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1. ハートやヘルツやカール( coeur < cor )は 偶然 音が一致しているみたいなのですが 果たして《こころ》はあるのか? こころとは 一体何ぞや? を問います。



2. たとえば イヌの嗅覚が発達しているとかコウモリが高感度のセンサーを持っているとかいうとき これらの感覚も大きくは 《こころ》に入ると思われます。

3. その感覚の器官は 言ってみれば《身》ですが そこで知覚した内容はすでに《感じ あるいは 気持ち》として心をかたちづくります。

4. 感じが認識されれば 《獲物がいた! 探しているものが見つかった!》といった概念内容になります。イヌやコウモリ(かはぼり=川守?)が言葉を使っているとは思いませんが 行動のための情報を得ているのでしょう。


5. 盲導犬が 危険を察知して停止することは 大きく心にかかわる方向へ向かっていると考えるのですが では犬は そこで《考える》か? 何かを考えるか? その人間に停止信号をつたえて あとは 危険をよけ それが去って行くのを見守っているだけか?

6. コウモリは センサーで獲物を見つけたなら あとはそれへと向かうという行動をするのみか? 考えることは無いか? ほかに考えることがあって選択肢を持つのか?







7. ところがここでわたしが――分からないながら――わざわざ《こころ》論を始めたのは わたしは 《動物のこころは 身における感覚器官のはたらきの問題に還元される》と思うその内容を あろうことか 人間にも当てはめて見ようと思っている向きが 人びとの間に見られるからです。その受けた感覚が くすぶっているからです。


8. イヌが飼い主にかわいがられて 嬉しがったりするときにもそれは 身における感覚器官のはたらきでありその延長であるという見方です。それを 人間の心にも当てはめようという科学的知見(!?)が 世の中にうかがえるのではないでしょうか。




9. ぎゃくに言うと 親しい人の死はかなしい。心がゆさぶられえぐり取られるようにさえ思う。ところが 《かなしい》というのは 何ごとをも しかねる(つまり 出来ない)思いだと言っている。


10. つまり:

いむ(忌む) > いまいまし(忌みたい気持ちだ)
をく(招く) > をかし(情がかよって招き寄せたい気になる。>可笑しい)
ゆく(行く) > ゆかし(行って寄り添いたい気持ちだ。床しい)
かぬ(漢字なし) > かなし(何も出来かねる思いだ。哀・悲)

というように表現しているのであって これらの《こころ》はほとんどみな じつは《身》とそのウゴキ(行動)にかかわる内容を言っている。身にかかわる中身のことしか言っていない。

10-1. 《忌み》とは その場やものが神々しかったりあるい逆にシカバネのごとく汚かったりするとき 触れがたいとか触れたくないとかという気持ちを表わしている。つまり 触れるか触れないかという身のウゴキの問題なのである。



11. これらの身の振る舞いを表わすコトが 《こころ》の問題であると考えられる側面がある。おそらくこれはつねにあると思われる。

12. 身(感性)と完全に離れた心があるか わかりづらい。ただし 《感覚 ‐ 質》と言うように 感性として捉えた内容をめぐって或る種の性質が醸し出される。

12-1. わらふ(笑う)にしても ゑむ(笑む)にしても 顔の表面における変化を言っている。感性のハタラキを 身の動きないしモノ・コトで表わしている。

12-2. つまり ゑくぼ(笑窪)とも言うように 顔がほころび頬にくぼみが生じることを表わすだけである。わらふは 顔がくぼむだけではなく 割れるのである。

12-3. -ふ はこの場合 反復や継続の相か。あるいは 割り合ふの約で 顔の筋肉相互の相か。そして ゑぐる(抉る)や わく・わかれ(分く・別れ)とも言うように どうも子音の / w / が ひとつのモノの分割・分裂の相を指し示しているようなのです。

12-4, しかもそこで 感覚があたかも別様に帯びる質を言外に指し示すようにまさに《こころ》の動きをあらわそうとする。


13. もともと心が――身(感性)から離れて起こっているゆえ――あるのか? それとも 感覚を示す言葉が出来ると その基礎の上にそこから別様に心的現象がわれなる実存に生じて来たのか?
 


14. クオリアとはよく言ったものなんでしょうか?

○ こころは あるか? 
○ 《こころ》とは 何ぞや?

質問者としては いくら・いかに否定したとしても 《こころ》と呼ぶ現象はあるといった感覚を持つもの(まづは そこまで)ですが みなさんのお考えをどうぞ。

質問者からの補足コメント

  • №11つづき



    ★ すなわち「物事を経験するときに、アタマの中でなされる膨大な量の仕事は経験しない」のだ。しかし「ほんとうは、感覚は、体験された感覚データに深さを与える処理がなされた結果」なのである。
    ☆ 暗記するとき おぼえこむ努力をしてそのあと記憶は 脳がやってくれますが。


    ★ いいかえれば「意識は深さ」なのである。ところが私たちはそれを「表層として体験する」というふうにしか経験できない。
    ☆ そうなのかな・・・とは思うのですが。

    No.11の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/03/02 23:17

A 回答 (23件中1~10件)

こころは在りますよただ目に見えないだけで貴方の胸の内に宿っています。

動物に例えている文書がありますが動物は生きて行く為の手段としての行動であって貴方が言っている「こころ」とは意味合いが少し違うと感じますけど又こころとは何ぞや?ですが他者を慈しみ愛情を持って接する気持ちではないでしょうか?と私は思います。でも人間エゴイスト的な気持ちを持っているのも確かななので逆を言えば悪魔的考えも一種の「こころ」になるのかな?でも良い方向に気持ちを持っていれば人生ハッピィ-ですよね
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ こころは在りますよ
☆ たぶん そうでしょうね。


★ ただ目に見えないだけで貴方の胸の内に宿っています。
☆ 前書きですね。


★ 動物に例えている文書がありますが 動物は生きて行く為の手段としての行動であって貴方が言っている「こころ」とは意味合いが少し違うと感じます
☆ ちょっと舌足らずでした。あとで 心のあることの現実を言うために 《広義の心》などという言い方をしてしまいました。



★ けど又こころとは何ぞや?ですが他者を慈しみ愛情を持って接する気持ちではないでしょうか?と私は思います。
☆ ですか。つまり そういった情感や気持ちは まだあいまいですね。すなわち 心とは ただただ身に起きる感性の問題だけなんだという仮説に対して ほとんど何も明らかにしていませんね。



★ でも人間エゴイスト的な気持ちを持っているのも確かななので逆を言えば悪魔的考えも一種の「こころ」になるのかな?
☆ という場合にも やはり身に起きる感覚――心地よさや心地わるさ――が反映したものに過ぎないと言われかねません。


★ でも良い方向に気持ちを持っていれば人生ハッピィ-ですよね
☆ その心は もともとまさに心として存在しているのか? どうなんでしょうかね。

お礼日時:2021/03/02 09:28

存在の定義次第


可視可触か?質量を持つか?

ありがちなはなしだが、穴は可視で認識できるが
存在しているかと言われると微妙。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


心の中軸は 意志です。自由意志とされています。

また 精神のことですから 記憶と知解と意志の三つの行為能力を言います。


これが どこから来るか? という問いで問うてもよいかと考えます。

お礼日時:2021/03/02 14:27

心を復活中!



死ぬと心は無くなります。
生きていても、心が無い人間が居るだろうか。探しても良いと思う。
もしも、生きていて心が有るか無いか良く分からない人が居れば、心には強弱があるかも知れない。
重症精神患者は、呼んでも答えず、涎を垂らすだけの方も居ます。
中国の激戦地の中に住んでいた、農民の話が印象的です。
食料で兵隊に牛を取られた農民はただ見ているだけだった、「可哀そうがから返してやれよ」と言われて戻したが、何も言わずただ引いて行くだけだった。これは生死も関係く、目前の現実しか存在しない状態なのだろうか。
多分、心とは希望の様な物ではないかと予想します。コウモリは食料という希望(期待)へ向かって飛ぶのか・・・
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 死ぬと心は無くなります。
☆ 無くなったかどうかも分からないありさまですが。



★ 生きていても、心が無い人間が居るだろうか。探しても良いと思う。
☆ ですから この問い求めの要点は その《生きていて 心が無い人間はいないはずだ》というときの心が もしかしたら ただ単に世界とわれとの間に起きる身の知覚する刺激であって 特にその感覚のほかには もう別様に心などという特別のハタラキはないのではないか。といった問いに答えることにあります。



★ もしも、生きていて心が有るか無いか良く分からない人が居れば、心には強弱があるかも知れない。
☆ それも ただの感覚〔ぷらすαくらい〕の現象に過ぎないかもと言われたら?



★ 重症精神患者は、呼んでも答えず、涎を垂らすだけの方も居ます。
☆ 疾患のある場合は いま別としましょう。



★ 中国の激戦地の中に住んでいた、農民の話が印象的です。
食料で兵隊に牛を取られた農民はただ見ているだけだった、「可哀そうがから返してやれよ」と言われて戻したが、何も言わずただ引いて行くだけだった。これは生死も関係く、目前の現実しか存在しない状態なのだろうか。
☆ どうでしょう。それは 説明がつくように思いますね。だって 武装した者を相手にして 何も要求やら願いを述べるなんてことは できないという状態であったとすれば。



★ 多分、心とは希望の様な物ではないかと予想します。
☆ ええ。かたちのないのが 希望であるとも言いますから。そうはそうなのですが これを理論立てて説明仕切りたい。


★ コウモリは食料という希望(期待)へ向かって飛ぶのか・・・
☆ そのように捉えることもありかも知れないし 動物のことは放っておいても 人間について何かこの《時間過程あるいは その過程をもあたかも超えたのぞみといった息吹き》を手掛かりに 感覚とは一味ちがう心のことを問い求めておきたい。

お礼日時:2021/03/02 14:40
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。

提示された辞書の引用で[2]は 《㋐ 物事の本質をなす意味》などのように派生的な意味なので省きます。そして [1]では ㋐㋑・・・といった用例は いまの《心はあるか》の問いに対する意味内容としてやはり二次的な問題なので特には取り上げません。

▲ こころ【心】  ~~~
1 人間の理性・知識・感情・意志などの働きのもとになるもの。
また、働きそのものをひっくるめていう。
精神。
心情。

「心の豊かな人」「心に浮かぶ思い」「心と心の触れ合い」「心を痛める」「心の晴れる時もない」
~~~

☆ さてここで《感情》は 明らかに身(感性ないし脳細胞)のハタラキですので 別です。

《心情》は どうか? 信念や自分の(思想)を意味し得ますが おもに好き嫌いやそれらにもとづく支持のあり方を意味するとすれば やはり 感性(神経組織)の問題です。



けっきょく質問者としては 精神でもある記憶と知解と意志の三つの行為能力を 心と規定します。

中で――記憶は 世界を感性が知覚した内容であったり 知解は 記憶からの情報の再現であったりするなら やはり大きく感性(神経)の問題だと考えられるので―― 意志を心の中軸と捉えます。

つまりは ひとには 意志があるか? 特に自由意志があるか? こういう問いに実質的に成ります。


つまりは 例のB.リベットによる実験で 自由意志は無いという仮説が出されている。このことをめぐって考えるということになるかと思います。

お礼日時:2021/03/02 20:13

補足


まぁいわゆる幻想の一種で
「ある」って思ったらなんだか煩わしいいし
「ない」って思ったらなんだか寂しく思える。し
というか
こんなこと思ってる俺も幻想をみているのであった。
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この回答へのお礼

参照資料として まづ――ヰキぺもいいのですが それではなく―― 次を取り上げます。


▲ ベンジャミン・リベットによる実験 「自由意志はあるのか?」
https://www.aiiv.jp/free-will/   ~~~

結論

15. これは被験者たちが『腕を曲げよう』という意志を自覚するよりも前に脳活動が起きていたということになる。

16. つまり、「脳活動という物理的な現象が〈原因〉であり、人間の意志が生じるのはその〈結果〉にすぎない」という解釈が成り立つ。

17. 平均的に「動作」を始める約0.2秒前には、「意識的な決定」を表すシグナルが現れる。しかし、私たちの脳内では、「意識的な決定」を示す電気信号の約0.35秒前には、それを促す無意識的な「準備電位」が現れている。よって、「こうしよう」と意識的な決定をする約0.35秒前には、すでに脳により決断が下されていることになる。
~~~


☆ 精神たる自由意志のハタラキよりも前にすでに 身(感性・知覚)たる脳細胞にあって――意志の発動より前に――作用が起きている。と言う。
▲ 無意識的な「準備電位」が現れている
☆ と。ならば 心は 身の動きに従属しているのではないか? と。



論点は 実験の内容としてすでに前もって:
▲ 実験の被験者たちは「自分の好きな時に腕を曲げて下さい」と言われ
☆ ているので そのことは覚えており意識している。つまり いつかは 腕を曲げることを意志するという心構えが出来ている。

とすれば そのような――意志の発動の準備段階としての――心構えも 大きく意志の自由なハタラキの内におさめられている・・・のではないか? 

それは 身(神経組織)のハタラキと別のあり方を採り得る。つまりは 実験の指示に従わない自由度をも持ち合わせており この意志の発動は――やはり神経組織のハタラキでありつつも―― 身の知覚作用とは別のコトになっているか?

お礼日時:2021/03/02 20:33

私も辞書で調べましたが 心というのは精神とほぼカブってますね



心の語源は ここる 動物の内蔵を表していたようです

今では精神とほぼ同義で使われるようです

心と言えば夏目漱石の小説にもありますが

命より大事なものかもしれません。

欲望も感性も知性も知性も 心ですねえ。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 欲望も感性も知性も知性も 心ですねえ。
☆ このとき 《感性》と《知性》とは どう違うか? 身と心との違いとして 心は 相対的な独立性があるか?

ここらへんについて 問い求めたいところです。

お礼日時:2021/03/02 22:02

直截の回答ではなく自分用メモみたいなものですが、



少なくとも自分にはある。
そして自分以外ににもある。

これ、説明いりますか?
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この回答へのお礼

要ります。少なくともわたしには要ります。どう納得してよいか 分からないからです。


ご回答をありがとうございます。

お礼日時:2021/03/02 22:15

新聞のニュースを見なくなったら、


アイドルグループのニュースが文学賞を樹叢だそうで、
漢字が難しいですね。
吉川英治賞だそうで、結局文学小説を連載してましたし、忠臣蔵のを受賞してますね。
伊集院静も
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この回答へのお礼

ふむ。

お礼日時:2021/03/02 22:17

no7



心は理性じゃない部分の動物的な神経系とかの動きだよ。

あと、言葉をいじくり回しても意味ないと思うけど?
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この回答へのお礼

★ 心は理性じゃない部分の動物的な神経系とかの動きだよ。
☆ あぁ はっきりしたご見解です。

つまり・ただしそれは 心が心として――感覚とは別のかたちで――起きる現象であるのではない・・・と言っています。

心は 感覚のもとにあってあたかもその延長線としてのように・プラスαとしてのように 醸し出されている雰囲気のようなもの・・・と言っています。


意志などは 実際には無い。意志とよぶものは ただ 感覚の余熱のようなものが 思いや振る舞いとして現象する――これを わざわざ意志〔による行為〕として取り上げているだけだと。


このように区分する哲学であるなら 次のご指摘は まぬかれると思いますが。
★ あと、言葉をいじくり回しても意味ないと思うけど?

お礼日時:2021/03/02 22:49
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この回答へのお礼

▲ トール ノーレットランダーシュ:『ユーザーイリュージョン―意識という幻』

△ レビュー:sn ~~~

しかし、この本も面白い(^^)

人が感じている意識は、
1.知覚器官からの膨大な入力情報を
2.脳が0.5秒かけて(その入力情報の大部分を削除し)
3.生存に有益な情報に要約したシミュレーション結果である。

4.意識的に指を動かす場合、指を動かすと意識した0.5秒前に脳が活動開始している(脳波からわかる)。

5.意識が知覚(例えば皮膚刺激)認識に0.5秒の遅延を感じないのは
6.意識が皮膚刺激を(脳波的に)自覚するのは0.5秒後だが、意識がそれを経験するのは0.5秒弱時間を繰上げた時点としているから。

この説の正当性を、物理、熱力、数学、統計、情報、心理、生理、生物、医学、哲学、社会、歴史、宗教の碩学と絡めて説明する。
1〜3部は◎だが4部は少し勇足かも?(^^;)
~~~

☆ B.リベットのあと いろんな研究がおこなわれているようです。

この本は やはり意識〔した意志〕より前に脳が活動開始している。だから そのあと意識によって行動する(指を動かす)のは ただ脳という身体の知覚なるハタラキに従属しているものである・・・って言っているんでしょうかね。

お礼日時:2021/03/02 22:59

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