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794年に坂上田村麻呂は征夷大将軍に任じられたのになぜ幕府をひらかなっかたのでしょうか?征夷大将軍なら幕府は開けますよね?

A 回答 (4件)

元々「征夷大将軍」はその名の通り「蝦夷征討のために奥羽地方へ派遣される将軍」


を指します。そのため「幕府を開く権限」はなかったのです。
しかも役目が終われば任を解かれる「臨時職」でした。

しかし、「征夷」のさいに兵力・食料・等の調達が優先的に行えるように朝廷が
一時的に政治的権限を与えました。その権限が徐々に拡大していき大きな権力と鉈のです。
ちなみに「幕府」とは「征夷」の際に作った「テント基地」の事でした。

坂上田村麻呂の頃は臨時職の意味合いが強かったので、「幕府を開く権限」はまだ無かったのです。

実際に権限を持って幕府を開いたのは「鎌倉幕府」からです。

参考URL:http://www.geocities.co.jp/MotorCity-Pit/6791/hi …
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この回答へのお礼

鎌倉以前と以後の征夷大将軍ではちょっと違ったんですね。やっぱ時代の流れみたいなものですかね~。でもこれで今夜は安心して眠れます。どうもありがとうございました。

お礼日時:2001/08/24 00:56

蝦夷氏討伐の為の官位ですから、鎌倉以降の官位とは異なります。


坂上田村麻呂は戦争時の官位ですし、鎌倉以降の征夷大将軍は名誉称号みたいなものですからね。
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 書き込みをしようとしたら完璧なBENIGENさんの回答があったんで、歴代の征夷大将軍のリスト見つけたんで紹介します。



 幕府の件に関しては源頼朝の場合は自らが武家政権を確立してから征夷大将軍となったため、「武家政権の府」という
意味合いを持たせることが出来たが、木曽義仲まではそこまでの権力はなかったということですな

参考URL:http://asuka-club.hoops.ne.jp/omocya/syougun.html
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私は、zawayoshiさんの回答が非常に簡潔に本質をとらえていると思うのですが、それをしつこく説明すれば、以下のようになると思います、



幕府と言うのは、BENIGENさんの回答にあるように、元々は将軍の「陣営」という意味らしいので、坂上田村麻呂の陣営を幕府と呼んでも良いのでしょうが、幕府=武家政権という意味で考えるのであれば、「武家政権の成立の過程で、源頼朝が(たまたま?)征夷大将軍になったから、後に『武家政権の長=征夷大将軍』と考えられるようになった」と見るべきでしょう。それ以前の征夷大将軍には、武家政権は勿論の事、武家の棟梁という意味すら、なかったと思います。
いやより正確には、木曾義仲は、それ以前の征夷大将軍と源頼朝より後の将軍をつなぐ存在とよぶべきかも知れません。関東の頼朝を討伐するという意味では、それ以前の「征夷」と同じ意味を持ちながら、武力クーデターでごく短期間とは言え京都の支配者になったのは事実ですから。
源頼朝が征夷大将軍になったのも、坂上田村麻呂の勇名だけでなく、木曾義仲もかなり意識しての事と考えられています。

いずれにせよ「征夷大将軍になったから幕府が開ける」のではなく、「最初に幕府を開いた人が征夷大将軍になったから、後々、幕府を開ける人は征夷大将軍になるのが慣習のようになった」という事でしょう。

因みに、鎌倉の武家政権の成立過程のうち、1185年に源頼朝が「日本国総追捕使・総地頭」になった事の方が、1192年に源頼朝が征夷大将軍になった事よりも重要です。
2代目頼家は頼朝の死後まもなく「前征夷大将軍(=頼朝)の後を継ぎ、諸国守護をする」よう朝廷から命じられました(=日本総守護・総地頭の地位の継承)が、征夷大将軍に任ぜられたのは3年以上たってからです。源実朝の死後、2歳の藤原頼経が鎌倉に迎えられましたが、それから征夷大将軍になるまでに7年ぐらいありました。
つまり、鎌倉時代初期は幕府にとって「征夷大将軍という地位は必須じゃなかった」という事です。おそらく藤原氏や皇族を将軍として鎌倉幕府が迎えた事が、「武家政権の長として征夷大将軍が必要」という意識を植え付ける事になったのでしょう。
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