそのままなったという事はあるのでしょうか?
明治政府の高官は維新志士で固められているのは知っているのですが、明治政府が出来たばかりの頃は江戸幕府で働いていた侍がそのまま起用されたんじゃないかという自説を唱えている方がおられるのですがこの自説は正しいのでしょうか?詳しい方宜しく御願いします。

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A 回答 (4件)

徳川将軍家は明治維新により駿河70万石の大名に転落します。


その為全ての幕臣を以前の禄で養うことは出来ず、牧野が原を開墾し、お茶を作るようになります。
これが静岡茶が有名になったきっかけですが、幕臣のうち知行地のあるものは旧知行地の庄屋を頼っていったり、そういった伝もないものはこうして農業で生活の糧を得ておりました。
そもそも江戸時代の封建制は、戦国時代の員数をそのまま平和な時代に持ち越したため、本来一人でやる仕事を数人がやり、それでも人が余るということで、矛盾に満ちたものです。
維新というのはこうした矛盾を清算することも目的のひとつで、一人の人間が適正な仕事をしてそれに見合う収入が得られるようになり、職を得られた人間は豊な生活が出来るようになった反面、多くの武士が職を失い、士族という身分と秩禄処分による一時金を金禄公債証書として貰って世間に放り出された訳ですから、大変です。
静岡でお茶を作っていた旧幕臣たちも生活は苦しかったのですが、教育には比較的関心が深く、彼らの息子の代になると官吏として出仕する者も少なくなかったようです。
維新の時点でどれくらいの武士が失業したか分かりませんが、官吏となれたのは2割程度ではないでしょうか?
諸藩でも面倒見のよい殿様は開拓などの事業を起こして旧家臣を救った方もいますが、そのままという方も多かったと。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/19 13:51

 NO.2さんの言われるように本当に様々だと思います。

基本は有能なら新政府の公務員として残るということでしょうが、新政府の主要メンバーである薩長土肥の地方でも武士の失業が起こっており、東京の高官の縁故を頼りに上京してくる者も多数いたようですし。

 また、特殊な例ですが500以上の会社を成功させ、「日本経済の父」と呼ばれた渋沢栄一のような人もいます。

 しかし、こうして江戸時代から引き続いて公務員になた人も、法律が整備され公務員試験が実施されるに従って順次交代させられていきました。但し、旧武士階級は、知識階級でもあったので、教育機関が整備されるまでの初期の頃の試験合格は、旧武士によって占められていたようです。

 ただ、警官などは地域に密着した存在ですから幕府の役人がしばらくはそのままなったのではないでしょうか。半村良氏の小説にちょんまげを付けた警官や警察署長が東京警察署と看板のかかった建物で働く本があったと思います。(記憶違いでしたらごめんなさい)
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/19 13:52

さまざまですよ。



維新政府は人材不足でしたから、旧幕の人でも有能なら
登用されたし、、、没落する人も出たし、、

さまざまです

この回答への補足

たしかに名前までは覚えていませんが旧幕府から登用された人がいたことまでは知っています。しかし、全体的に見て何パーセントぐらいが旧幕の人材を含んでいたのか知りたいんです。わかりますでしょうか?さすがに何調べたらわかるのかも検討つかなかったのでこちちらに質問させて頂きました。

補足日時:2005/02/17 02:30
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/19 13:53

 こんばんは。



 日本史で「士族の商法(しぞくのしょうほう)」と言うのを習ったのを覚えておられませんか?

 明治政府は土族の職業政策の一つとして農業や商業につくことを進めました。しかし,それにより士族が従事した商工業は不慣れのためか多くが失敗に終わってしまったんですね。そのため武士が始めた商売を「士族の商法」と呼んだんです。
 彼らは士族という特権は得たが,長年の武士の生活から,自ら働いて生活を維持する方法を知らなかったんですね。俸禄(幕府等からの給料ですね)が廃止されたとき秩録処分で全禄公債をもらったんです。これを元手として,事業か商売を始めたが,不慣れでもうけの計算もできないばかりか,お客に頭を下げることも知らないで威張ってばかりいたので失敗して無一文となる者が多かったんですね。

 と言うことで,そのまま公務員に起用されたわけではないですよ。

この回答への補足

えーと、質問の仕方が悪かったようで…。ききたかったのは一般の武士(旗本など含む)の事ではなくてあくまで"江戸幕府の中枢で働いていた大名じゃない一般の武士"つまり江戸幕府時代の公務員のことです。これらの人材は基本的に政治や公務について知っていてるので一応即戦力になる。また、逆に志士側にはこれらの実務についていた者がいたとしても少ない。従って明治政府発足時についてのみそのまま起用した。これが真実かどうかが知りたいんです。もし、違うならその根拠とかがわかるとさらに良いのですが…。

補足日時:2005/02/17 02:21
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/19 13:53

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Q武士と公務員の違い、及び、武士の公務員化について。

江戸時代の武士はある意味公務員化していたと思うのですが、武士は武士です。この江戸時代の武士(文化)が明治初期の役人(文化)として働きました。
したがって明治初期の公務員の感覚は今日のものとはまったく違うと思います。武家は世襲であり試験選抜されるものではありません。
しかしながら先祖代々一所懸命であるはずの武士が立派に無私の公務員として機能していました。無私(無家)というのは武士の感覚には馴染まないと思います。国家というように国を家に見立てたのでしょうか。そんな理屈に納得できますでしょうか。良くも悪くも公務に望むにあたって今日の公務員では考えられないような信条的障害もあったと思いますがその事例などありましたら教えて下さい。いわば今日ではふつうだが、元武家に、それは合点できないという類のものです。
徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。安直な結果論的説明で済ませられるほど簡単な出来事ではないと思います。アイデンティティーのために命を張ってきた武士がアイデンティティーを放棄しました。武家を廃するのですから武家としていわば究極的に無責任な生き方を選んだのです。
その豹変についての説明は真剣に成されるべきだと思いますので、自分の家の歴史を重んじる武家になったつもりでお答え下さい。
またその理解のために、(1)江戸時代の武士と、(2)明治初期の公務員と、(3)現代の公務員との違いについても歴史的変遷をまじえて、各時期の当事者の心理・信条がイメージできる形で教えて下さい。

よろしくお願いします。

江戸時代の武士はある意味公務員化していたと思うのですが、武士は武士です。この江戸時代の武士(文化)が明治初期の役人(文化)として働きました。
したがって明治初期の公務員の感覚は今日のものとはまったく違うと思います。武家は世襲であり試験選抜されるものではありません。
しかしながら先祖代々一所懸命であるはずの武士が立派に無私の公務員として機能していました。無私(無家)というのは武士の感覚には馴染まないと思います。国家というように国を家に見立てたのでしょうか。そんな理屈に納得でき...続きを読む

Aベストアンサー

徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。
明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側の諸藩が佐幕派の藩に進軍したりしており、多くの佐幕藩は新政府側に降伏しています。さらに新暦の明治二年1869年の6月27日に箱館戦争で榎本武揚らが降伏するまで、東北地方を中心に戊辰戦争は続くわけです。西日本を中心に降伏した藩は多かったわけですが、全国規模での内戦に新政府はともかくも勝利したわけで、その勢威は全国を圧していたと考えられます。また、版籍奉還・廃藩置県に至る過程では、維新に功績のあったものに対しては賞典禄を支給し、さらに大名・士族には石高・俸禄に変わり家禄を減額しつつも中央政府支給に改めて、俸禄制度(賞典禄・家禄を合わせて秩禄という)を維持しています。そのような優遇策のもと薩長土からの御親兵の武力を背景にクーデター的に廃藩置県を断行し、藩を廃止し、版籍奉還後に知藩事になっていた旧藩主を罷免し東京移住を命じ、旧藩士も藩の解体とともに失職することになるわけです。とても返上というような状況ではなかったと思います。しかし、華族となった大名とともに士族は失職はしても収入である秩禄はある状態ですので、この段階では大きな反乱には結びつきません。これは、前記したように幕末多くの藩で財政的に行き詰まり、さらに幕末・維新の動乱の戦費等の出費で各藩の財政は危機的状況に追い込まれ、廃藩置県以前に廃藩を申し出る藩主がでたり、財政危機の中、藩札をはじめ債務を政府が肩代わりすることから歓迎する藩も多くあったような状況がありました。そのように考えると封建制度は限界にあったのかもしれません。また、フランス革命などを見ても旧勢力が全面的に反革命に走り、内戦に至るほど革命政府に反することは稀です。戊辰戦争という旧勢力との内戦の勝利が実質的に廃藩置県を招来したのではないでしょうか。
なお、士族の反乱は、戊辰戦争に官軍として加わった士族の中に新政府の中でその主張が反映されず、武士の特権や俸禄が処分されることに対して不平を抱くことが多く、明治6年の征韓論はこのような勢力を背景としたものでした。征韓論で敗れた勢力はその後二つの流れを持ちますが、一つが板垣退助らの自由民権運動への流れ。二つ目が武力蜂起の流れです。明治7年の佐賀の乱は例外ですが、敬神党(神風連)の乱から西南戦争に至る士族の反乱・内戦は全て明治9年の廃刀令と秩禄処分後に勃発しており、それだけ俸禄の廃止は大きいことだったと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%8A%E8%BE%B0%E6%88%A6%E4%BA%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E5%8F%8D%E4%B9%B1
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A3%AB%E6%97%8F%E3%81%AE%E4%B9%B1
明治期の公務員についてですが、そもそもこの時期に公務員という用語が適切であるかは議論のあるところだとは思います。明治から戦前までは「天皇の官吏」、戦後は「公務員」とする方が違いがはっきりするように思います。官尊民卑などの言葉に代表されます。この件に関してはwikiの官僚制の中の辻清明の説が端的に言い表していると思います。
大日本帝国憲法(明治憲法)はその中で
第十条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
と規定しています。これは官制大権と呼ばれ、「天皇の官吏」の裏付けとなる条文ですが、憲法の成立以前から状況としては同じで、将軍の座に天皇が代わってすわり、支配・被支配の関係は変わりませんでした。将軍と臣下の関係の親疎が御目見・御目見以下で分けられるように、天皇と官吏の親疎も、親任官・勅任官・奏任官(以上が高等官)・判任官の区別が存在しました。
国民との関係も江戸期からの流れを引き継ぎ、為政者として上から目線でした。権力の最下部機関である巡査が「おい、こら」と国民に対したことにその一端が現れています。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%90%8F
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%98%E5%83%9A%E5%88%B6
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%85%E4%BB%BB%E5%AE%98

以上、長くなり、期待通りの回答にはならなかったと思いますが、参考まで。

徳川家を始め、有力武家が知行を放棄するというのは世界史はもちろん日本史にとっても不思議です。
明治維新期の知行ですが、大政奉還・王政復古の大号令以後、德川家(慶喜)に対する辞官納地(慶喜の正二位内大臣兼右近衛大将の辞職と、四〇〇万石の幕府領の返上-二〇〇万石の返上まで減額)が戊辰戦争の契機の一つとなっており、すんなりと知行を放棄したわけではありません。慶応4年1月5日(1868年1月29日)に鳥羽伏見の開戦・幕府軍敗退後には中国・四国・九州各地には新政府軍が進軍したり、新政府側...続きを読む

Q明治維新後、武士は平民になったというが

明治維新後、武士は平民になり、一般の会社員になったりしたのでしょうか。いろいろ苦労があったと思いますが、
そのあたりのエピソードを教えてください。

Aベストアンサー

維新により、武士は士族(足軽は卒族)という身分になり、秩禄処分で政府から一時金を貰って、以後は自分の才覚で生きていくことになります。
例として、徳川宗家に使えた旧幕臣を上げますと、彼らは徳川家達に従って、静岡に移ります。
ここで牧の原を開墾し、お茶の生産を始めます。
当初は筆舌に尽くしがたい苦労の連続でしたが、明治末に杉山彦三郎氏が新種の開発に成功し、経営が安定します。
旧幕臣たちは苦しい生活の中にも教育に未来を託したため、彼らの子弟は高い教養を身に付け、官吏となった者も少なくありません。
東北諸藩は北海道に未来を託したものも多く、現在北海道に「伊達市」がありますが、伊達邦成が旧家臣とともに開拓した土地で、旧会津藩の余市、旧徳島藩の静内町など、どちらかと言うと、維新の逆賊に回った藩の士族が開墾した土地が多く残ります。
このように、旧藩主(華族)がある程度の援助をして、家臣たちに農業をやらせる例も多くありますが、完全に没落したものも多く出ます。
樋口一葉などもその例に漏れず、士族としての誇りを持ちながら、貧困にあえいだ生活は涙を誘いますね。
総じて、士族は学がありますから、彼らの子弟は官吏、教員などになる例は多いようです。

維新により、武士は士族(足軽は卒族)という身分になり、秩禄処分で政府から一時金を貰って、以後は自分の才覚で生きていくことになります。
例として、徳川宗家に使えた旧幕臣を上げますと、彼らは徳川家達に従って、静岡に移ります。
ここで牧の原を開墾し、お茶の生産を始めます。
当初は筆舌に尽くしがたい苦労の連続でしたが、明治末に杉山彦三郎氏が新種の開発に成功し、経営が安定します。
旧幕臣たちは苦しい生活の中にも教育に未来を託したため、彼らの子弟は高い教養を身に付け、官吏となった者も...続きを読む


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