gooドクター有料プランが1ヶ月間無料!

ある座談会において、戊辰戦争の河井継之助について、関川夏央と半藤一利が、下のように語っています。
関川夏央
 「河井継之助は戊辰戦争で長岡を全部焼け野原にしたということで、地元では永く恨まれていた人です。それが司馬さんが「峠」を書かれた後で逆転した。」
半藤一利
 「今では記念館も建っているほどです。」
質問は、地元長岡では河井継之助の評価が正反対になったのは本当ですか?

gooドクター

A 回答 (2件)

司馬遼太郎が「峠」を発表する前からだが、



長岡では小学校の頃から、志しとは違ったとはいえ、長岡戦争で主将として指揮を執った河井継之助と、開戦に反対するとともに戦後復興の責任者に推された「米百俵」で有名な小林虎三郎の事績がセットで教えられていた。

敗軍の将は、いつの世も非難され、恨まれる。河井継之助が恨まれたことは事実だろう。しかし、蔑まれたわけではない。蔑まれたのは、虎三郎と同じ開戦反対派でも戦いを逃げ出した武士連中だ。

圧倒的優勢な官軍に機関砲という新兵器で対抗し、3カ月間も奮戦した継之助には、恨みがあったにしても、郷土の誇りとしての思いもあったことは間違いない。

長岡復興の礎を造った虎三郎はもちろんだが、継之助についても「郷土の誇り」としての教育方針が貫かれていたと思える。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
河井継之助と<小林虎三郎>は<セットで教えられていた。>のですね。
<河井継之助が恨まれたことは事実だろう。しかし、蔑まれたわけではない。>のですね。
<郷土の誇りとしての思いもあった>のですね。
恨みも誇りもあり、人の評価は(多面的で)難しいものですね。

お礼日時:2021/03/11 16:35

関川氏の言われている事は事実です。



戊辰戦争は、いわゆる侍同士の戦いです。
その戦いに巻き込まれた庶民にとっては迷惑以外の何物でも
ありませんでした。
長岡市街を主戦場にして、街を焼き尽くした張本人の河井継之助に
対しては怨嗟の声が上がり、長く残りました。
それがいつの間にか、評価が逆転したのは皮肉な事です。

似た様な例は会津藩です。藩の重装備と戦費を支えたのは庶民・
農民で、戦災に遭い多きな被害を受けています。その為に戦後に
ザマミロ一揆が多発しています。
しかし今は、敢闘した会津の武士道精神とか言われ町興しの目玉に
成っています。
変な話です。当時武士の割合は人口の5~6%です。会津は武士が
多かったとしても10%程度でしょう。その会津は戊辰戦争後には
弱小藩としての会津での存続か斗南への移封が提示されます。
反侍感情の残る会津に留まるのは困難とし、藩士の9割が斗南へと
移住し苦難の歴史を残しています。
会津に残った侍は1%程度なのに、ザマミロ一揆をした庶民・農民の
立場の者が今は会津武士道を声高に叫んでいます。

他の例は、米沢藩です。進歩的だった米沢藩は、政治体制は民政と
軍政を分け、軍備は全て西洋式に成っていました。藩内の意見の
対立もそれほど大きくはありませんでした。
米沢藩の参戦理由は、1)東北列藩同盟を主導した事、2)恭順の
意を表している会津を討つのは侍の理にかなわない事、3)上杉家が
廃絶に成る危機を救ったのが会津藩初代藩主だった為の恩義の3点
です。
既に後込め銃編成の部隊もあり、越後方面で善戦しますが、ずるずる
と交代します。もともと外様ですから会津や庄内ほどの戦意が無かった
為と言われています。(磐城方面の戦いでは、仙台・磐城藩が退却した
後で130人編成の後込め銃大隊を投入し撃退しています。官軍が再
編成し、米沢藩が1大隊追加して2大隊260人で防御していると
予想して反撃しましたが、米沢藩は既に退却した後でした。仙台・磐城
藩のだらしなさに愛想をつかして、兵力温存の為に福島方面に兵を
引いたと言われています。)
米沢藩の越後方面隊は、新発田藩の裏切りで新潟港を失います。当時
藩は新式の武器と弾薬を新潟港から輸入する段取りをしていました。
選択肢としては、新潟市街が戦場になるのを承知の上で港の奪還戦を
行うか、または撤退するがありました。奪還の可能性は有ったと言わ
れています。
米沢藩の選択は、新潟郊外で軍事総督の色部長門が上級士分の少数の
者と突撃攻撃をし、色部の戦死をもって撤退する事でした。
色部は戦後に官軍により責任を追及され、お家断絶の扱いを受けます。
藩主の意向を受けての処置で、米沢藩は切腹者を出さずに済みました。
上杉伯爵邸の裏手に色部長門の顕彰碑があります。
戦火を逃れた新潟の庶民は色部のこの決断に感謝し、記念碑を建てて
祭りました。

米沢藩は、明治の成ってからの戸籍調査で27%が士族とされています。
しかし、米沢では声高にアナクロな武士道精神云々を言う声は聴かれ
ません。(武士と言っても農民と変わらない者、原方衆、も居たの
ですから、当然かも知れませんが。)
謙信公と鷹山公の事績は今なを語り継がれていますが。


新潟、会津、米沢に縁が有り、戊辰戦争で逃げ回った庶民の立場の
者の回答です。
歴史は庶民抜きで語られる事が多く、いつの間にかその庶民によっても
改変されて行く物です。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
<その戦いに巻き込まれた庶民にとっては迷惑以外の何物でも
ありませんでした。>ですね。
長岡も会津も。しかし、月日が経つと感情が薄まり、侍の点(派手な点)からの評価が生まれるのですね。
<歴史は庶民抜きで語られる事が多く、いつの間にかその庶民によっても
改変されて行く物です。>ですね。

お礼日時:2021/03/11 16:50

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人はこんなQ&Aも見ています

gooドクター

このQ&Aを見た人がよく見るQ&A

人気Q&Aランキング