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たまたまテレビで日本の鉄道の番組をみました。 1872年10月14日午前10時に新橋を出発と説明があり、ネットでみたら、ダイアもそのようになっていました。
http://www6.plala.or.jp/orchidplace/Inishie.html
で、日本の暦はともかく、時刻はどのように決められていたのかをネットでみたら、次のようでした。
1884年10月の国際子午線並びに計時法会議の結果を採用し、1882年1月1日より東経 135度上での時刻を日本全国で使うようになった。
http://photon.sci-museum.kita.osaka.jp/publish/t …
で、1872年10月頃の0時は、どのように決めて、鉄道の運行をしようとしていたのでしょうか。

質問者からの補足コメント

  • 「1884年10月の国際子午線並びに計時法会議の結果を採用し、1882年1月1日より東経 135度上での時刻を日本全国で使う」と決めたのは、1886年です。

      補足日時:2021/04/05 20:01
gooドクター

A 回答 (2件)

明治5年の頃は 時間や日付が、


太陰暦から 太陽暦に変わり、太陽が真南に来た時間を
午の刻(12時)とし、日の出を 卯の刻(午前6時)、
日の入りを 酉の刻(午後6時) としたようです。
つまり、季節によって 時間の長さが違っていたようですね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。 見落としていました。

これによると、昼夜=日の出と日の入りで、時刻を決めていたのはわかりました。 ただ、こうすると、経度が違う、(緯度が違っても)時刻が変わり、南中には、東京と京都とでは、時刻に16分程度の時差があったということなのですね。 鉄道の運行ダイヤや電信の連絡など、新しい社会体制を運営して行く上で、国内だけでも、明治5年当時のルールではやっていけない事情があったのですね。
https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=105DF00 …
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%B9%E6%9A%A6 …
明治5年11月9日(1872年12月9日)に、《来る明治5年12月3日をもって明治6年1月1日(1873年1月1日)とする》と決めた
「時刻ノ儀 是迄 昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分チ候処 今後改テ時辰儀 時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二時ニ分チ午前幾時ト称シ 午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分チ午後幾時ト称候事」

お礼日時:2021/04/05 22:09

1番列車は品川を巳の刻(9:00)に出たんでしょw

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この回答へのお礼

テレビでは 10時に出発といっていたように思います。
下記には、次のように書かれています。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki3/jnr7.htm
「明治五年九月十二日(新暦の十月十四日)午前九時、直衣姿の明治天皇は、四頭だての馬車で皇居を出発、東京府知事代理川勝広一らが、馬に乗って行列の先頭にたち、皇族、太政大臣、参議、高級官吏らが、馬車のうしろから歩いて行列にしたがいました。
 洋服姿は一人もなく、みな裃(かみしも)姿でした。
 行列の前後や道の両側には、兵隊がものものしく警戒にあたりました。
 このとき新橋・横浜両式場の装飾は、横浜にすんでいたイギリス人メドリーが考えたものですが、緑葉で柱をまいてアーチをたて、万国旗をはりめぐらしました。
 雨が晴れて、青い秋空がのぞく新橋鉄道館には、無数の万国旗がひるがえり、紅白百千の提灯と緑のアーチが、いっそうの色どりをそえています。
 鉄道館まえで天皐が馬車からおりると、ラッパがひびきわたり近衛兵一大隊が、「ささげつつ」の敬礼をし、駅の構内では、山尾庸三工部少輔、井上勝鉄道頭以下、たくさんの公務員や各国公使らが立って、天皇をむかえました。
 おりから空には花火がうちあげられ、雅楽『万歳楽』が奏せられました。
 このとき井上は、鉄道図一巻を献上しました。
 午前十時、天皇の一行は、十両編成の列車にのり、新橋停車場より横浜へむかいました。」
この《午前十時、~~~ 、新橋停車場より横浜へむかい》

お礼日時:2021/04/05 20:54

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