794年に坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられたのになぜ幕府をひらかなっかたのでしょうか?征夷大将軍なら幕府は開けますよね?

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A 回答 (4件)

私は、zawayoshiさんの回答が非常に簡潔に本質をとらえていると思うのですが、それをしつこく説明すれば、以下のようになると思います、



幕府と言うのは、BENIGENさんの回答にあるように、元々は将軍の「陣営」という意味らしいので、坂上田村麻呂の陣営を幕府と呼んでも良いのでしょうが、幕府=武家政権という意味で考えるのであれば、「武家政権の成立の過程で、源頼朝が(たまたま?)征夷大将軍になったから、後に『武家政権の長=征夷大将軍』と考えられるようになった」と見るべきでしょう。それ以前の征夷大将軍には、武家政権は勿論の事、武家の棟梁という意味すら、なかったと思います。
いやより正確には、木曾義仲は、それ以前の征夷大将軍と源頼朝より後の将軍をつなぐ存在とよぶべきかも知れません。関東の頼朝を討伐するという意味では、それ以前の「征夷」と同じ意味を持ちながら、武力クーデターでごく短期間とは言え京都の支配者になったのは事実ですから。
源頼朝が征夷大将軍になったのも、坂上田村麻呂の勇名だけでなく、木曾義仲もかなり意識しての事と考えられています。

いずれにせよ「征夷大将軍になったから幕府が開ける」のではなく、「最初に幕府を開いた人が征夷大将軍になったから、後々、幕府を開ける人は征夷大将軍になるのが慣習のようになった」という事でしょう。

因みに、鎌倉の武家政権の成立過程のうち、1185年に源頼朝が「日本国総追捕使・総地頭」になった事の方が、1192年に源頼朝が征夷大将軍になった事よりも重要です。
2代目頼家は頼朝の死後まもなく「前征夷大将軍(=頼朝)の後を継ぎ、諸国守護をする」よう朝廷から命じられました(=日本総守護・総地頭の地位の継承)が、征夷大将軍に任ぜられたのは3年以上たってからです。源実朝の死後、2歳の藤原頼経が鎌倉に迎えられましたが、それから征夷大将軍になるまでに7年ぐらいありました。
つまり、鎌倉時代初期は幕府にとって「征夷大将軍という地位は必須じゃなかった」という事です。おそらく藤原氏や皇族を将軍として鎌倉幕府が迎えた事が、「武家政権の長として征夷大将軍が必要」という意識を植え付ける事になったのでしょう。
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 書き込みをしようとしたら完璧なBENIGENさんの回答があったんで、歴代の征夷大将軍のリスト見つけたんで紹介します。



 幕府の件に関しては源頼朝の場合は自らが武家政権を確立してから征夷大将軍となったため、「武家政権の府」という
意味合いを持たせることが出来たが、木曽義仲まではそこまでの権力はなかったということですな

参考URL:http://asuka-club.hoops.ne.jp/omocya/syougun.html
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蝦夷氏討伐の為の官位ですから、鎌倉以降の官位とは異なります。


坂上田村麻呂は戦争時の官位ですし、鎌倉以降の征夷大将軍は名誉称号みたいなものですからね。
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元々「征夷大将軍」はその名の通り「蝦夷征討のために奥羽地方へ派遣される将軍」


を指します。そのため「幕府を開く権限」はなかったのです。
しかも役目が終われば任を解かれる「臨時職」でした。

しかし、「征夷」のさいに兵力・食料・等の調達が優先的に行えるように朝廷が
一時的に政治的権限を与えました。その権限が徐々に拡大していき大きな権力と鉈のです。
ちなみに「幕府」とは「征夷」の際に作った「テント基地」の事でした。

坂上田村麻呂の頃は臨時職の意味合いが強かったので、「幕府を開く権限」はまだ無かったのです。

実際に権限を持って幕府を開いたのは「鎌倉幕府」からです。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Pit/6791/hi …
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この回答へのお礼

鎌倉以前と以後の征夷大将軍ではちょっと違ったんですね。やっぱ時代の流れみたいなものですかね~。でもこれで今夜は安心して眠れます。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/08/24 00:56

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Qなぜ征夷大将軍が幕府を開設するための資格になっているのか?

源頼朝は鎌倉幕府、足利尊氏が室町幕府、徳川家康が江戸幕府ですが
全員、征夷大将軍に任命されてから開設していますよね?
なぜアイヌを攻める大将軍が幕府開設なのですか?

Aベストアンサー

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例えば、征夷軍の副官が反抗したら、征夷大将軍は天皇に一々お伺いを立てなくても、自分の判断で処刑してしまっていい、という事です。これは、戦地に行く軍隊の大将軍だから、都度天皇に伺いを立てていたら戦争にならないので、節刀=非常大権を与えられる事で初めて認められる事です。右近衛大将では、都で近衛府を統括する常設武官としての最高位、というだけですから、そういう権限はなく、No.3の方がいうように、結構違います。また、征夷大将軍は、戦地に赴くものですから、都に常駐する必要がありません。
この二点から、東国で独立した政権を打ち立てるには、征夷大将軍が、最適だった、という説です。

2.もう一つは、頼朝がなる少し前に、源義仲が頼朝を討つ為に、武力を背景に無理矢理朝廷に征夷大将軍に命じさせた、という事があって、これにより東国の支配者としての「征夷大将軍」という考え方ができた、というものです。ま、有体に言えば、義仲がもらったタイトルは、義仲に勝った自分にぴったりなんだから、よこせ、って事ですね。
こういう理屈っぽい話は、参考URL↓に纏まっています。

ただ、実際には、本当に「征夷大将軍」と、他の(例えば)鎮守府将軍や右近衛大将とでは、頼朝にとって、決定的に意味が違っていたか、というと実は結構疑わしいものがあります。頼朝は1190年に右大将に任ぜられて、すぐに辞職しますが、その後、御家人に与える幕府の正式文書である政所下文は「前右大将家政所下」と書かれました。1192年に征夷大将軍になると、これは「将軍家政所下」にかわりましたが、そのうちまた「前右大将家政所下」に戻ってしまいます。この事実と、尊卑分脈に「1195年に征夷大将軍を辞任した」という記事がある事から、頼朝が1195年に征夷大将軍を辞したと考える説があり、これは必ずしも定説とは言えませんが、辞めていたら勿論の事、辞めていなくても、自己の権威を主張するのには「征夷大将軍」よりも「前右大将」の方がいい、と思っていた事を意味しますから、どちらにしろ、頼朝にとって、征夷大将軍という地位が、決定的に重要だった訳ではない、とは言えます。また、二代目の頼家は、1199年の頼朝の死の後、直ぐには征夷大将軍にはならず、1202年になっていますが、頼家が早く将軍にならないと困る、なんて話は残っていないです。
つまり、武家の棟梁=征夷大将軍というのは、頼家→実朝→藤原氏出身の所謂「摂家将軍」と言った形で、代々武家の棟梁(名目上のそれを含む)が将軍に任ぜられる事で、そういう概念が定着したのであって、頼朝がどういう理由で征夷大将軍を選んだか、という事を追求しても、それと『何故、征夷大将軍が、武家政権の開設の条件なのか』というのと結び付けるのは、あんまり意味が無いです。だいたい頼朝自身が、大して拘ってないんですから…。つまり、頼家以降代々任じられる事で、慣習上そうなってしまった、って事ですね。

なんで、(例えば)鎮守府将軍ではなくて、征夷大将軍なんだ?とどうしても追求するなら、頼朝がそれを欲しがったから、欲しがった理由については、既に呼べたような推測がされている、ってところでしょう。

中世は、引退した天皇に過ぎず、特別な公法上の地位が無いはずの上皇が、天皇家の家父長としての私的な権威を背に、天皇よりも圧倒的に権力を持つなど、公式の地位以外のものが表に出ていた時代です。あまり、表面の事に拘ると、かえって事実がわからなくなるような気がします。

尚、坂上田村麻呂が戦った相手は、アイヌではなく、東北地方に住んでいた(現代の言い方をすれば)日本人、という事になっています。だから、アイヌを攻める大将軍じゃないです。念の為。

参考URL:http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tsuka/theme/syougun.html

まず、足利や徳川は、鎌倉時代に、武家の棟梁=征夷大将軍という概念が出来ていて、後でそれに乗っかっただけですから、源頼朝にとっての征夷大将軍はなんだったのか、って事を考える必要があります。
以前に、似た質問に対し回答した事があるので、参考にしてください。

一般的に言われるのは、
1.理屈の上では、征夷大将軍は天皇から節刀を受け、戦地に赴く存在だったから、という事がまず考えられます。節刀を受けるという事は、イメージとしては、「天皇の権力の一部を、臨時に代行する」という事で、例...続きを読む

Q「征夷大将軍」「幕府」とはそもそも何?

現在,日本の歴史を改めて勉強しようと思って取り組んでいます。
小学レベルのことは見直し終えて,それで関心のある部分を掘り下げようとしているところです。
今,どうしても分からないのが,将軍がなぜ統治できるのか,ということです。



通常,何者かが国を統治できるとき,そこにはなにか(法律や建前上の)根拠があるはずです。
現代日本であれば,国会,内閣が統治するのですが,
それは憲法を初め,各法律に根拠があって,だからこそそこに権限があるはずです。

それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。


自分が調べた範囲ではこうです。

幕府=本来は単に将軍の居所を指していた(のちに武家政権自体を指すように)
征夷大将軍=臨時設置の将軍(征西大将軍などと並ぶ)



疑問は二つです。
(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?
律令が形式的には生きているのかなと思うのですが,そこに何か根拠があるのでしょうか。

(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?
当時はそのような言い方はせず,「将軍の幕府(=居所)は鎌倉にある」とかいう言い方だったはずです。

現代で言えば○○内閣発足,と言えば,実際には認証官任命式の時点を指すのだと思います。
それでは,「幕府を開く」というのは一体何を指してそう呼んだのでしょう。





色々調べてみたものの,自分の手の届く範囲でははっきりしたことは分かりませんでした。
以上よろしくお願いいたします。

現在,日本の歴史を改めて勉強しようと思って取り組んでいます。
小学レベルのことは見直し終えて,それで関心のある部分を掘り下げようとしているところです。
今,どうしても分からないのが,将軍がなぜ統治できるのか,ということです。



通常,何者かが国を統治できるとき,そこにはなにか(法律や建前上の)根拠があるはずです。
現代日本であれば,国会,内閣が統治するのですが,
それは憲法を初め,各法律に根拠があって,だからこそそこに権限があるはずです。

それで疑問は,征夷大将軍,幕府という...続きを読む

Aベストアンサー

歴史記述というのは基本的に、後世の人間が、過去を後世の人間にとって都合のいいように、あるいは理解しやすいように記述します。
漫画日本の歴史とかに書いてあるように、頼朝が「鎌倉に幕府を開くぞ」なんて言うわけがない。

では幕府概念というのは、いつ成立したか?

これは江戸時代です。

徳川将軍家が一番偉いのはなぜなんでしょうか?
という、現実に一番偉い状態を説明しなければなりません。
日本国憲法があり、その憲法で記述されていれば簡単ですが、そんな憲法は江戸時代にはありません。
イギリスには(成文)憲法はありませんが慣習憲法があるとされています。
ひらたくいえば

いままでが、そうなっているんだから、いまもこれでいいじゃん。

ということでして、江戸時代の人間にとって「これでいいじゃん」と言い切れる制度は、頼朝の将軍職就任です。
中国の古典を読んだら、首都にいない将軍が実際の全国統治をしたときには、幕府って言うらしいぜ、じゃぁ頼朝を鎌倉幕府初代将軍と名付けよう。
はい、こんな感じで、江戸時代の人間が頼朝を鎌倉幕府を開いたことにしました。


(1)なぜ単なる臨時設置の将軍が,全国を統治できることになるのでしょう?

逆です。
現実に全国統治をしている、徳川家がまずありきです。
征夷大将軍に、頼朝や尊氏など武家政権の創始者が任官されていたので、徳川家康も任官させた。臨時設置だからではなく、前例主義です。


(2)「幕府を開く」という表現は一体なんなんのでしょう?

頼朝と、その周辺の人間にとっては新政権を打ち立てたという意識はない。
あくまで、江戸時代の人間が、打ち立てたと記述しただけです。



それで疑問は,征夷大将軍,幕府というものは,一体何を根拠に統治していたのか,
ということです。

頼朝:京都以外の地で、常設軍を身近においてもOKとい許可書みたいなものです。統治とは関係ない。
尊氏:鎌倉殿の前例です
家康:鎌倉殿、室町殿の前例です

補足
武士から王へ―お上の物語 本郷和人著
これによれば、武士は500年かけて統治者意識を持つに至ったとしています。
鎌倉武士にとっては、自分の領地の運営だけが気がかりで、全国統治という意識はない。

歴史記述というのは基本的に、後世の人間が、過去を後世の人間にとって都合のいいように、あるいは理解しやすいように記述します。
漫画日本の歴史とかに書いてあるように、頼朝が「鎌倉に幕府を開くぞ」なんて言うわけがない。

では幕府概念というのは、いつ成立したか?

これは江戸時代です。

徳川将軍家が一番偉いのはなぜなんでしょうか?
という、現実に一番偉い状態を説明しなければなりません。
日本国憲法があり、その憲法で記述されていれば簡単ですが、そんな憲法は江戸時代にはありません。
イギリ...続きを読む

Q平安京は、遷都した794年からいつまで厳密には続きましたか?鎌倉幕府成

平安京は、遷都した794年からいつまで厳密には続きましたか?鎌倉幕府成立して、武士による政治
が行われるまでで、しょうか?それとも、東京遷都まででしょうか?どうか、お願いします。

Aベストアンサー

厳密にいえば,平安京はいまでも都ですよ。
平安京から東京に天皇が行ったのは行幸つまり外出であってそれが長引いているだけです。京都市内には御所があるし,その御所の中には天皇の正式な所在地を示す特別な玉座高御座(たかみくら)がある。
今まで遷都を行うときには必ず発布していた遷都令は,明治のときには出ていません。

Q征夷大将軍とは?

日本の歴史にとって当たり前のことなのですが。
何故、征夷大将軍が武家の頭領であり、幕府を開くことができたのでしょうか?
考えついたのは、大江広元だと思うのですが。

Aベストアンサー

 征夷大将軍が幕府を開くというのは、どういう政治的意味合いなのか、日本の武家政権という政治システムの根幹にかかわる部分で、歴史学者の論文も多数出ています。

 そもそも、征夷大将軍は東北の平定を目的とした軍事最高指揮権を意味し、軍事行動を行なっている地域の軍政を行なうことは出来たでしょうが、日本全国の統治権の根拠となりうるものではなかったようです。

 確定した学説ではないのですが、有力なものを一つ上げます。

 征夷大将軍となるとき、慣例として「源氏の長者・淳和院別当・奨学院別当」を兼ねます。
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/toyokuni.html

 源氏は、天皇の子供(親王)が臣籍降下したときに与えられる姓として高い格式を持ち(平氏は親王よりも代が下がった王に与えられた)、準皇族として扱われ(藤原氏と同じように平安貴族であって、武士ではありません。)ていました。
 平安時代に村上天皇の血統である「村上源氏」は、最高権力者を輩出しましたが、そのような「源氏」という氏族の長であることを、明確にする役職が淳和院別当です。
 また、奨学院は皇族を対象にした学校で、準皇族の源氏も入学することが出来ました。

 源氏の長者が、皇族の将来を左右する奨学院の責任者になることで、皇族代表の地位を明確にし、その立場で天皇の政治を代行するという形を取っているというのが、この説の骨子です。

 尚、源頼朝が鎌倉幕府(幕府=幕を張った本部=軍事用移動司令部)を開いた当時は、征夷大将軍の名前のように、権限が及ぶのは東国だけで、京より西の地域では、平安時代と同じように朝廷の行政権が優越していました。
 鎌倉幕府の全国支配が確立するのは、承久の乱の後のことです。

承久の乱では、三人の上皇(元天皇)が、後鳥羽上皇が隠岐に、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐に配流となり、仲恭天皇(九条廃帝:明治になるまで天皇として認められなかった。)が退位することとなり、朝廷・皇位の権威が著しく失われました。

 征夷大将軍が幕府を開くというのは、どういう政治的意味合いなのか、日本の武家政権という政治システムの根幹にかかわる部分で、歴史学者の論文も多数出ています。

 そもそも、征夷大将軍は東北の平定を目的とした軍事最高指揮権を意味し、軍事行動を行なっている地域の軍政を行なうことは出来たでしょうが、日本全国の統治権の根拠となりうるものではなかったようです。

 確定した学説ではないのですが、有力なものを一つ上げます。

 征夷大将軍となるとき、慣例として「源氏の長者・淳和院別当・...続きを読む

Q二代目以降の征夷大将軍

 征夷大将軍は朝廷が任ずると理解していますが、
二代目以降について、
・誰が手続き的な決定権を持っているか(指名)(実際は先代が決めるのでしょうが。)、
・朝廷が任ずるのか(任命)
をご存じの方、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

>二代目以降の征夷大将軍
> 征夷大将軍は朝廷が任ずると理解していますが、
二代目以降について、
・誰が手続き的な決定権を持っているか(指名)(実際は先代が決めるのでしょうが。)、
・朝廷が任ずるのか(任命)
をご存じの方、よろしくお願いします。

徳川将軍について勉強させて頂きます。
2代秀忠、3代家光、5代綱吉、6代家宣、7代家継、8代吉宗、9代家重、11代家斉、13代家定、14代家茂は、将軍継承についてもめた将軍達です。まず、この将軍達から見ていきたいと思います。
2代秀忠は長兄である信康の死があり、また、家康が天下人となったということで、新たに後継将軍について家康が側近に諮問したという話が残っています。次兄の秀康が対抗馬でしたが、出頭人の本多正信が秀康を推した(正信の子の正純は秀忠を押す)のに対して、秀忠は譜代層の大久保忠隣が推し、最終的に家康が秀忠に決定というプロセスです。将軍就任前の官職は権大納言から直前に内大臣。
3代家光についてはかなり有名ですが、弟の忠長には秀忠の正妻のお江の方と譜代層が推したようです。これに対して家光には乳母の春日局や出頭人層が推したように見えます。(次の説によれば譜代層は家光よりですが)最終的には創業者の家康が決定し、秀忠が追認する形でしょうか。
別の説では、家光は早い段階から世子に内定しており、譜代層を中心として、春日局に近い人間を加味した側近層を形成していた(秀忠の指示であろうとは思いますが)との考え方もあります。幼名竹千代。将軍就任前の官職は権大納言。
5代綱吉は、譜代層を代表する酒井忠清が宮将軍案を主張したのに対して、出頭人の堀田正俊は家綱の弟の綱吉を推して、論争になったとあります。この後がはっきりしないのですが、会議後、堀田は病床の家綱の同意を得てという説と、家綱は死んでいたとの説に分かれますが、江戸城中に綱吉を入れて、(生死は不明ですが)家綱に対面させて、継嗣を決めたとされています。養嗣子決定後、西の丸に入っています。
6代家宣は、綱吉と生母桂昌院及び出頭人中心の側近層が綱吉の嫡子徳松の死後、娘婿の紀州綱教を推したのに対し、水戸光圀や譜代層は綱吉の亡兄綱重の子家宣を推したが、綱教死後、綱吉の決断で将軍世子は家宣と決定し、西の丸へ入っています。将軍就任前の官職は権大納言。
7代家継は、父である家宣が死の床に就いたときに幼少であったため、家宣が将軍就任を危ぶんで、尾張大納言の中継ぎの将軍就任を考えたが、側近の新井白石(間部詮房も相談に与ったとの説あり)が譜代層を慮って反対したため、家宣の決断で家継の継嗣が決定下とされています。将軍就任前の官職は権大納言。
8代吉宗は、紀州家の当主であったが、家康直系が家継によって絶えた(実際は家宣の弟が存在したが)ため、御三家の中でもっとも家康の血統に近いものとして選ばれたとされていますが、家宣正室の天英院と譜代層は吉宗を推し、側室の月光院と新井白石・間部詮房などの出頭人は御三家筆頭であり、家宣の考えにあった尾張家を推したとされています。綱吉、家宣、家継3代は側用人を中心とする出頭人が政権の中枢に位置し、譜代層は中枢から外れたようなありさまであったため、譜代層の巻き返し的要素があったものと思われています。このため、吉宗は将軍就任後、老中を中心とする譜代層に気を遣った面が見られます。将軍就任前の官職は権中納言。将軍後見役。
9代家重は、言語障害や、身体の障害があり、老中の中には廃嫡し、弟の宗武を押す動きもありましたが、吉宗のが長子相続優先の考えにより継承が決まったとされています。将軍就任前の官職は権大納言。
11代家済は、10代家治の世子権大納言家基の急死を受け、実父である御三卿の一橋治済と、田沼意次の暗躍により家治の承認の元、養嗣子とされ、西の丸へ入っています。しかし、家基の急死は暗殺との説もあり、スムーズな継承ではない可能性があります。将軍就任前の官職は権大納言。
13代家定については、病弱で、脳性麻痺を疑われる言動等があり、父12代将軍家慶は徳川慶喜を後継にしようとしたことがあったが、老中の反対で家定を後継としたとされています。将軍就任前の官職は権大納言。
14代家茂は、井伊直弼などの譜代層・大奥の南紀派の推す家茂と、水戸藩や有力諸藩の一橋派が推す慶喜が争い、最終的には井伊直弼が大老に就任し、家茂に決定(養嗣子)。ただし、家定は諸大名を集めて家茂の後継決定を伝えているので最終決定は家定だったようです。将軍就任前の官職は前日に権大納言。
4代家綱は生まれてすぐに父家光により後継とされ、元服後西の丸へ入っています。幼名竹千代。将軍就任前の官職は権大納言。
10代家綱は祖父吉宗にかわいがられ、嫡男であったので問題なく継嗣となる。幼名竹千代。元服後西の丸へ。将軍就任前の官職は権大納言。
15代慶喜は、前代の家茂の遺言が田安亀之助であったが、幼少のため、難局の将軍には無理があるとの家茂夫人和宮の主張で、慶喜-亀之助の順で継承することになったと言われています。

このように見ると、家光を除くと幼名に「竹千代」と付く者は、生まれながらにして将軍後継者であったことが分かります。ただし、幼児の死亡率が高かったために、家基のように竹千代の幼名を持ちながら将軍になっていない者もいます。
将軍が父親であった場合、生存した男子中の最年長者が途中経過は別として、父親の将軍によって最終的には選ばれています。この背景には、家光の継承時に、家康によって長子相続の原則がたてられた(祖法と考えられた)ことが大きいように思います。また、譜代層が概ね保守的で、長子を支持したことも背景としては重要のように思われます。また、養子を迎える場合も、将軍が健在であれば、その将軍の意向が最終的な決定権になっているようです。
前代が死亡した、もしくはそれに近い状態のときには、大奥、特に前代の正室が強い発言権を持っていたようです。これに、譜代層の支持があったことも見逃せません。
一般的に、将軍の継承者に決まった時には、諸大名を集めて発表し、西の丸に住むようになり、元服後権大納言に任官し、襲位を待つことになります。
手続きとしては将軍(正室)→老中→高家→朝廷に将軍任命の申請となることが一般的です。
朝廷が征夷大将軍に任命し、4代家綱以降は江戸に勅使を派遣して、辞令を渡しています。
(家康は伏見、秀忠・家光は京都、慶喜も京都であったと記憶しています)
この時に、征夷大将軍の任命だけではなく、例外はありますが、同時に、内大臣、右近衛大将、源氏の長者、勧学院奨学院別当に任命されています。

以上、長くなりましたが参考までに。

>二代目以降の征夷大将軍
> 征夷大将軍は朝廷が任ずると理解していますが、
二代目以降について、
・誰が手続き的な決定権を持っているか(指名)(実際は先代が決めるのでしょうが。)、
・朝廷が任ずるのか(任命)
をご存じの方、よろしくお願いします。

徳川将軍について勉強させて頂きます。
2代秀忠、3代家光、5代綱吉、6代家宣、7代家継、8代吉宗、9代家重、11代家斉、13代家定、14代家茂は、将軍継承についてもめた将軍達です。まず、この将軍達から見ていきたいと思います。
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