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江戸時代には、小禄の旗本でも能力次第で遠国奉行・町奉行や布衣などの要職に就く事が出来たようですが、旗本は今風にいうと旗本というのは高級官僚・高級幕僚のようなものだったのでしょうか?

軽輩の身から立身出世をした旗本がいましたら教えて下さい。

A 回答 (3件)

将軍に直接仕える者を「直臣」といって、1万石以上の禄を貰うものを大名、1万石未満の者を旗本・御家人といいます。


旗本・御家人は将軍にお目見えできるかどうかが違い、出来る身分の者を旗本、出来ないものを御家人とします。
大名の家臣などは「陪臣・又者」といって、例え数万石の禄があっても、直接幕政に関わることは出来ません。
幕府の役職は大体石高が決まっており、その禄高の家から採用され、有能ですと幾つかのコースを回って出世しますが、到達点は大体決まっていました。
最上位の大老は10万石以上の譜代大名から老中を経ずにいきなり選ばれ、臨時の役職ですから江戸期を通じて12名が就任しましたが、5人は彦根の井伊家の当主です。
閣僚にあたる老中は2.5~10万石の譜代大名から選ばれ、京都所司代か大阪城代を勤めた者から選任。
若年寄は5万石以下の譜代大名の内、寺社奉行か奏者番を勤めた者が選ばれます。
江戸の三奉行のうち、寺社は大名ですが、町奉行と勘定奉行は旗本が勤め、これもルートが決まってました。
人気があったのが長崎奉行、かなり実入りがよかったとか。
旗本の一番の到達点は江戸城留守居役で、実務はありませんが最高の名誉職でした。
江戸時代の出世頭は柳沢吉保です。
彼は館林藩の勘定頭で、知行高160石と蔵米370俵の陪臣の身分から主君の綱吉が5代将軍になったのを機に出世、甲府15万石(甲府は徳川氏の親戚しか領主になれない習慣でした)の大名になってます。
また6代将軍徳川家宣に仕えた間部詮房も異色の出世で、元々は能役者から身を起こし、高崎5万石の大名になってます。
身分制度の厳格な江戸期に、武士出身でないものが1代で大名になったのは稀有と思います。
因みに1番の方が紹介されてる勝海舟は、男谷検校と呼ばれた金貸し(当時は盲人が金貸しをやっていた)の孫にあたり、海舟の父親に御家人株を買い与え(持参金を付けて養子にした)たお金持ちでしたが、晩年は困ってる方の借金を棒引きしたり、故郷に寄付をしたりして財産を減らし、その上海舟の父親は放蕩したので貧乏になりました。
樋口一葉も同じですが、幕末になると裕福な町人が武家の身分を買うことが多くなってきました。
検校のもう一人の息子には旗本男谷家の株を与えて武士にしますが、こちらが勝家の本家になり、幕末の剣豪の男谷精一郎は海舟の従兄弟にあたります。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
>人気があったのが長崎奉行、かなり実入りがよかったとか。
長崎奉行は役料も五千俵弱で大阪の町奉行より遥かに多かったように記憶してます。他にも付届がかなりあったのでしょうね…

>江戸時代の出世頭は柳沢吉保です。
彼は松平姓も与えられてましたね。


勝安房守は金貸しの孫だったのですね。勉強になります。

お礼日時:2005/02/17 13:03

 将軍・徳川家と直接主従関係のあった武士は、大名・旗本・御家人と分けられる。

大名と旗本は家禄高1万石が境界になる。旗本は一万石未満、御目見え以上とするのが一般的であり、御目見え以下は御家人とされた。しかし、旗本の下限についてはいくつかの解釈がある。100石を目安にすることもあるが、実際にはそれ以下の旗本がおり、またそれ以上の御家人もいるので一つの基準だけでは割り切れない。

 江戸時代は、基本的に役職が高くなっても家禄は変わらない。つまり、高い役職になることで増える部下の給金や増加する経費については自分の家禄の持ち出しによって賄わなければならない。よって少録の武士には高い役職はまかせられないし、役職に就かせられた方でも困るということもあった。ただし、一部長崎奉行など賄賂を取ることで数年で莫大な財を築ける役職もあった。

 有名な旗本を列挙すると、(1)大久保彦左衛門、(2)吉良義央(よしなか)、(3)林述斉(じゅっさい)、(4)鳥居耀蔵(ようぞう)、(5)水野十郎左衛門、(6)小栗忠順(ただまさ)、(7)遠山金四郎、(8)長谷川平蔵、(9)山岡鉄舟(てっしゅう)、(10)田沼意次(おきつぐ)、(11)石谷貞清(いしがや さだきよ)、(12)大田南畝(なんぽ)、(13)勝海舟、(14)榎本武揚、(15)高屋彦四郎(柳亭種彦(たねひこ))、(16)松田伝十郎、(17)栗本鋤雲(じょうん)、(18)佐野政言(まさこと)などがいる。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

川路左衛門尉や根岸肥前守が軽輩出身だったのを思い出しました。
あと有名処では田沼主殿頭や柳沢美濃守もそうですよね…

お礼日時:2005/02/17 12:59

旗本は、今で言えばキャリアのような存在だ思えば良いかと思います。


たとえば警察庁採用のキャリアなら採用1年後に署長になっていて当然のコースですが、御家人に相当する県警本部採用コースでは定年までに署長になれるかどうか。

ただ、出世というのはかなり少ない、めずらしい物だったようです。
武士の出世には禄高と役職とあり、役職での出世はよくある事ですが、建前では役職に付いても収入は増えない事になっています。
賄賂などの「余録」がある役職は別ですけど。
また、役職を外れるのは左遷とは思われないようでした。
禄高の出世つまり加増は、非常に少ないようです。
こちらは武士の身分や序列に直結する、本当の出世なのですけど。

幕末での出世頭なら、勝海舟でしょう。
生まれた時は旗本より下の御家人で無役つまり役職無し。
かなり生活に困窮していたそうですから。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>賄賂などの「余録」がある役職は別ですけど。
町奉行所の与力などは、役高こそ二百石ですけど、大名や商家からの役得のおかげでかなり裕福だったようですね。

お礼日時:2005/02/17 13:07

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Q大身旗本の出世

五千石とか三千石クラスの大身旗本が、役高千石の遠国奉行など家格より遥かに役高の低い役職に就く事はよくあったのでしょうか?
例えば御小姓として初出仕した後はどの様な役職を経て番頭などの家格に相応しい役職に就いたのでしょうか?

Aベストアンサー

三千石以上であれば寄合関ですが、このクラスだとなかなか石高に応じた職がありませんからほとんどが持高つとめとでした。
三千石クラスで遠国奉行などの職に就いている例はめずらしくありませんし、はなはだしいのは家禄五千石の旗本が5百石高の小納戸についている例さえもあります。
このクラスは初出仕は御側の役が多く、中奥小姓という例は多くあり、また御側衆という例もあります。
このあとは小姓頭取や小普請支配、寄合肝煎を経て大番頭や両番の番頭、あるいは先手頭などという番方の役が多かったようです。
役方のコースに乗れば遠国奉行から勘定奉行、町奉行などになることもありました。

Q旗本の暮らし

一千石の旗本は、だいたい何坪程度の拝領屋敷に暮らしていたのでしょうか?

武家奉公人(侍・中間・女中)は軍役ではなく実際にはそれぞれ何人くらいいたでしょうか?

五千石くらいの大旗本の家老だと、百石前後はあった様ですが、千石の家の用人はどれくらいの家禄を貰っていたのでしょうか?

千石の屋敷の門は長屋門だったのでしょうか?

質問が多くてすみませんが、お考えを伺えると幸いです。

Aベストアンサー

千石以上の旗本は、全部で800家ほどしかありませんでした。
千石の旗本であれば長屋門でした。
屋敷の規模は人や場所によっても違いますので一概には言えませんが、二百坪くらいはありました。
家臣の数もその家の考え方や裕福さにもより、また役についているか無役か、どういう役職かなどによっても異なりますが、役についていれば千石クラスだと登城時にも4~5人の供は必要でしたから、男が用人、若党、中間、小者をあわせて6~7人くらい、女が2~4人くらいではないでしょうか。
このクラスだと用人でもせいぜい10石くらい、他は何両何人扶持といった程度で、譜代の家臣はいても用人くらい、あとは口入屋からの年季奉公人といったところでしょうか。


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