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治部大輔とか淡路守とかの官位官職は、いつごろから名前だけになったのでしょうか?

やはり京都の朝廷がほとんど仕事をしなくなったころでしょうか?

で、この位を有力なお侍に売ってなんとか収入を得ていたということでしょうか?

A 回答 (1件)

鎌倉時代「土地支配の実態と土地所有者」がずれ始めたころから、そうした傾向が強まりました。

鎌倉政権は京都政権にかかわりなく土地の事実上の支配権を認めたので、その矛盾が解消されずに残ったと言うことだと思います。こうした矛盾のスタートを、売位売官が見られるようになったを平安後期の知行国制から見られるという人もいます。
いずれにしても「国司」と「守護(大名)」が並置され「守護大名」が「国司」の力をはっきりと上回るようになったのは「南北朝」後期で、それ以降は「官位・官職」は天皇や公家たちが大名に口利き料を取る形式的なものになりました。特に「戦国時代」になると「主たる収入源」を奪われた「天皇・皇族・公家」たちは「官職などの口利き料」を大きな収入源としました。今で言う「やくざ」と同じです。
江戸幕府は、そうした「天皇家のやくざな商売」を禁じたことで江戸初期に「紫衣事件」なども起こりましたが、ここではっきり「売位売官」は幕府の許可が必要という原則が出来上がりました。その後は幕末まで「江戸幕府にコントロールされた官位・官職制度」が出来上がっています。
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