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偉大な人物であり、主従である信長・秀吉に関して
信長は秀吉の器量について
秀吉は信長の威厳について
互いに恐れを抱いていた、と思われますか?

gooドクター

A 回答 (4件)

秀吉は、信長を怖れていたと思います。


信長は、秀吉の器量は器用貧乏の類で、便利な部下としか思ってなかったでしょう。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<秀吉は、信長を怖れ>
<便利な部下としか>なのですね。

お礼日時:2021/04/04 18:10

No3です。



秀吉が信長の威光を最大限利用したのは「本能寺の変」以降ですね。

彼はそのニュースを聞いて何をしたのか。

近畿一円の有力大名に対して「信長様は本能寺を脱出された」とフェイクニュースの書簡をばらまいたんですよ。京都で信長の遺体がみつからなかった情報をいちはやくキャッチしていたのでしょう。そして反逆人光秀を討ち取るため、我が陣営に参加するように檄をとばしているのです。

その効果もあり、畿内の武将には明智光秀に従う者は少なかったのです。反対に秀吉軍には山崎の戦いにいくまえに、次々と近隣の大名が参加します。最終的には秀吉軍は当初の数倍の軍勢になっていたんですよ。

さらに秀吉は信長の孫である三法師をかつぐことにより、信長政権の後継者としての地位を決定的にします。
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この回答へのお礼

再度のご回答ありがとうございました。
信長の亡き後、秀吉は<信長の威光を最大限利用>したのですね。
賢いというか、運が良かったというか。

お礼日時:2021/04/05 13:31

信長は人事の采配などをみていると、自分自身に相当の自信があったように思われます。

ですので他の人の器量を怖れるようなことはないでしょう。

秀吉は「信長の威厳」を怖れるというよりも、最大限利用していたと思いますね。彼は信長に引き立てられたからこそ、あそこまでの大名になれたわけですし。

ただ秀吉は家康をおそれていたでしょう。小牧・長久手の戦いにおいて家康が戦場では秀吉軍を破っています。ですから三河ではなく近畿からより遠くの関東に配置換えを命じています。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。
自信家の信長は<他の人の器量を怖れるようなことはない>のですね。
秀吉は<「信長の威厳」を怖れるというよりも、最大限利用>なのですね。

お礼日時:2021/04/04 19:19

信長は秀吉を使える部下としてしか、捉えていなかったようです。

古参の部下なので、多少は贔屓していたようです。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます。
<使える部下として>秀吉を、なのですね。

お礼日時:2021/04/04 18:12

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