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最近になって、ザ・フォーク・クルセダーズに興味を抱くようになったのですが、彼らの経緯を簡潔に教えて頂ければ幸いです。また、彼らは再結成?みたいなことを何度かしているのですか?

A 回答 (3件)

No2です。

URLをまちがえました。

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同世代です。



もともとはアマチュア時代のバンドが解散記念で「帰ってきた酔っぱらい」を自費出版したら、たまたま有線放送で放送され、人気が人気を呼び、それが大当たり。

とりあえず解散を1年延期して、プロデビュー。出す曲出す曲が大ヒット。そして1年後に約束通り解散。

はしだのりひとと加藤和彦はソロやグループで音楽活動をしたけれど、北山は医者になりました。しかし作詞活動は続け、さまざまなミュージシャンに提供しましたね。

イベントで再結成などをやったことはあります。しかしはしだのりひとが病気に倒れたため、アルフィーの坂崎幸之助が参加したりしました。フォークルとしての活動は1年だけです。

「帰ってきたヨッパライ」は衝撃的でしたね。ギターやバケツなどを使いテープレコーダの早まきも使って友人達とまねをしました。懐かしい思い出です。


https://www.google.com/search?client=firefox-b-d …
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ウィキペディア


略歴
アマチュア時代
1965年、当時大学生の加藤和彦の雑誌「MEN'S CLUB」での呼びかけに応じ、北山修が妹の自転車で加藤を訪ねる。その後、平沼義男、浪人生の井村幹生、芦田雅喜が加わって5人で結成され、「世界中の民謡を紹介する」というコンセプトから「ザ・フォーク・クルセイダーズ」と名乗る。その後、受験勉強のため井村と芦田が脱退、3人組となる。その後、大阪外国語大学生となった芦田が復帰、再び4人組で活動するが、芦田が2度目の脱退をし、またも三人組になり、関西アンダーグラウンドシーンで活動していた。1967年の解散を記念して、製作費23万円で[1]自主制作盤のアルバム『ハレンチ』を制作。300枚しか制作できなかったこのアルバムの中に、自作の『帰って来たヨッパライ』と、アマチュア時代から歌い続けてきた『イムジン河』が含まれていた。三人時代に制作されたものだが、ライブテープを一部使用しているため、芦田の声も聞くことが出来る。最初期に脱退した井村の声は入っていない。同年10月に開催された第1回フォークキャンプコンサートに出演した後に解散する[2]。

プロデビュー
1967年、アルバム『ハレンチ』を音源として、フォークルの歌がラジオでさかんに取り上げられるようになった。京都では『イムジン河』、神戸では『帰って来たヨッパライ』が頻繁にラジオで流されるようになった。やがて、こうした状況を察知した各レコード会社が再結成とプロデビューの話を持ちかける。加藤は反対したが、北山の説得に応じて「それでは一年だけなら」とのことで一年限りのプロ活動を承認し再結成。プロデビューに当たっては、平沼らに代わってはしだのりひこが参加する(北山は声が良くスター性のある杉田二郎を3人目に推薦したが、加藤がプロ活動の条件にはしだの加入を主張したとのこと。また北山が杉田を推薦した理由が「背を揃えるため」というのは後付けであった)。『帰って来たヨッパライ』は1968年に開始されたオリコンで史上初のミリオンヒットになるなど、当時の日本のバンドによるシングル売り上げ一位となる爆発的売れ行きを見せ、一躍メンバーは時の人になった。そして『帰って来たヨッパライ』、『悲しくてやりきれない』などの楽曲を含むアルバム『紀元貮阡年』により、大衆音楽への新たな方向性を切り開いた。1968年10月17日、大阪でのさよならコンサート(この公演では平沼と芦田も第一幕に参加している。北山は井村が抜けているにもかかわらず、これが初代のメンバーといっている)を開き、同日の『11PM』に出演。約束通りに解散した。『青年は荒野をめざす』(五木寛之作詞)が本グループとして最後のシングル曲になり、1968年12月に発売されている。『週刊平凡』1968年9月19日号によると、累計売上は14億5000万円[1]。
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