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『マタイによる福音』 5:8 です。
https://bible.salterrae.net/kougo/html/matthew.h …

きわめて単純に言って われらが神道の信仰に通じるのではないでしょうか?  という問い求めです。ご見解は?



☆ 参考
▲ スサノヲの宣言 ~~~~~~~~~~~~

 ――この地にやって来て、私の心はすがすがしい。

https://kojiki.ys-ray.com/1_7_5_suga_1.html
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

質問者からの補足コメント

  • №5をおぎないます。

    ▲ かれらは神を見るであろう
    ☆ というのは やはり《希望において いま 神を見ている》という意味になるかと思います。

    この希望が――つまりは けっきょく何らさだまった形はないながらにおけるのぞみが―― 元気の素なのではないかと考えます。



    以前 《神は 無根拠である》という命題を問いましたが この希望というのも 無根拠なんです。


    それゆえ 《神は無い》派のほうが 現実的であるという理解の仕方に説得力があります。

    《神は有る》派にあっても――元気の出るみなもとは―― 無根拠なんです。

    神は ナゾです。

    No.5の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/04/16 09:44
gooドクター

A 回答 (5件)

確かに、歴史を紐解けば


心の清い方は存在してて
その存在感をしめせたからこそ
後世に名を残してるのは事実ですもんね

現代社会だと
心の清い人って

( ̄~ ̄;)淘汰されてしまったのかも?

回りを見渡しても
赤子が幼児くらいしか
心の清みきった存在が思い浮かばないから

これは、ワシの社会の認識の仕方の問題かも知れないですね

( ̄~ ̄;)


保留の件!了解です
(  ̄▽ ̄)にっこり

ワシの社会の認識が偏ってるから、さらにこんがらがってしまってるかも?知れないですもんね
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

いや。
★★ 清濁合わせ呑む
☆ という行き方も じつは その視点ないし主体は? と問えば 霊性としてのわれ(霊我)であるといった仮説理論をみちびき出せます。――ということではあります。



★ ~~~
確かに、歴史を紐解けば
心の清い方は存在してて
その存在感をしめせたからこそ
後世に名を残してるのは事実ですもんね

現代社会だと
心の清い人って

( ̄~ ̄;)淘汰されてしまったのかも?
~~~
☆ この視点からの問いについてはですね。けっきょく《霊性としての心の清らかさ》というのは――もっと具体的に現実的に表わそうと思えば―― 《希望において心が――誰もかれも例外なく――清い》という主観が打ち出されることを俟って さらにその主観の共同化を意味します。

この主観が まぼろしかどうか。まぼろしに過ぎないとして 葬り去るべき命題か? が問われます。



やや安易な議論としては 日本では《仏性が 生まれつき誰にもやどる(一切衆生 悉有仏性)》という共同幻想が現実的である。このことより この《きよらかな〔おそれをおびつつも のぞみにおいてきよい〕こころ》なる命題を共有できるといいかなと思います。

お礼日時:2021/04/16 09:33

( ̄~ ̄;)



心の汚なさを見てしまうのは

自分自身も心の汚なさを理解してるから
わかる話であって

心を清濁で捉えるべきなのか?
心って清濁併呑で捉えるべかなのか?

ワシ的には後者なんだけど
とりあえず、心さえ在ればそれでいいと
思ってしまうのは

bragelloneさん的には、神道から外れてますか?

自分自身の心を無くしたり
他人の心を感じられなかったり


そちらの方が、汚れよりも
((((;゜Д゜)))恐いもんね
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


★ 心を清濁で捉えるべきなのか?
心って清濁併呑で捉えるべかなのか?
☆ そのお話とは微妙に違います。

《心の清い人たちは》と言ったとき 存在の全体で・人格のすべてにおいて何はともあれ《心が清い》と言っています。


たとえば 人には生まれつききよらかなブッダター(仏性)が――霊性として――そなわっているという命題(ある種の想定)を受け容れたとき ブッダターのほかにも 地獄界や餓鬼界などなどが人間性の内にはたらくであろうと知られています。


言いかえると 経験事象〔としての感性の原野や思考の緑野〕を超えた霊性として《心が清い》と言っているわけです。

すなわち:
★ 心って清濁併呑で捉えるべき
☆ という視点と微妙に違うはずなんです。

《清濁》は 経験的な事象(心的現象)として相対的な――ふたつの対立する――状態を言っています。

言いかえると 《心の清い》という場合の《心》は 思考の緑野やその知性の領域のことではなく やはりそれを超えた霊性として言っています。

まぎらわしいですが そういう心の広義の構造的なあり方として理解することが出来るとは思います。





★ ~~~
自分自身の心を無くしたり
他人の心を感じられなかったり


そちらの方が、汚れよりも
((((;゜Д゜)))恐いもんね
~~~
☆ これは むつかしい。通りすがりに議論するだけではダメでしょうね。サイコパスといった問題にもつながっているんでしょう?

保留します。

お礼日時:2021/04/16 08:58

これが八岐大蛇らしい。


ある方がこんなものを展示していた。
巧いなあ。
頭が8つある蛇の姿を折ったらしい。
「《心の清い人たちはさいわいである。かれら」の回答画像3
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この回答へのお礼

なるほど。

① 斐伊川の氾濫。つまり 治水の問題。

上流で砂鉄が出て製鉄をやっている。ので川は 赤い。また 支流がいくつかの分かれている。


② コシ(古志=越)の国から 海賊がやって来た。それを退治。

お礼日時:2021/04/14 22:28

だから


スサノヲの尊

スガの大神といい、
須賀(清)神社に
お祭りしたのです。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


語呂合わせのようなんですが そのように心の問題を言っているとは思います。

お礼日時:2021/04/14 22:15

Blessed are the pure in heart, for they shall see God.(幸いなるかな心清き者、その人は神を見ん)。

 マタイ伝によって表現は微妙に違うかも知れませんが、こう言っていますよね。私が高校生のときに覚えたフレーズです。

いい言葉です。だからあれから56年経っても忘れていません。神道の信仰に通じるというよりも、仏教徒の私は、心清き人には有り難いことに神仏のご加護がある、と受け止めています。
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この回答へのお礼

ご回答をありがとうございます。


そうですね。若いときにおぼえたものは なつかしいですよね。


★ 神道の信仰に通じるというよりも、仏教徒の私は、心清き人には有り難いことに神仏のご加護がある、と受け止めています。
☆ そうですね。

ブッダター(仏性)は――ブラフマニズムにおけるアートマン(霊我)とけっきょく同じであると見られると同時に―― 神のルーアハ(霊性)ないしプネウマ(霊性)と同じであると思います。

★ 神仏のご加護がある
☆ は 《神を見るであろう》ことと同じであると見たいと思います。

お礼日時:2021/04/14 20:33

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