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歴史の話になるが 頼朝は何故に弟の義経を殺さねばいけなかったのか、結構 冷酷な人だったにもかかわらず 鎌倉幕府がどうして成立できたのでしょうか。

gooドクター

A 回答 (8件)

源頼朝は自前の軍勢を持っていず、有ったのは、源氏の嫡流の


家系図だけでした。
これだけでは、坂東の豪族を味方にして、源氏を再興するだけの、
勢力は集まりません、そこで、打ち出した考えが、一所懸命です。
朝廷の税金集めを担わさられていた、豪族達に、領有している地域を、
あなた方が管理して下さいと、朝廷からの支配を脱却させました。
当然、朝廷側が黙ってません、平家を滅亡させた後、官位を貰い、公家の
真似をして牛車を乗り回して、浮かれていた源義経を利用しました。
頼朝征伐の勅書を貰った義経も、その気になって、軍勢を集めましたが、
領地を持つ事の旨味を知った豪族達が、協力する訳が無いですよね。

頼朝が何をしようとしているか、義経は何らの考察もしていなかったの
でしょう。
こんな弟を基盤が未だ盤石で無い、頼朝は殺すしか道は無かったと思います。
義経の首を鎌倉に届け、安泰を図った奥州藤原家が坂東武者に攻め
滅ぼされたのは、平家を滅ぼした勢いそのままで行って、領地拡大を
図った物で、時勢なのでしょう・・・
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頼朝をスルーして、朝廷(天皇)から直接、官位貰ったりしてたから。


幕府としてのルール破りは許せない。
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枝葉をぜんぶ削ぎ落すと


「義経をこのままにしておくと武士集団を混乱させ瓦解させ、武士全員に損害を与える」

頼朝は武家の棟梁だった。
棟梁は構成員の利益を保証して初めてその地位を保てる。
それが棟梁の存在意義だからである。
身内をかばってその他全員に損害を与えることはできなかった。

家康もそうだった。
彼は徳川家臣団の分裂を防ぐため、自分の妻子を処刑せざるを得なかった。
彼はそのことで生涯苦しんだ。
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A:>冷酷な人だったにもかかわらず 鎌倉幕府がどうして成立できたのでしょうか。



事情に関わらず身内を殺す=冷酷。

要約:豊臣秀吉や徳川家康は温厚な人格者
ヒント:松平信康、豊臣秀次


回答A:政治力。(恐らく、歴史上の人物の中でもチートクラス)

↑の彼の能力や政策についてですが、↓すら知らないようなあなたにそれを語っても無駄だと思います。
>頼朝は何故に弟の義経を殺さねばいけなかったのか、
「頼朝と義経」の回答画像6
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世界中で遣っていることです。


国を作るのに正統が後継者の中に兄弟はまとまりを崩しますから排除するしかないのでしょう。

頼朝に反発する人は必ずいます、反発するには正当な理由が要ります、正当な理由が無ければ其れはただの反乱ですから、そのためには義経を前面に出して正当な後継者として、戦の正当性を前面に出さなければならい。

それに義経は平家を滅ぼしたことで、庶民に慕われていたから、頼朝より人気があり鎌倉幕府を作るのに弊害になっていたはずです。

中国はもっとひどいですよ、西太合は自分の子供殺していますから。
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歴史には王座を巡って親子兄弟親族が殺し合う事例で満ちている。


昔は権力の継承が血筋で争われていた。皇族・王族で仲が良く、一致団結していた一族を世界から探すのは、相当難しいだろう。

日本でも古代は皇族間の殺し合いは多かった。雄略天皇なんて兄弟親族を殺しまくったために皇位継承権を持つ直系の男子が極端に少なくなり、武烈天皇の死で近親男子が途絶えてしまった。
だから応神天皇5世孫という、ほとんど赤の他人同様の継体天皇が皇位に就かざるを得なくなってしまった。

戦国時代でも、有名どころでは武田信玄は長男を殺し、織田信長も弟を殺している。

頼朝と義経も、朝廷に対する対応を巡って対立した。そして頼朝にとっての義経は、自分に取って代われる血筋だった。殺さなければ、自分が殺されかねない関係だ。
であれば、自分の鎌倉幕府を護り、さらに強くするためには、義経を殺す必要があったということになる。

頼朝が冷酷だったというよりは、両者の抗争は歴史的必然だったと云えるでしょう。
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兄弟と言っても頼朝の母は父義朝の正室由良御前、義経の母は義朝の側室常盤御前、年齢も12歳違います。

長男の頼朝の立場で言えば義経は12歳も離れた「妾の子」なわけです。

 この二人が初めて会ったのは1180年の富士川の戦いのときで、頼朝33歳、義経21歳のときとされています。
 父親が同じとは言うものの、母親が違う兄弟で、21年も会ったことがない兄弟って現代では考えられない関係だと思います。

 確かに義経は平家を滅ぼした立役者ですが、現在の学校教育で鎌倉幕府が成立したとされる1185年には兄弟の対立が始まります。
頼朝の立場とすれば謀反を行う恐れがある義経を倒すのは当然だと思います。
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頼朝は正室 由良御前 の子


義経は側室 常盤御前 の子
加えて、当時は有力貴族の子は乳母が育てるので腹違いの兄弟とはいえ交流はない
言ってみればアカの他人のようなもの。
同じ源氏本流の血を引く者どうしで、覇権争いの対象と認識されていただろう。
「家」を継ぐには、その妨げは排除するということ。
幕府統治は、御家人制や執権制度など、統治体制の基盤をシステマティックに強化したことが大きいのでは?
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