「うちの夫婦・家族っていいな」と思った瞬間大賞 キャンペーン

 歴史ファンとしていつも気になっておりました。
 なぜ、赤穂浪士の討ち入りはあれほどまで見事に成功したのでしょうか?
 吉良邸には赤穂浪士よりもかなり多くの警護の武士たちが詰めていたでしょうし、日頃から討ち入りにも備えていたはずです。また、いくら早朝に寝込みを突かれたからといっても、テレビや映画で観るような赤穂浪士の「圧勝」は本当にあったのでしょうか?
 毎年12月になるとこの疑問が湧いてくるのです。
 ご存知の方がおられれば、どうぞお教えください。
 よろしくお願いいたします。

 

このQ&Aに関連する最新のQ&A

A 回答 (6件)

私も個人的にこの話は好きですよ。


#1の回答者の意見は何か違うのでは?

吉良上野介は4,200石の旗本ですが、高家筆頭として官位は従四位上です。
対して浅野内匠頭は53,500石の大名ですが、官位は従五位下でした。
家の格としては当然吉良の方が上です。

現在「忠臣蔵」として知られるこの物語は、元禄時代に起こった実話である元赤穂藩士達による吉良邸への討ち入り事件「赤穂事件」を元に、事件から47年後に人形浄瑠璃として創られた「仮名手本忠臣蔵」という物語であり、その後、歌舞伎の題材として取り入れられて庶民達に絶大な人気になり今日まで至っています。

当時、徳川幕府は幕府に対する反抗的なものは許さず規制していましたので「仮名手本忠臣蔵」は昔の物語であるとして時代設定を室町時代とし、登場人物の名も例えば大石内蔵助⇒大星由良之助として架空の名前で創作物語として発表されています。
実名では幕府に睨まれるのでまともに上演できなかった為にこうした苦肉の策という設定でしたが、庶民にはこの物語が実は以前に起きた赤穂事件のことだと解っており、当時は庶民達の中にお上に対するちょっとした反抗心がありましたのでこの物語は非常に受けたようです。

さて、現在我々が映画やテレビ時代劇として見ている「忠臣蔵」はこの当時の「仮名手本忠臣蔵」が元になっていてるのですが、問題は果たして「仮名手本忠臣蔵」がどこまで史実なのかということです。

確かに元禄14年3月に江戸城において刃傷事件が起きたことは事実ですし、翌15年12月に元赤穂による吉良邸討ち入り事件も事実のようです。
しかしながら、その事件の原因となると伝えられているような吉良による浅野へのイジメだとか、塩が原因だとかの部分は実際にはどうなのかほとんど事実が解っていないようです。

けんか両成敗にせずに吉良にお咎めなかったことが不服だと言ったのは赤穂側の言い分であり、当時、江戸城内で刀を抜いたという行為が大きな問題であったので浅野だけ切腹になったことは当然の裁きと思われます。

討ち入り当時、吉良邸にはある程度の人数は待機していたようですが、やはり他の回答者さんが云われるようにこの日に合わせて全員で準備して気持ちとしても覚悟ができた赤穂浪士達に比べて、吉良邸側は通常の警護として集められている武士達ではそこまでの覚悟が無い人達ではないでしょうか?
また、赤穂浪士の目的は吉良一人であり、吉良邸全滅を狙っていた訳ではありませんので、吉良邸の人間がいても邪魔さえしなければわざわざ戦わなかったのではないでしょうか?

とにかく「忠臣蔵」の話はどこまでが事実でどこがフィクションなのか今となっては解りませんね。
    • good
    • 0

 松の廊下の件でいえば、吉良は被害者。

加害者の浅野が処罰されるのはごくまっとうな裁定。赤穂浪士の恨みといっても、冷静に見れば逆恨みでしょう。恨まれるまともな理由がないのに討ち入りに備えるなどということは無かったのでは。

 ましてや47人がかりで夜襲などという卑怯きわまりない手段をどうして予想できるでしょう。
    • good
    • 0

赤穂浪士、いろいとろ準備して討ち入ったようですね。

鎧は着ていませんでしたが、鎖帷子(鎖で編んだ防御用の服)を着込んでいたとも言われています。
また、吉良側の武士の宿舎の戸を真っ先に釘のようなもので打ち付けて出られなくしてしまったとも言われています。

また、とにかく戦闘力を無くしてしまえばいいわけですから、命をとる必要もありません。少しでも傷つけて戦う気を無くしてしまえばそれ以上はする必要もありません。吉良側の死者、しりょうなどによってバラバラですが、せいぜい20人程度だったみたいですね。赤穂浪士側は死者はいませんから、十分”圧勝”といえるのですけど。
    • good
    • 0

基本的に、攻める側の有利があります。


討ち入る方は、討ち入り当日以外は準備以外は何もしないでいいです。
早い話が他の仕事をしてもいいし、旅行などに行っても問題ありません、討ち入り当日以外ならば。
それに対して守る吉良側は、いつ討ち入りがあるかわからないので、警備の人数を毎日増やすわけにはいきません。
当時の武士には残業手当などは無かったのですが、やはり体力からも気力からも、毎晩の徹夜は無理でしょう。
つまり、いつも通りの体勢でいるしかなかったわけです。

それから、吉良家は石高だけでは家格は判断できません。
なにしろ上杉家の跡継ぎに吉良家の息子を養子として迎える程です。
高家筆頭というのは、格式の高いものです。
たとえて言えば会社で、浅野は部下が10人程度いる課長で、吉良は秘書が1人いるだけの常務のような物です。
    • good
    • 0

『ゑひもせす』杉浦日向子著(ちくま文庫)に収録されている漫画『吉良供養』には以下の様に書かれています。



----ー-----------------
当夜吉良邸の人数は八十名前後、女はいない。
というのは屋敷の破損がひどく修繕中であった為女中達は奥方と共に白金の実家に寄宿していた。
又、吉良側ではこの奇襲を予知できず、従って無防備であり、上杉方からの助勢もない。
当夜本邸へ宿直していた侍は平生通りの二十二名である。
----ー-----------------

いつもとかわらぬ人数で特別に備える事もなく、普段通りの生活で奇襲に遭ったから…の様です。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480024 …
    • good
    • 0

テレビや映画の忠臣蔵は作り話です。


吉良は4千石、浅野は5万石です。身分の低いものが上のものに対し、なぜ意地悪など当時身分制度の厳しい時代にできたのでしょうか。おかしな話しです。浅野は大変神経質ですごく気になる性分だったとか。大石の討ち入りも、自社の社長が悪いにもかかわらず、失業状態になったため、失業したのは相手企業の社長が悪いと逆恨みした失業者集団が相手企業の社長に殴りこんだというようなものです。けっして忠誠心というようなものではありません。
時の幕府が幕府失業対策の失策や幕府に対する不満をもみけすために、いまのような話しができたそうです。
    • good
    • 1

このQ&Aに関連する人気のQ&A

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!

このQ&Aを見た人が検索しているワード

このQ&Aと関連する良く見られている質問

Qなぜ赤穂浪士の討ち入りは成功したのか?

 歴史ファンとしていつも気になっておりました。
 なぜ、赤穂浪士の討ち入りはあれほどまで見事に成功したのでしょうか?
 吉良邸には赤穂浪士よりもかなり多くの警護の武士たちが詰めていたでしょうし、日頃から討ち入りにも備えていたはずです。また、いくら早朝に寝込みを突かれたからといっても、テレビや映画で観るような赤穂浪士の「圧勝」は本当にあったのでしょうか?
 毎年12月になるとこの疑問が湧いてくるのです。
 ご存知の方がおられれば、どうぞお教えください。
 よろしくお願いいたします。

 

Aベストアンサー

私も個人的にこの話は好きですよ。
#1の回答者の意見は何か違うのでは?

吉良上野介は4,200石の旗本ですが、高家筆頭として官位は従四位上です。
対して浅野内匠頭は53,500石の大名ですが、官位は従五位下でした。
家の格としては当然吉良の方が上です。

現在「忠臣蔵」として知られるこの物語は、元禄時代に起こった実話である元赤穂藩士達による吉良邸への討ち入り事件「赤穂事件」を元に、事件から47年後に人形浄瑠璃として創られた「仮名手本忠臣蔵」という物語であり、その後、歌舞伎の題材として取り入れられて庶民達に絶大な人気になり今日まで至っています。

当時、徳川幕府は幕府に対する反抗的なものは許さず規制していましたので「仮名手本忠臣蔵」は昔の物語であるとして時代設定を室町時代とし、登場人物の名も例えば大石内蔵助⇒大星由良之助として架空の名前で創作物語として発表されています。
実名では幕府に睨まれるのでまともに上演できなかった為にこうした苦肉の策という設定でしたが、庶民にはこの物語が実は以前に起きた赤穂事件のことだと解っており、当時は庶民達の中にお上に対するちょっとした反抗心がありましたのでこの物語は非常に受けたようです。

さて、現在我々が映画やテレビ時代劇として見ている「忠臣蔵」はこの当時の「仮名手本忠臣蔵」が元になっていてるのですが、問題は果たして「仮名手本忠臣蔵」がどこまで史実なのかということです。

確かに元禄14年3月に江戸城において刃傷事件が起きたことは事実ですし、翌15年12月に元赤穂による吉良邸討ち入り事件も事実のようです。
しかしながら、その事件の原因となると伝えられているような吉良による浅野へのイジメだとか、塩が原因だとかの部分は実際にはどうなのかほとんど事実が解っていないようです。

けんか両成敗にせずに吉良にお咎めなかったことが不服だと言ったのは赤穂側の言い分であり、当時、江戸城内で刀を抜いたという行為が大きな問題であったので浅野だけ切腹になったことは当然の裁きと思われます。

討ち入り当時、吉良邸にはある程度の人数は待機していたようですが、やはり他の回答者さんが云われるようにこの日に合わせて全員で準備して気持ちとしても覚悟ができた赤穂浪士達に比べて、吉良邸側は通常の警護として集められている武士達ではそこまでの覚悟が無い人達ではないでしょうか?
また、赤穂浪士の目的は吉良一人であり、吉良邸全滅を狙っていた訳ではありませんので、吉良邸の人間がいても邪魔さえしなければわざわざ戦わなかったのではないでしょうか?

とにかく「忠臣蔵」の話はどこまでが事実でどこがフィクションなのか今となっては解りませんね。

私も個人的にこの話は好きですよ。
#1の回答者の意見は何か違うのでは?

吉良上野介は4,200石の旗本ですが、高家筆頭として官位は従四位上です。
対して浅野内匠頭は53,500石の大名ですが、官位は従五位下でした。
家の格としては当然吉良の方が上です。

現在「忠臣蔵」として知られるこの物語は、元禄時代に起こった実話である元赤穂藩士達による吉良邸への討ち入り事件「赤穂事件」を元に、事件から47年後に人形浄瑠璃として創られた「仮名手本忠臣蔵」という物語であり、その後、歌舞伎...続きを読む

Q「赤穂浪士討ち入り」を幕府が陰で手助け?

忠臣蔵のシーズンです。
元禄14年8月19日、幕府は吉良義央に対して、呉服橋内から本所へ屋敷替えを命じています。
これは、討ち入りし易いようにしたのだ、という説がネット上ではいくつかありますが、ホントですか。
赤穂事件をよく知らない私には、説得力のある話もあります。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

討ち入りし易いようにしたというよりは、結果として討ち入りがし易くなった、ということです。
御曲内よりは市中の方が大挙して押し入るには容易です。
屋敷替えは単なる事務処理でしょう
赤穂事件がいろいろ取沙汰されるのは、浅野長矩が「遺恨があった」と言うだけで何に対する遺恨なのかという点が不明なことが原因でしょう。
結果として現代でもこのようなご質問がでてきます

幕府の加担を否定する推定理由
幕府が討ち入りに加担しなくてはならない積極的な理由がありません。
浅野長矩は幕命で切腹させられたのであって吉良義央に殺された訳ではありません。
しかも斬り付けたのは浅野長矩であって吉良義央は被害者です。
切腹を下命した理由はあくまでも殿中抜刀です。
つまり法理論上吉良義央を主君の仇とする根拠がありません。
この辺りの考え方は当時の側用人柳沢吉保の政治顧問であった荻生徂徠が書き残しています

今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず

吉良義央は旗本です幕臣即ち徳川家の直臣です。
浅野長矩は外様大名です。
徳川家の家臣で構成された幕府が、同じ徳川家の家臣である吉良を敵視する徳川家に対峙する外様の家臣団に便宜を図る必要性などどこにもありません。
それこそ不忠者ということになります。
幕府というのは合議制に基づいた官僚組織です
浅野長矩の処分は、主君である綱吉が下して老中が合議の上で認めた形となっています。
殿中で抜刀した以上は切腹は当然という裁決です。
以前にも殿中で抜刀して切腹になった人間はいます。
屋敷を本所に移して討ち入りさせ易くするなどという小手先の合意が成り立つとは考えられません。
そんなに討ち入りをさせたいのなら本所などという街の真ん中ではなく入谷でも早稲田でもいくらでも場所はありました。
江戸とはいえ当時は田畑の広がるのどかな農村地帯でした。
だれにも邪魔されません。
万が一火が出ても延焼のおそれがありません。
事件の性格からしても、後日の取り扱いからしても、浅野の家臣団の行為は幕府の裁定に対する異議の申し立てということになります。
当時播州浅野家再興願いが出されています。
再興願いを却下したら討ち入りなどという暴挙にでるという予測はできません。
事前に老中は知っていたという説があるようですが、知っていれば止めるのが当然の判断です。
集団で市中の旗本の屋敷を襲うなどという行動を認めるような幕僚はいないでしょう。
江戸の治安を乱す討ち入りを認めて利益を得る老中などいなかったでしょう。
(陰謀史観の人間がどんな理屈をつけるかは知りません。)

屋敷替えの推定理由
義央は事件後の翌年3月に、高家肝煎職の御役御免願いを自ら提出しています
役を退けば日々登城する必要はありませんから呉服橋門内の御曲内に居住している必要はありません
本所で拝領した屋敷も以前は5000石の旗本松平信望が住んでいた屋敷です
高家とはいえ吉良は4200石です。
無役の旗本の屋敷としては相当な優遇処理です
本所は旗本や御家人が沢山住む武家の町です
津軽家をはじめ大名屋敷もあります。
武家は町奉行や代官の支配は受けません。
治安維持の岡っ引きや奉行所の役人が居ようがが居まいが関係ありません。
所詮彼らは屋敷には入ることは勿論のこと手出しができません。
日本橋の町人が引っ越した訳ではありません。
自分の身は自分で守るのが武家であれば当然のことです。

その本所でも松坂町は両国橋の目と鼻の先です。
本郷や麻布などよりも遥かに大手門に近い場所です。
両国橋の界隈というのは江戸有数の繁華街でした。
とやかく言われるような場所ではありません。
現在でも吉良邸の一部が再現されて区の観光名所となっています。

吉良邸跡 - 墨田区観光協会
visit-sumida.jp/spot/SpotDetail/tabid/60/pdid/478/catid/6/De...

一度足を運ばれればどんな場所かわかります。
12月に入って隠居願いを出して義周に家督を譲りました。
隠居してから本所へ行ったわけではありません。
要は幕府の担当役人には意図も無ければ落ち度もなかったということです。

討ち入りし易いようにしたというよりは、結果として討ち入りがし易くなった、ということです。
御曲内よりは市中の方が大挙して押し入るには容易です。
屋敷替えは単なる事務処理でしょう
赤穂事件がいろいろ取沙汰されるのは、浅野長矩が「遺恨があった」と言うだけで何に対する遺恨なのかという点が不明なことが原因でしょう。
結果として現代でもこのようなご質問がでてきます

幕府の加担を否定する推定理由
幕府が討ち入りに加担しなくてはならない積極的な理由がありません。
浅野長矩は幕命で切腹させられ...続きを読む

Q赤穂浪士と安重根

赤穂浪士と安重根はどちらもテロリストですが、
赤穂浪士は日本で人気者なのに対して、
安重根はテロリストとして嫌われ者です。

なぜ赤穂浪士はテロリストなのに国民的な人気があるのでしょうか?

また、安重根さんが韓国内で人気があるのは同じ理由なのでしょうか?

Aベストアンサー

それはですね、忠臣蔵には日本人が大好きなストーリーがすべて詰まっているからです。

・バカな主君で家臣が大迷惑
・だけどそんなバカな主君にどこまでも忠誠心
・バレないために愚か者を演じる
・ニヒルな腕利きのサブキャラクター(堀部安兵衛)
・中間管理職とその部下の泣かせる信頼関係
・親子鷹
・忍ぶ夫婦の愛
・ついに悪い奴は討たれる(一応吉良上野介は悪役です)
・惜しまれながら全員切腹(名誉ある死)
・実は若者が一人だけ生き延びている

だから毎年毎年歌舞伎で仮名手本忠臣蔵をやって、毎年毎年年末スペシャルドラマでどこかのテレビ局が作っているにも関わらず、日本人は誰も飽きずに毎年毎年年末になると忠臣蔵を見るのです。毎年同じストーリーなのに!
「かたき討ち」ってのが日本人は大好きなんですね。父の仇、母の仇なんていわれるともうそれだけで無条件に支持しちゃうんです。欧米なら「親は親、なんで親の復讐を子供がやらなあかんのだ」と思うでしょうからね。

そして安重根は、韓国人の琴線に触れるんでしょうね。彼らの場合は「民族のかたき討ち」になると無条件に支持しちゃうのでしょう。韓国人は内心自分たちが一番になりたいと願っているのに、どうにもこうにも日本人には勝てないのでそれが悔しくてしょうがないんです。だからその日本人をぎゃふんといわせた安重根は彼らのスーパーヒーローなのです。

それはですね、忠臣蔵には日本人が大好きなストーリーがすべて詰まっているからです。

・バカな主君で家臣が大迷惑
・だけどそんなバカな主君にどこまでも忠誠心
・バレないために愚か者を演じる
・ニヒルな腕利きのサブキャラクター(堀部安兵衛)
・中間管理職とその部下の泣かせる信頼関係
・親子鷹
・忍ぶ夫婦の愛
・ついに悪い奴は討たれる(一応吉良上野介は悪役です)
・惜しまれながら全員切腹(名誉ある死)
・実は若者が一人だけ生き延びている

だから毎年毎年歌舞伎で仮名手本忠臣蔵をやって、毎年毎...続きを読む

Q赤穂浪士の討ち入りの時、もし幕府役人が駆けつけたら

赤穂浪士が吉良の屋敷に討ち入って、2時間余りも死闘を繰り広げていたそうです。
現在なら当然警察がやってくるのですが。

1.近所の人は、誰も幕府に通報しなかったのですか?吉良邸から逃げた人はいなかったのでしょうか。
2.通報するとしたらどこへ通報しますか。火付盗賊改でしょうか。
3.もし幕府役人が到着していたとしたら、どのような展開になりますか?浪士たちは大人しくお縄につきますか。それとも争いますか。
4.ドラマでは、隣の屋敷の武士が争いを止めるどころか、応援して提灯を掲げますが、これはお咎めなしだったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.近所の人は、誰も幕府に通報しなかったのですか?吉良邸から逃げた人はいなかったのでしょうか。

まず、討ち入りをしたのは、元禄15年(1793)12月14日夜、となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。まさに深夜の決行でしたし、それこそ、音もたてないように粛々(しゅくしゅく)と、本所松坂町の吉良邸へ向かっています。
また、当日は雪が降った後でしたので、物音(歩く音)なども消してくれました。
そして、深夜ですので、武家も町民も深い眠りの最中でしたので、直前まで誰も気付かなかった、と、言われています。
さらには、誰かが事件を知ったとしても、その頃の庶民、庶民ばかりではなく武士でさえ、赤穂浪士の討ち入りを歓迎する傾向がありましたので、訴え出る者は誰一人としていませんでした。
赤穂47士は、表門には大石内蔵助以下23人、裏門には大石主税(ちから)以下24人が固めていましたので、吉良邸から外へは一歩も出れない状況をつくりました。

>>2.通報するとしたらどこへ通報しますか。火付盗賊改でしょうか。

まず、答を先に書きますと、訴え出る(通報する)とすれば「大目付」でした。
町奉行所や火盗改などには「大名家」を取り締まる権限はなく、たとえ、事件を知ったとしても出張ることはできませんでした。
確かに、赤穂の47人は浪人ですので街中で騒動を起こした時は、町奉行などが取り締まることはできましたが、吉良邸という大名家での事件では一歩も動くことはできませんし、もし、出張ったりすれば「越権行為」で逆に町奉行が罪になりました。
なお、旗本や御家人を取り締まるのは「目付」でした。

>>3.もし幕府役人が到着していたとしたら、どのような展開になりますか?浪士たちは大人しくお縄につきますか。それとも争いますか。

幕府の役人・・・とは、どのような職の人を指すのか分かりませんが、とにかく、「大目付」の仕事ですので、たとえ、老中や若年寄などが事件を知ったとしても、駆けつける筋合いではありませんでした。
では、大目付は「なぜ動かなかったのか」と、言うと、町民が「大目付」に訴えるようなことはできない組織体制でしたし、仮に、事件を知ったとしても、先にも書きましたが、当時の庶民や武士でさえも赤穂びいきでしたので、出張ることはしなかったのではないでしょうか。

>>4.ドラマでは、隣の屋敷の武士が争いを止めるどころか、応援して提灯を掲げますが、これはお咎めなしだったのでしょうか?

吉良邸の隣は「土屋平八郎邸」でしたが、もちろん、赤穂びいき。
高張り提灯を立ててくれましたが、もし、大目付などからお咎めを受けても、
「我が邸に逃げ込む者を防ぐためだ」
と、言い訳が立ちました。
当時は、町民はもちろんのこと、たとえ武士であれ、許可なく武家屋敷に入ることは「厳禁」でした。
ですから、大石内蔵助が、
「我ら、主君、浅野内匠頭の無念を晴らすため参上。御隣家様には、しばし騒動となりましょうが、平にご容赦、お願いたてまつります」
と、叫ぶと、土屋平八郎は急ぎ高張り提灯を何本も立てて、
「その方らの儀十分に承知。塀を越えた者があらば、どちらの家の者であろうとも討ち果たすゆえ、存分に働きあれ」
と、返答した、と、言われています。

(よもやま話)
(1)通常、罪を犯すと、当然、町奉行の管轄となり、伝馬町で入牢させられます。
この時、御目見(おめみえ=公方さま(将軍)に拝謁できる者)以上の直参およびこれに準ずる僧正、院家、紫衣を許された僧侶、神主などは、伝馬町の牢屋敷内にある揚屋敷(あげやしき)と呼ばれる座敷に留め置かれます。もちろん、監視をする役人も付きます。
(2)見事本懐を遂げた後、大石内蔵助は47名の中から寺坂吉右衛門に密命を託し(内匠頭の妻・瑤泉院や弟・大学(長広)、広島本家への報告のため、と、後の世に我らがどのようになるかを見とどけて欲しい、と言われたとも言われて、また、47名の中でただ一人赤穂藩士ではなく藩士の吉田忠左衛門の家来だった)離脱させ、残りの46名は泉岳寺へ詣でたのち「評定所」に自首しました。
(3)評定所の役割としては、原告と被告の管轄が異なる裁判、藩内部や藩と藩の争い、旗本と御家人への訴訟を扱うところでした。
(4)内蔵助の判断で、この「評定所」に自首したことで、町奉行所の手出しできないところとなったのです。つまりは、藩と藩の争いなのだ、と訴えたのです。
(5)評定所には、牢はありませんので、内蔵助一同は評定所内で待機していました。
直ちに、評定所からの上申で、時の将軍徳川綱吉が報告を受けた際、綱吉自身は、内蔵助らが作成した「討ち入り口上書」を読み、彼らの行動を「忠義」である、と、褒め讃えました。
このことは、老中会議でも阿部正武(あべまさたけ)や小笠原長重(おがさわらながしげ)らが、綱吉の裁定に賛意を述べました。
しかし、側用人であった柳沢吉保は、「忠義」だけで政(まさりごと)をしていたのでは、世情の統制がきかない、と反論しました。
そこで、綱吉は急遽、幕府学問所である湯島聖堂の大学頭(だいがくのかみ)林信篤(はやしのぶあつ)と柳沢吉保のお抱え学者であった荻生徂徠(おぎゅうそらい)の2人を呼び議論させました。
この2人がそれぞれ賛成、反対意見を述べ、最終的には、綱吉が2人の意見の折衷案として、大名や旗本などと同等に扱い、細川、水野、松平、毛利の4家にお預けとなり、翌年2月3日、幕府より「切腹」の命。4日夕方より各家において全員が切腹した。
(6)お分かりとは思いますが、「切腹」は当時の武士の死に方としては「名誉」であったし、また、世論に配慮して、浪士たちを幕府は「武士」と認めたことに大きな意義があった。
(7)綱吉が死去すると、6代将軍家宣の就任に伴う恩赦で、浅野大学は500石+広島浅野本家より300石を受けることとなり、旗本寄合に復活。
(8)46名の子息の中で15歳未満は15歳になると、八丈島や三宅島への「島流し(=遠島)」のはずであったが、すべて「恩赦」。島流しにされていた者もすべて江戸へ帰っています。
(9)内蔵助に密命を受けて離脱した寺坂吉右衛門はすべての事後処理が終わった後、大目付仙石伯耆守に自首したが、身分軽きゆえお咎めがなく。かえって、金子10両を与えられ解放された。その後、他家に仕えたり、江戸に出てきて寺男などをして83歳の天寿をまっとうした。
(10)柳沢吉保の後ろ盾であった荻生徂徠自身も、後に「その志を推すに、また義というべきものなり」と浪士の「忠義心」を認めていたという。
(11)現在の住所は、東京都墨田区両国3-13-9
現在は本所松坂町公園として開放され、吉良首洗いの井戸や稲荷神社がある。両国橋を渡って「回向院」の隣に邸宅があった。
(12)地図:
http://www.tokyoguide.net/spot/17/map/

あなたのお役にたてたでしをうか。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

1.近所の人は、誰も幕府に通報しなかったのですか?吉良邸から逃げた人はいなかったのでしょうか。

まず、討ち入りをしたのは、元禄15年(1793)12月14日夜、となっていますが、正確には15日午前4時頃と言われています。まさに深夜の決行でしたし、それこそ、音もたてないように粛々(しゅくしゅく)と、本所松坂町の吉良邸へ向かっています。
また、当日は雪が降った後でしたので、物音(歩く音)なども消してくれました。
そして、深夜です...続きを読む

Q赤穂浪士討ち入りの陣太鼓について

史実かどうかは知りませんが、後世の芸能では、赤穂浪士の討ち入りに際して大石内蔵之助が打ち鳴らした陣太鼓は、「一打ちニ打ち三流れ」であったとされます。これはどういう打ち方なのでしょうか。

Aベストアンサー

ドン・ドン・ド~ン
ドン(一打ち)・ドン(二打ち)・ド~ン(三流れ)
三流れのド~ンは前2拍より強めに打ちます。

後に講談や浪曲で討ち入り場面を華やかにする為に付け加えた演出
でしょう。

山鹿流陣太鼓
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-12-14

こんな交通事故防止策もあるようです。
http://www.extec.or.jp/pdf/extec80/p057.pdf

Q赤穂浪士の討ち入り

 今日ということになっていますね。
 ところで彼等は14日夜半に討ち入り、翌朝未明に上野介を討ち取ったのか、13日に討ち入り、14日未明に討ち取って高輪へ凱旋したのかどちらなのでしょうか?
 

Aベストアンサー

下記Wikipediaからの抜粋どおり、旧暦では14日に討ち入りしたことになっていますが、現在の時法に則れば討ち入りは15日未明に行われたことになります。

赤穂浪士は泉岳寺に葬られ、泉岳寺では現在も毎年討ち入りの日に義士祭を催している(討ち入りの日は旧暦12月14日(現在の時法で言えば15日未明)であるが、義士祭は新暦12月14日に行われる)。

Q赤穂浪士の件

現在、放映されている赤穂浪士関係の映画で、「最後の赤穂浪士」を観ました。とてもよい作品でした。そこで、質問なんですが、今回の「最後の赤穂浪士」や、以前、映画ではなく、本で「武士の尾」を読んだんですが・・・これは、赤穂浪士の討ち入りが失敗した時の次(第2部隊)の部隊を大石内蔵助の密命により、おもて上は、「逐電した武士」という汚名を着せられながら、赤穂浪士の討ち入り後も生きていく・・・というスト-リ-でした。
この二つの、物語は事実なのでしょうか。
細かく言うと、登場人物の名前や、特に、大石内蔵助の隠し子(女性:可音)のことも含めて・・・。
以上、宜しくお願い致します。

Aベストアンサー

 討入りについては公儀(幕府)はもちろん、吉良屋敷の隣近所に屋敷を持つ武家も事前に知っていました。
 その第一の根拠は、元禄十五年十二月十三日付けで、大石内蔵助が赤穂の僧3人に宛てた書簡のなかに次のように書いてあります(赤穂市の正福寺蔵)。

 「家来左六・幸七暇遣差上候間一筆致啓上候、甚寒御座候得共各様弥御堅固可被成御座珍重奉存候、其元御城主も被仰付珍重ノ御事御座候、前々ノ通無相 違寺社領も被遣事ニ候哉無心元存候
一 私在京之内は何角不得心隙候て書状ヲ以も不得御意御不音罷成候、兼而御聞及も可被成候、十月初京都出足無異義父子共下着仕事ニ候、今日迄一段と両人共無病ニ罷在候、誠に仏神之御加護と難有喜悦仕事御座候、在京之内は従公儀も拙者江附人在之一足もふミ出し候儀不成旨慥成筋より聞出し候なと以後万々一無別義世間ニ罷成候様子ニ候ハヽ吉進事ハ一度武名家をおこし候様ニ仕度事に候ヘハ少は心底に懸り候、此義も存間敷事ニも候得共人生ぼんぶノ拙者ニ候得は御はつかしき事ニ候、乍去一事之邪魔ニ成候様成所存ニて毛頭無御座候、御気遣被下ましく候、良雪様へ去年以来ノ御ものかたり失念不仕日々存出し、此度当然之覚悟ニ罷成忝次第御座候、日来御心易得御意候各様故、別而御残多御暇乞旁如此御座候、死人に口なし死後色々ノ批判とりニ可在之と察まゐらせ候、知貞御坊へも同前申度候、遠林寺・神宮寺もし噂も御座候ハヽ宜布御心得可被下候、恐惶謹言
道中御関所無滞少も心懸り之義無之下着仕候・・浪人共追々下着、拙者も罷下り候さた色々在之、若老中ニも御存知之旨ニ候得共何之御いろいも無之うち破り候上は各別其通ニ被成置候事と被察候、亡君之ため忠死ヲ感し道理か何之滞少も無之、致案(安)堵罷有候・・

十二月十三日        大石内蔵助(花押)
         恵光様
         良雪様
         神護寺様
           参
  尚々此書状家来ニ可進と存候得共若道中滞候てハ如何と存さしひかへ死後大津より其元へ相達し候様ニ頼置申候」


 恵光は花岳寺、良雪は正福寺の住職です。神護寺の僧の名は記載なし。


 関所も問題なく通過できて無事に江戸に着いたことの報告とともに、若老中(書簡にはこう書かれていますが若年寄のこと)も知っているようで 「うち破り候上は各別其通ニ被成置候事と被察候」。討入りも成功するようだ、という意味のことが書かれています。

 この大石内蔵助がなぜ、赤穂の僧宛に書簡を書いたのか。

 討入りのために下向する大石はじめ元赤穂浅野家の家来たちは浪人の身です。なので、主家というものがないので寺が通行手形を発行したことは間違いない。
 書簡の内容からみて、手形を発行した寺でも、下向の目的は知っていたはずです。

 それでは、なぜ若年寄が討入りについて知っていると大石が察したのか。

 本所吉良屋敷の道一本はさんだ南隣は、相生町二丁目。ここに前原伊助の店がありました。

 吉良屋敷の南西角には、吉良および北隣西側の土屋主税(老中、土屋相模守の本家)の家が共同で管理・運営する辻番所がありました。
 また、綺羅屋敷の北隣東側にあった本多孫太郎(当時二万石の越前松平家老)屋敷の北西角にも辻番所がありました。
 辻番所には昼夜番人を置いて周囲を監視し、一刻に一度は周囲をパトロールすることになっていました。

 だから、浪人風情の者が出入りする店もわかっていたはず。

 辻番は若年寄が支配し、御徒目付けが定期的に巡回してチェックしていました。辻番の前をフリーパスで通ることができなければ前原伊助の店にも近寄れないし、討入り本番では大石主税をリーダーとする裏門隊は吉良屋敷の西側にあった裏門にたどり着くこともできません。「若年寄も知っている」 と大石が悟ったのは、そんなことからでしょう。おそらく他の同士も知っていた。「どうもおかしい、大石に問い詰められて、「じつは」 ということになったと考えられます。

 本所吉良屋敷の前住人は、松平登之助。公方さまの御小姓で、彼とは幼なじみで本所の年貢屋敷(自前で農家などから購入)も隣り合わせという非常に親しい十歳年長の従兄、松平右京大夫は、柳沢出羽守と二人三脚で政治を動かしていた次席御側用人でした。

 神田川沿いの佐久間町二丁目北にあった松平登之助の屋敷は元禄十一年九月六日の大火で全焼。その代地として公儀から本所に屋敷(敷地のみ)を拝領したのは、同年十一月でした。大火後の建築ラッシュを考えれば新屋敷館の竣工はどんなに早くとも翌年の夏ごろ。

 松平登之助は元禄十四年八月に本所屋敷を立ち退き、翌月に吉良が入りました。登之助の屋敷だったときは、表門は南側でした。目の前は、相生町二丁目。が、吉良屋敷の表門は東にに移設されていたのです。

 

 討入りについては公儀(幕府)はもちろん、吉良屋敷の隣近所に屋敷を持つ武家も事前に知っていました。
 その第一の根拠は、元禄十五年十二月十三日付けで、大石内蔵助が赤穂の僧3人に宛てた書簡のなかに次のように書いてあります(赤穂市の正福寺蔵)。

 「家来左六・幸七暇遣差上候間一筆致啓上候、甚寒御座候得共各様弥御堅固可被成御座珍重奉存候、其元御城主も被仰付珍重ノ御事御座候、前々ノ通無相 違寺社領も被遣事ニ候哉無心元存候
一 私在京之内は何角不得心隙候て書状ヲ以も不得御意御不音罷成...続きを読む

Q赤穂浪士の役職

忠臣蔵シーズン(?)ですね。
前々から疑問で、こちらで検索もしたのですが今いちピンと来なかったので、質問させてください。

大石内蔵助は筆頭家老ですから、たぶん赤穂城内で一番上の役職なのでしょうが、ほかの四十七士は、さっと見た感じで「馬廻」という役職が多いんです。

そのほかにも、今風で言うと重役クラス(?)みたいな役職の方はおられないような気がします。

1.馬廻とはどんな役職なのか、またその他の役職についても、彼らは、どの程度の役職についていたのか。
2.他の家老(重役?)は仇討ちに参加せず、浪人となってしまったのか、それともどこかにお抱えになったのか。
3.仇討ちに参加しなかった赤穂浪士は、不遇な人生(?)を送ったのではないか?

長々と書きましたが、よろしくお願いします。

Aベストアンサー

 あたりまえの話ですが藩は会社ではありません。現在のように首脳部が合議制になっているわけでもありませんので、そもそも現代の重役にきちんと対応する職があるわけではありません。
 いちばん近いのは家老職(数名)です。これに次ぐのが中老職。江戸時代前期だと両者を区別せずに家老と称することのほうが多かったと思いますが、彼らが執行部として藩主に責任を負う合議制を敷いていたところが多いようです。赤穂浪士の特徴はここらあたりがすっかり抜けているところにあるわけですが、よく考えてみれば第一に家老というのはもとの人数が少ない。大石一名参加しただけで参加率2割か3割になるはずですから47/300から言えばそれほど不自然でもないでしょう。第二に家老というのは身分のある人が多い。あんまり血なまぐさいことが得意じゃないのではないか、という想像は容易につきます。
 さらに議題が広範囲にわたる場合には、以上のほかに、番頭(戦時にまとまった員数の舞台を率いる責任者。士分の頭と足軽の頭があり、後者が格下。組頭ということもある。奥野将監というのが途中まで参加していましたが脱落しました)、組頭(各部署の責任者。たとえば小姓組の組頭が片岡源五右衛門)、大目付(赤穂浪士では間瀬久太夫)、農政および農村部行政の責任者(通常は郡代。又は郡奉行。吉田又左衛門)、町奉行、勘定方の責任者(通常は勘定奉行)などが会議に出席することもあります。以上のほかに高役となると各地の留守居役(特に江戸)、それから藩主の秘書ともいうべき側用人なのでしょう。
 藩というのは基本的に「戦争のための組織」であり、それがたまたま時代が平和であるために行政組織も兼ねているのにすぎません。当然、戦争のためには人数が多いほうがよく、行政にはそれほど手数がかかりませんから、平和な時代の武士は人が余ります。そういう連中をとりあえず一まとめにしておくのが馬廻です。戦時には文字通り藩主の馬廻をかためる親衛隊で、戦場で功績を立てる機会も多く、武勇に優れた一騎がけの武士が多いのですが、時代が平和になると仕事もなく、一朝有事に備える以外には特にすることがありません。
 有能な人は馬廻組であってもほかの実質的な仕事の責任者に抜擢されることがあり、本籍を馬廻におきつつそのほかの仕事を兼任することもあるのですが、それ以外はお城に三日に一遍のぼって倉庫番をしたり、無用に詰め所に缶詰にされたりと、じつにひまな仕事であるといえます。ただ、ほかの勘定組(会計)や祐筆組(文書処理)、郷方(農政と地方行政)、普請方(土木)などから比べると身分ははるかに上ですから、藩主側近に仕える近習組(小姓組)と並ぶエリートであり、努力しだいではいくらでも役職を経験することができます。家柄の問題もありますが、組頭や大目付、側用人などは彼らが任命されることが多く、江戸も後期になるとさらに中老から家老へと出世する道もひらかれていました。
 要するにあらゆる意味で人材をプールしておくことを目的として、身分はあるけど仕事のない役職が馬廻だとお考えください。
 2・3については真偽入混じってはっきりしたことはよくわかりません。しかし浪人になったというだけで当時の武士にとっては十分に不遇な人生であったと思います。ほかの藩に抱えられた人もいたのでしょうが、時代は各藩の財政がきびしくなってゆく時期ですのであまり多くはなかったのではないかと思います。

 あたりまえの話ですが藩は会社ではありません。現在のように首脳部が合議制になっているわけでもありませんので、そもそも現代の重役にきちんと対応する職があるわけではありません。
 いちばん近いのは家老職(数名)です。これに次ぐのが中老職。江戸時代前期だと両者を区別せずに家老と称することのほうが多かったと思いますが、彼らが執行部として藩主に責任を負う合議制を敷いていたところが多いようです。赤穂浪士の特徴はここらあたりがすっかり抜けているところにあるわけですが、よく考えてみれば第...続きを読む

Q赤穂浪士の討ち入りの日は?

元禄時代の12月14日に、赤穂浪士47人が吉良上野介の屋敷に討ち入りをしました。
元禄時代は旧暦(陰暦)を使っていたと思うのですが、12月14日とは旧暦の12月14日なのでしょうか?
それとも新暦(陽暦)の12月14日なのでしょうか?

どなたか教えていただけませんでしょうか?

Aベストアンサー

1703年1月30日だな
元禄や慶応など日本の年代で掛かれたものは明治6年1月1日以前は全て旧暦表示
1703年などと西暦で書かれたものは1582年以降は新暦、今の暦と一緒
ちなみに1582年というのは現在使われている太陽暦の一つグレゴリオ暦が始まった年である

Q赤穂浪士事件

赤穂浪士事件について興味を持っていて、大石率いる赤穂浪士の仇討ちは正当であったか否かという文献を探しています。葉隠の作者、山本常朝をはじめとする、正当ではなかったという意見の専門家が多いようです。それらの資料を読み感嘆しましたが、正当であったという文献を読んでみたくなりました。

仇討ちは正当であったという文献がありましたら教えて下さい。
また、三島由紀夫は忠臣蔵の脚本を書いていましたが、赤穂浪士の仇討ちを賛美していたのでしょうか?三島由紀夫の本で赤穂浪士について述べているものがありましたら教えて下さい。

Aベストアンサー

確かに興味深い設問ですね。

赤穂浪士の仇討ちそのものを正当化する論説を公表するには、復讐の連鎖を阻止する代案を示さない限り不可能なのでしょう。
歴史に「もしも」は禁句でしょうが、正当化の論陣を張るには、「もしも」仇討ちに失敗してたとしても正当化できるのか。
さらには、「仇討ち」が赤穂浪士にとってベストの選択だったのか、という難問もあります。
少なくとも、そこらへんをクリアしておかないと、「国家の裁判権は私人に譲れない」とあっさり一蹴されそうです。

明治末年に、福本日南というひとが「元禄快挙録」(岩波文庫 /上中下)という赤穂浪士礼賛の書を出したそうです。
   ↓
 http://www.ncbank.co.jp/chiiki_shakaikoken/furusato_rekishi/hakata/070/01.html
>福本日南

今では「国粋主義者」というレッテルを貼られてるようですけど、読んでないのでコメントは控えます。
 


人気Q&Aランキング

おすすめ情報