ウィトゲンシュタインがたどったような思考途上にいることは我欲的な人間になるということでしょうか?また、言語ゲームの存在を認識したのはいいが、「言い切れないだとか、口を開けない、だとか、言っては虚偽になる」だとかの状態から次の世界を開くにはどの様な思考過程を経ることになるのですか?宜しくお願いします。

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A 回答 (2件)

 一言で言えば、ずいぶんと気楽になる、ということです。

ただし、これは、私のヴィトゲンシュタイン観ですから、無理強いは出来ないことを断って、話を続けます。
 彼が求めたものも、最初、理由とともに真実でした。しかし、それらは、実は、思考が陥る迷路であって、出口はありません。世界や人間にとっての存在理由や人生の真実など、あるはずもなく、考えること自体、それらの帰結を望んでいた自己満足の世界であるだけなのです。ですから、そのような罠に捕らわれない思考は、反面では、孤高の思考方法ではありますが、肩の凝らない、考えても無駄なことはいっさい考えない、非常に合理的な思考方法です。
 彼の思考方法をとらない人からすると、「何事もなしえない」のが哲学では、あまりにも自分勝手で、商売あがったりだ、ということで、神秘的な真実や教文のような難解な文言をあやつって、精一杯利益をあげたいので、「いや、何事かをなしえるのが哲学だ」という風に反論したいのだ、と思いますが、本当にそうなのでしょうか?
 出来ないことを学問に求めるのは、筋違いだ、と私も思います。
 ですから、彼がその後辿った道のりは、やはり、きわめて合理的はあるが、それが故に、一般的な常識とはかけ離れた、孤独な道のりであります。
 禅問答のように聞こえるかもしれませんが、それは、我欲的な人間になるということではなく、絶対的に他者を存在として認識するが故に、あたかも無関係のように<深い沈黙の愛>を伝えたい、という彼の願いなのではないでしょうか。
 ヴィトゲンシュタインの次の世界とは、イメージすれば、うっすらと乳白色の霧がかかった、見えそうで見えない都会の中の「小さな公園」のようなものではないでしょうか。憩うことも出来れば、遊びそうで遊べない、そんな曖昧な世界です。

 
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この回答へのお礼

あなたの文章に対応するように、返答したい所ですがあなたの文章が、精練されているのでそのすべての文章を、ここに引用してしまう事になります。
>一言で言えば、ずいぶんと気楽になる、ということです。ただし、これは、私のヴィトゲンシュタイン観ですから、無理強いは出来ないことを断って、話を続けます。
 僕は気楽になって舞い上がってました。やっぱり間抜けでした。
>彼が求めたものも、最初、理由とともに真実でした。しかし、それらは、実は、思考が陥る迷路であって、出口はありません。世界や人間にとっての存在理由や人生の真実など、あるはずもなく、考えること自体、それらの帰結を望んでいた自己満足の世界であるだけなのです。
 しかもその満足、(したことあったかな?)今となっては色あせも褪せる、もはやその化石にも待ってはくれませんでした。僕がかつて何を考えていたかなんて、、、
>ですから、そのような罠に捕らわれない思考は、反面では、孤高の思考方法ではありますが、肩の凝らない、考えても無駄なことはいっさい考えない、非常に合理的な思考方法です。
 そうでした、なんかこれもこれもばっさばっさ切り捨てると言うよりは、切らずして切る!いや、通りすがり、のような屋上で触れる喧騒のそばにいるような、スイスイ感のある悩める思考でした。いまもそうかな。
>彼の思考方法をとらない人からすると、「何事もなしえない」のが哲学では、あまりにも自分勝手で、商売あがったりだ、ということで、神秘的な真実や教文のような難解な文言をあやつって、精一杯利益をあげたいので、「いや、何事かをなしえるのが哲学だ」という風に反論したいのだ、と思いますが、本当にそうなのでしょうか?
 ちがうと思います。あえて言うならまさに彼らの扱うのは商売人、の言語ゲームでしょう。意図を含んだものであるに違いないように思います。
>出来ないことを学問に求めるのは、筋違いだ、と私も思います。ですから、彼がその後辿った道のりは、やはり、きわめて合理的はあるが、それが故に、一般的な常識とはかけ離れた、孤独な道のりであります。
 まさに筋違いといったところでしょうか、すると、どうでもいいことを言いますが、ウィトゲン的思考が哲学思考は学問とかの問題でなく、とらわれの言語ゲームプレーヤー的思考のみが哲学と呼ばれうるのか?
>禅問答のように聞こえるかもしれませんが、それは、我欲的な人間になるということではなく、絶対的に他者を存在として認識するが故に、あたかも無関係のように<深い沈黙の愛>を伝えたい、という彼の願いなのではないでしょうか。
 希望だけが残ったか、、、。愛は善にあらず。確かに彼にはそのようなものを感じます。しかし、別に嘘をついてもよかったようにも思います。断っているんだし、、、。
僕は、ウィトゲンの言い切れない部分をどうだい!的に言い切ることができると思ったのですが、ウィトゲンの言った?とおりになりましたね。しっかり解決してるんですが、、、、。ぼくはこう言おうと思ってました。
僕ら(いきなりおかしい)の目により、その前の世界がそれぞれの世界であるから、ということは、私は他の絶対的なものの目により維持されている事に違いないと思う。
>ヴィトゲンシュタインの次の世界とは、イメージすれば、うっすらと乳白色の霧がかかった、見えそうで見えない都会の中の「小さな公園」のようなものではないでしょうか。憩うことも出来れば、遊びそうで遊べない、そんな曖昧な世界です。
 そんな人気のない公園で、僕が飲むのは茶店下がりのレモネードです。僕にはまだまだ先の思考があるように思えます。そしてそれが世界を僕に開示するのか、それが世界をつくるのか、、、。いいかげんなお礼で申し訳ないですが、今回はほんとにありがとうございました。又お会いできるとうれしいです。

お礼日時:2001/08/23 13:16

我欲的な人間ということではないと思います。


初期においても彼はひたすらに哲学的問題を解こうとしたのであり、その結果出てきたのが哲学的事柄について書かれてきた多くの命題や問いは誤りなのでなく「無意味だ」という見解です。そこには偽であることと無意味の区別やそれを支えた真理条件意味論など様々な概念装置があります。彼の哲学的沈黙も語りうることと示すことの区別という哲学的洞察に支えられたものであり「言っては虚偽になる」のではなく、語りえないものを語ることは「無意味だ」。それは示されるのであり沈黙せざるを得ないという言語観に貫かれている。

後期の言語ゲームという考えはもっと根源的なものである。
例えば人間が語れるのも動物とは異なった理性的能力があって語りうるのだと考える人もあろう。しかしこれは誤っている。動物は考えないから話さないのでなくただ単に話さないのである。我々は、命令し、問い、語り、雑談するがこのことは歩いたり食べたり飲んだり遊んだりすること同様、我々の自然史の一環なのである。
人が話すのは、猫が木登りするのと同じような次元なのである。言語ゲームとは言語を話すということが一つの活動ないし生活様式の一部であることを解明したものであり、言語ゲームを成立させているのは理性的根拠でなく慣れ親しんだ生活様式に他ならない。話すことは生きることと不可分という視点が必要だ。

他者と教え教わる交渉的世界は出てきても、我欲という世界は出てこないように思われる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
>他者と教え教わる交渉的世界
 これは、生活様式等の一部のことですか?
>それは示されるのであり沈黙せざるを得ないという言語観に貫かれている。
 無意味を語る事は出来ないという事ではないのですか?すべてが内在するものであり、それの外にはでる事が出来ない=語れない=沈黙。
語りえないものは理性的根拠でなく慣れ親しんだ生活様式でとらえられているということでしょうか?

>理性的能力があって・・・・
 これは、超音波が聞こえるこうもりと、聞こえない人間、理性の進んだ人間と比べて進んでないこうもりという所に話す話さない、又、こうもり同士にも聴力の差がみられるのにたいし、人間同士でも理性の進んでるかそうでないかが見られるというところの話ですか?
>他者と教え教わる交渉的世界は出てきても、我欲という世界は出てこないように思われる。
 共有しているようでしていない、そこら辺が、言語ゲームの我欲的である所と思うのですがどうでしょう?

お礼日時:2001/09/14 20:40

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Qウィトゲンシュタインとさだまさし

   ウィトゲンシュタイン「語り得ぬものに関しては,沈黙しなければならない」『論理学哲学草稿』

   さだまさし「雨の降る日は天気が悪い」『?』


同義反復という意味でこの二つの言明はまったく等価と思われます(もちろん意味内容的には言表可能性と天候の違いはある)。

違うとすれば,何が違うんでしょうか? 哲学的に,もしくは言語的に(あるいはそれ以外で),経済学部卒にわかるようにご説明ねがえませんか? 素人観測的印象論は,面白いものだけ歓迎します。

Aベストアンサー

面白くもなんともない回答ですが

ヴィトケンシュタインについては
沈黙しなければなりませんが

さだまさしには異議あり

恵みの雨があるじゃないですか、
需要が供給を呼ぶと言うのでしょうか、必要が進歩を促すんですね。

結論 この二つの命題は等価ではない。笑ってください

Q「命は大切だ」とか「生きているだけで素晴らしい」とか言う人が嫌いです。

私はmixiをやっているのですが、「命は大切だ」とか「生きているだけですばらしい」といった内容の日記を書く友人がいます。私はそのようなことを臆面もなく言う(書く)人が虫酸が走るほど大嫌いです。しかし、なぜそのようなことを言う人が嫌いなのか、うまく説明することができません。この私の気持ちを説明しているような本などはありませんでしょうか。中島義道さんなどが書いているかも…と思って探してみましたが、見つけることができませんでした。
また、それ以外にも、「命は大切である」「生きているだけですばらしい」という意見に疑問を呈し、反論しているような著作、もしくは、そうである理由を分かりやすく明確に論じている本も同時に探しております。心当たりのある方、オススメの本がある、という方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えていただきたく思います。よろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

わたしも中島義道さんなら書いているような気がします。
昔読んだ記憶があるのですが『私の嫌いな10の人びと 』(新潮社)にあったかなあ、と思って検索してみたら、こんなページがヒットしました。
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/439703.html

ここにある
「定型的な言葉を使って何の疑問も感じない人。自分の信念を正確に表現する労力を払わない人。周囲から発せられるその時々のサインを尊重せず、自分の殻(安全地帯)の中に小さく閉じこもってしまう人。」
というのが、質問者さんの

> 「命は大切だ」とか「生きているだけですばらしい」といった内容の日記を書く友人がいます。私はそのようなことを臆面もなく言う(書く)人が虫酸が走るほど大嫌いです。

の答えになるのではないでしょうか。

あと、いっそ倫理学の本を読んだ方がいいかもしれません。
加藤尚武の『現代倫理学入門』には、
「10人の命を救うために一人の人を殺すことは許されるか」とか
「10人のエイズ患者に対して特効薬が一人分しかない時、誰に渡すか」
と具体的な問題が提起され、「倫理的に考える」というのはどういうことかが示されています。

具体的な問題にもっと興味があれば『倫理問題101題』(マーティン・コーエン ちくま学芸文庫)もおもしろい。
この本には「どう考えたらいいか」という考え方の筋道は示してありますが、結論は出してありません。
たとえばこの本のジレンマ1に、沈んでゆく船から救命ボートで逃げようとしているときに、「ひとりでも多くの船員を助けるべきかどうか」という例題が載っているのですが、「命は大切だ」とか「生きているだけですばらしい」といった定型文では解決できない問題ですよね。

そういう定型文を使う人を批判するならば、質問者さんの側に、もういっぽ踏み込んだ考えなりなんなりというものを持っていくことが必要ではないのでしょうか。そういうときの、考える訓練の助けになると思います。

参考URL:http://www.shinchosha.co.jp/books/html/439703.html

わたしも中島義道さんなら書いているような気がします。
昔読んだ記憶があるのですが『私の嫌いな10の人びと 』(新潮社)にあったかなあ、と思って検索してみたら、こんなページがヒットしました。
http://www.shinchosha.co.jp/books/html/439703.html

ここにある
「定型的な言葉を使って何の疑問も感じない人。自分の信念を正確に表現する労力を払わない人。周囲から発せられるその時々のサインを尊重せず、自分の殻(安全地帯)の中に小さく閉じこもってしまう人。」
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> 「...続きを読む

Q思考が現実化するなら、思考とメルヘンの違いは?

思考は現実化する
ザ・シークレット
7つの習慣
成功の9ステップ
ユダヤ人大富豪の教え
etc...

この質問を読まれている方は、自己啓発に興味がおありかと思います。
また、上記の有名な自己啓発系の本を全部読んでいるかもしれませんし、読まれていないものもあるかもしれません。

私がこれらの本を読んでどうしてもわからないことがあったので、質問させて頂きたいのです。理解力のなさを申し訳なく思います。

自己啓発の本には、大体下のようなことが書かれているかと思います。
『成りたい自分をイメージすれば、その通りの自分になれる』

思ったとおりのことが現実となりうるのであれば、メルヘンと思考の違いはどこにあるのでしょうか?

私は今「今すぐに空を飛びたい!!」という思考をしても空を飛べません、今やってみました。

この場合思考は現実化していませんが、ライト兄弟は飛行機を作って見事空を飛ぶことができました。

現実化する思考と現実化しない思考、この違いは一体何なのでしょうか?

あるいは区別がつかないから信念を持ってできるまで努力をすべきということですか?

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>現実化する思考と現実化しない思考、この違いは一体何なのでしょうか?

 対象を把握する、その仕方の違いだと思います――言ってみれば、記号と象徴。

 例えば「空」をイメージしてみる。青く澄んだその色や、真っ赤に染まるその色ひとつをとっても、色で空を把握することは叶わない。見上げたときの広がりと、見下ろしたときの薄っぺらな空を、あるときは地表の伸張として把握できても、それはひと時のことであって、やがて空は空へと変わり、暁は今日へと姿を変える。
 空に対するこのような把握の仕方は、決して完全には知り得ない「何か」を、表現可能な最上の妥当性で掴み取ろうとする所作だと思える。
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 それに対し、空を置き換え可能な代替物として把握する仕方がある。空を構成する成分であり、それは粒子であり、流体であるような、空に対する賛辞からすればその表現は決して妥当とは言えないものではあっても、それは類似物に見立てて把握することで、空の「何か」を掴み取ろうとする所作だと思える。
 これを、記号的把握と呼んでみることにする。

 「飛ぶ」という行為を考えたとき、それが現実化するだろう仕方は、いったいどちらの把握をする場合だろうか。それは、おそらく後者ではないだろうか。なぜなら、前者で「空」を把握する者は、すでに飛んでいるからなのだろう。ルイス・セプルベダの『カモメに飛ぶことを教えた猫』を読むとき、読者はきっと、この時制の異なりにいちばん胸を打たれるのではないだろうか。

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Q現代哲学者はウィトゲンシュタインを無視しているのでしょうか

先日、永井均氏の「なぜ意識は存在しないのか」を読み、非常に面白い読書体験をしました。
その中で氏は
「この半世紀で現代哲学者は、すっかりウィトゲンシュタインの私的言語批判をわすれてしまった。」
と書いていました。
現代の哲学者、科学者たちは、しきりに意識を科学的に描写する用語として、クオリアという用語を取り上げます。しかし、ウィトゲンシュタインからすれば、クオリアという概念は、科学用語と心理学用語の使用範囲の混同によってうまれた、誤解の産物ということになってしまいます。
現代の哲学者たちは、この批判をすでに乗り越えているのでしょうか。それとも、無視しているのでしょうか。ご回答お待ちしています。

Aベストアンサー


哲学的な問題なので、根本を問いたいと思います。

さて、あなたは、何故このような問いを発したのでしょうか?
あなたは、質問の根拠を永井氏の発言に置いています。
しかし、永井氏は、一個人です。
一個人の発言を元に、現代哲学、科学者に疑問を呈するのはどうでしょう?
また氏は、「をわすれてしまった。」と答えています。
そこに、答えを示しているではありませんか?なぜ、それを無視して別の疑問として問うのでしょうか?

あなたのプロフィールを見ました。
質問回数:102件
回答回数:0 件
すごいことですね、これこそ先に良識を問われる問題でしょう。

問いの答えは、永井氏が答えていますが、「忘れてしまった。」です。

Q信じないとは 非思考の庭にて信じないと信じることだ

 神は 《非知》である。

 ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~

   経験事象
     可知
       既知
       未知
     不可知(知り得ないと知った)
   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
 
  ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~

  非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)
 _______________________
      ↓          ↓
    ・・・・・・・・・にんげん・・・・・・・・・・・・・
  非思考の庭(クレド=しんじる。心の明け。ヒラメキ):信仰
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  思考の緑野(コギト=かんがえる。⇒田園および都市):宗教
  感性の原野(センスス・コムニス。直感かつ直観)
 ________________________

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 ☆ 《宗教》は 信仰(非思考)をオシエ(思考)に代えた。要らぬ思考や想像は 削ぎ落されて行くことでしょう。

 オシエを信じる=つまり 思考物を非思考とする。これは ゆるされない。そこ(オシエ)では 想像の産物としての神が・つまり おもちゃの神が 取り憑かれたかのように観念において思い込まされている。


 《信仰:非思考の庭なる動態》 これは 世界では 名前の違う《神》が持たれているので その形態も名称が違って来ているようだけれど 中身は 類型的にみないっしょである。次のごとく:


 A. ブラフマニズム:梵我一如
   梵:ブラフマン・・・・・マクロコスモス。神
   我:アートマン・・・・・ミクロコスモス。霊我

 B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)
   無梵:空・シューナター・ゼロ
   無我:アン‐アートマン;ニルワーナ

 C. ブディズム:仏仏一如
   仏:アミターバ・ブッダ / マハーワイローチャナ
   仏:如来蔵・ブッダター(仏性)

 D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》

 E. (プラトン?):霊霊一如
   霊:宇宙霊魂(プシュケー・コスムー) / 世界霊魂(アニマ・ムンディ)
   霊:《われ》

 F. 《もののあはれを知る》
   霊:かみ(自然および超自然)
   霊:われ(自然本性)



 ☆ これらは 《思考》ではないというところが ミソである。

 すなわち中で  《B. ゴータマ・ブッダ:無梵無我一如(=無神論)》のごとく  《神を信じない》という向きにあっては それでもその場合には《信じないと信じている》のであり 《〈無い神〉を信じている(つまり 心に受け容れている)》ということだ。


 以上のたたき台について その成否を問います。どうぞ思いっきり自由なご見解をお寄せください。
   

 神は 《非知》である。

 ○ 《非知》とは ~~~~~~~~~~~

   経験事象
     可知
       既知
       未知
     不可知(知り得ないと知った)
   非経験の場
     非知(知り得るか知り得ないかが知り得ない)
 
  ○ (非知なる非経験の場(神)⇒わが心なる非思考の庭)~~~

  非経験の場 (非知・絶対・無限・つまり 神)
 _______________________
      ↓          ↓
    ・・・・・・・・・にん...続きを読む

Aベストアンサー

こんにちは。


すこし調べてみたのですが、
《非知》という言葉は、バタイユが使っているらしいですね。

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ただ、この<非-知>がやっかいで、バタイユによると理性ではわかり得ない領域をさしており、ある究極の状態であるということなのである。さらにバタイユは<非-知>を説明不能の状態でありながらも、それを伝えるため言葉で語っているため二重の難解さが発生しているのです。

http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/1e21ffdf201798abcbf38cf64c862395
────────────


神秘主義でいうところの《神秘体験》の場を非経験の庭ととらえれば、
おそらく、
bragelonneさんのものと同じ構図になるのでしょう。

神秘主義
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A7%98%E4%B8%BB%E7%BE%A9


仏教などですと、
《悟り》という言葉を使うとすこし問題がある───使い古される過程において、いろいろな不純物、夾雑物、解釈がはいっている。特に問題なのは、《禅》の怪しげな《悟り》、ナマザトリ!!───ので、
この境地、世界(?)、領域を《あのくたらさんみゃくさんぼだい・anuttara-samyak-sambodhi》と呼んだ。
これは、肉体を有する、その意味において有限な人間の到達可能な、最終的な《神(?)領域》ということになるんでしょう。
そして、
《anuttara》は、けっして、仏教の専売特許ではなく、
ジャイナ教では、《神さま領域・class of gods》を意味します。
そして、これがいかなるものであるか答えることができない・《anuttara》の領域です。
これを言葉にしたら、言葉で表現したら、その時点でウソになってしまう世界、領域・・・。

────────────
anuttara: mfn. chief , principal ; best , excellent ; without a reply , unable to answer , silent ; fixed , firm ; low , inferior , base ; south , southern ; (%{am}) n. a reply which is coherent or evasive and therefore held to be no answer ; (%{As}) m. pl. a class of gods among the Jainas.

http://www.sanskrit-lexicon.uni-koeln.de/cgi-bin/tamil/recherche
────────────


ほいで、
仏教の悲劇は、
インドの《ダルマ・dharma》という超多義語を使わざるを得なかったところあるんでげしょ。
《dharma》という言葉は、現象、存在、オシエ、道徳、法律、真理などなど、なんでも意味しますので。
───大乗は、これを逆手にとった(笑い)───
《dharma》のオシエ、道徳、戒律などが強調され、前面に出れば、《Theravada・テーラヴァーダ》になる。戒律主義になる。
現象や存在が前面に出れば、《あびだるま・abhidharma》哲学になってしまう。
歪んでしまう。
律、論、経などは、あくまで《anuttara》に至るための下準備に過ぎないんですがね~。

こんなことを言うと怒られてしまうかもしれませんが、
基本、変わらないんですよ、
仏教とバラモン・ヒンズー教の《ヨーガ学派》。
ほとんど同じ。
最後の一線、《anuttara》の領域のとらえ方、表現が違うだけ(笑い)。
そして、
ブディストの皆さんは、
「《ヨーガ学派》の説くヨーガでいたることのできる最高の境地、心的状態は《無想定》だ。俺らには、その《無想定》の上の究極のヨーガ《滅尽定》がある。だから、仏教の方が偉いんだ」
とおっしゃいます。


《信(仰)・zraddA》には、beliefやtrust、faithとかいろいろな意味がありますけれども、
結局は、ヴァスバンドゥーのいう《こころの清らかさ》になるんでしょう。《こころの明け》や《こころの空(あ)け》と呼んでもいいでしょうね。
ここに帰着する、もしくは、ここに源を発している、ということになる。
これを(聖)霊のハタラキと呼ぶか、如来蔵のハタラキと呼ぶか、はたまた、梵に抱かれようとするアートマンの欲求───欲求はまずいか、ならば、希求としておこう───と呼ぶか、
それはおそらく表現の違い。
そして、わたしはこれを《自性清浄心》と呼びます。



☆☆☆☆☆☆
ん~、
~~~~~~
 D. クリスチアニズム:霊霊一如
   霊:神・聖霊
   霊:《神の宮なるわれ》
~~~~~~
とある《聖霊》のとらえ方が違うんだよな~。

わたしは、聖霊を人間側の方に持ってきちゃうんで。


《もののあはれ》は、感性や情的な世界なので、
《とりあえず・ひとまず理性主義をとりましょう》の私の立場とは、相容れないです(ポリポリ)。

こんにちは。


すこし調べてみたのですが、
《非知》という言葉は、バタイユが使っているらしいですね。

────────────
ただ、この<非-知>がやっかいで、バタイユによると理性ではわかり得ない領域をさしており、ある究極の状態であるということなのである。さらにバタイユは<非-知>を説明不能の状態でありながらも、それを伝えるため言葉で語っているため二重の難解さが発生しているのです。

http://blog.goo.ne.jp/masamasa_1961/e/1e21ffdf201798abcbf38cf64c862395
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神秘主義でいうとこ...続きを読む


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