歴史ファンとしていつも気になっておりました。
 なぜ、赤穂浪士の討ち入りはあれほどまで見事に成功したのでしょうか?
 吉良邸には赤穂浪士よりもかなり多くの警護の武士たちが詰めていたでしょうし、日頃から討ち入りにも備えていたはずです。また、いくら早朝に寝込みを突かれたからといっても、テレビや映画で観るような赤穂浪士の「圧勝」は本当にあったのでしょうか?
 毎年12月になるとこの疑問が湧いてくるのです。
 ご存知の方がおられれば、どうぞお教えください。
 よろしくお願いいたします。

 

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A 回答 (6件)

私も個人的にこの話は好きですよ。


#1の回答者の意見は何か違うのでは?

吉良上野介は4,200石の旗本ですが、高家筆頭として官位は従四位上です。
対して浅野内匠頭は53,500石の大名ですが、官位は従五位下でした。
家の格としては当然吉良の方が上です。

現在「忠臣蔵」として知られるこの物語は、元禄時代に起こった実話である元赤穂藩士達による吉良邸への討ち入り事件「赤穂事件」を元に、事件から47年後に人形浄瑠璃として創られた「仮名手本忠臣蔵」という物語であり、その後、歌舞伎の題材として取り入れられて庶民達に絶大な人気になり今日まで至っています。

当時、徳川幕府は幕府に対する反抗的なものは許さず規制していましたので「仮名手本忠臣蔵」は昔の物語であるとして時代設定を室町時代とし、登場人物の名も例えば大石内蔵助⇒大星由良之助として架空の名前で創作物語として発表されています。
実名では幕府に睨まれるのでまともに上演できなかった為にこうした苦肉の策という設定でしたが、庶民にはこの物語が実は以前に起きた赤穂事件のことだと解っており、当時は庶民達の中にお上に対するちょっとした反抗心がありましたのでこの物語は非常に受けたようです。

さて、現在我々が映画やテレビ時代劇として見ている「忠臣蔵」はこの当時の「仮名手本忠臣蔵」が元になっていてるのですが、問題は果たして「仮名手本忠臣蔵」がどこまで史実なのかということです。

確かに元禄14年3月に江戸城において刃傷事件が起きたことは事実ですし、翌15年12月に元赤穂による吉良邸討ち入り事件も事実のようです。
しかしながら、その事件の原因となると伝えられているような吉良による浅野へのイジメだとか、塩が原因だとかの部分は実際にはどうなのかほとんど事実が解っていないようです。

けんか両成敗にせずに吉良にお咎めなかったことが不服だと言ったのは赤穂側の言い分であり、当時、江戸城内で刀を抜いたという行為が大きな問題であったので浅野だけ切腹になったことは当然の裁きと思われます。

討ち入り当時、吉良邸にはある程度の人数は待機していたようですが、やはり他の回答者さんが云われるようにこの日に合わせて全員で準備して気持ちとしても覚悟ができた赤穂浪士達に比べて、吉良邸側は通常の警護として集められている武士達ではそこまでの覚悟が無い人達ではないでしょうか?
また、赤穂浪士の目的は吉良一人であり、吉良邸全滅を狙っていた訳ではありませんので、吉良邸の人間がいても邪魔さえしなければわざわざ戦わなかったのではないでしょうか?

とにかく「忠臣蔵」の話はどこまでが事実でどこがフィクションなのか今となっては解りませんね。
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 松の廊下の件でいえば、吉良は被害者。

加害者の浅野が処罰されるのはごくまっとうな裁定。赤穂浪士の恨みといっても、冷静に見れば逆恨みでしょう。恨まれるまともな理由がないのに討ち入りに備えるなどということは無かったのでは。

 ましてや47人がかりで夜襲などという卑怯きわまりない手段をどうして予想できるでしょう。
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赤穂浪士、いろいとろ準備して討ち入ったようですね。

鎧は着ていませんでしたが、鎖帷子(鎖で編んだ防御用の服)を着込んでいたとも言われています。
また、吉良側の武士の宿舎の戸を真っ先に釘のようなもので打ち付けて出られなくしてしまったとも言われています。

また、とにかく戦闘力を無くしてしまえばいいわけですから、命をとる必要もありません。少しでも傷つけて戦う気を無くしてしまえばそれ以上はする必要もありません。吉良側の死者、しりょうなどによってバラバラですが、せいぜい20人程度だったみたいですね。赤穂浪士側は死者はいませんから、十分”圧勝”といえるのですけど。
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基本的に、攻める側の有利があります。


討ち入る方は、討ち入り当日以外は準備以外は何もしないでいいです。
早い話が他の仕事をしてもいいし、旅行などに行っても問題ありません、討ち入り当日以外ならば。
それに対して守る吉良側は、いつ討ち入りがあるかわからないので、警備の人数を毎日増やすわけにはいきません。
当時の武士には残業手当などは無かったのですが、やはり体力からも気力からも、毎晩の徹夜は無理でしょう。
つまり、いつも通りの体勢でいるしかなかったわけです。

それから、吉良家は石高だけでは家格は判断できません。
なにしろ上杉家の跡継ぎに吉良家の息子を養子として迎える程です。
高家筆頭というのは、格式の高いものです。
たとえて言えば会社で、浅野は部下が10人程度いる課長で、吉良は秘書が1人いるだけの常務のような物です。
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『ゑひもせす』杉浦日向子著(ちくま文庫)に収録されている漫画『吉良供養』には以下の様に書かれています。



----ー-----------------
当夜吉良邸の人数は八十名前後、女はいない。
というのは屋敷の破損がひどく修繕中であった為女中達は奥方と共に白金の実家に寄宿していた。
又、吉良側ではこの奇襲を予知できず、従って無防備であり、上杉方からの助勢もない。
当夜本邸へ宿直していた侍は平生通りの二十二名である。
----ー-----------------

いつもとかわらぬ人数で特別に備える事もなく、普段通りの生活で奇襲に遭ったから…の様です。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480024 …
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テレビや映画の忠臣蔵は作り話です。


吉良は4千石、浅野は5万石です。身分の低いものが上のものに対し、なぜ意地悪など当時身分制度の厳しい時代にできたのでしょうか。おかしな話しです。浅野は大変神経質ですごく気になる性分だったとか。大石の討ち入りも、自社の社長が悪いにもかかわらず、失業状態になったため、失業したのは相手企業の社長が悪いと逆恨みした失業者集団が相手企業の社長に殴りこんだというようなものです。けっして忠誠心というようなものではありません。
時の幕府が幕府失業対策の失策や幕府に対する不満をもみけすために、いまのような話しができたそうです。
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Qなぜ赤穂浪士の討ち入りは成功したのか?

 歴史ファンとしていつも気になっておりました。
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 毎年12月になるとこの疑問が湧いてくるのです。
 ご存知の方がおられれば、どうぞお教えください。
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Aベストアンサー

私も個人的にこの話は好きですよ。
#1の回答者の意見は何か違うのでは?

吉良上野介は4,200石の旗本ですが、高家筆頭として官位は従四位上です。
対して浅野内匠頭は53,500石の大名ですが、官位は従五位下でした。
家の格としては当然吉良の方が上です。

現在「忠臣蔵」として知られるこの物語は、元禄時代に起こった実話である元赤穂藩士達による吉良邸への討ち入り事件「赤穂事件」を元に、事件から47年後に人形浄瑠璃として創られた「仮名手本忠臣蔵」という物語であり、その後、歌舞伎の題材として取り入れられて庶民達に絶大な人気になり今日まで至っています。

当時、徳川幕府は幕府に対する反抗的なものは許さず規制していましたので「仮名手本忠臣蔵」は昔の物語であるとして時代設定を室町時代とし、登場人物の名も例えば大石内蔵助⇒大星由良之助として架空の名前で創作物語として発表されています。
実名では幕府に睨まれるのでまともに上演できなかった為にこうした苦肉の策という設定でしたが、庶民にはこの物語が実は以前に起きた赤穂事件のことだと解っており、当時は庶民達の中にお上に対するちょっとした反抗心がありましたのでこの物語は非常に受けたようです。

さて、現在我々が映画やテレビ時代劇として見ている「忠臣蔵」はこの当時の「仮名手本忠臣蔵」が元になっていてるのですが、問題は果たして「仮名手本忠臣蔵」がどこまで史実なのかということです。

確かに元禄14年3月に江戸城において刃傷事件が起きたことは事実ですし、翌15年12月に元赤穂による吉良邸討ち入り事件も事実のようです。
しかしながら、その事件の原因となると伝えられているような吉良による浅野へのイジメだとか、塩が原因だとかの部分は実際にはどうなのかほとんど事実が解っていないようです。

けんか両成敗にせずに吉良にお咎めなかったことが不服だと言ったのは赤穂側の言い分であり、当時、江戸城内で刀を抜いたという行為が大きな問題であったので浅野だけ切腹になったことは当然の裁きと思われます。

討ち入り当時、吉良邸にはある程度の人数は待機していたようですが、やはり他の回答者さんが云われるようにこの日に合わせて全員で準備して気持ちとしても覚悟ができた赤穂浪士達に比べて、吉良邸側は通常の警護として集められている武士達ではそこまでの覚悟が無い人達ではないでしょうか?
また、赤穂浪士の目的は吉良一人であり、吉良邸全滅を狙っていた訳ではありませんので、吉良邸の人間がいても邪魔さえしなければわざわざ戦わなかったのではないでしょうか?

とにかく「忠臣蔵」の話はどこまでが事実でどこがフィクションなのか今となっては解りませんね。

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#1の回答者の意見は何か違うのでは?

吉良上野介は4,200石の旗本ですが、高家筆頭として官位は従四位上です。
対して浅野内匠頭は53,500石の大名ですが、官位は従五位下でした。
家の格としては当然吉良の方が上です。

現在「忠臣蔵」として知られるこの物語は、元禄時代に起こった実話である元赤穂藩士達による吉良邸への討ち入り事件「赤穂事件」を元に、事件から47年後に人形浄瑠璃として創られた「仮名手本忠臣蔵」という物語であり、その後、歌舞伎...続きを読む

Q吉良邸では、どうして赤穂浪士襲撃に備えて

吉良邸では、どうして赤穂浪士襲撃に備えて番犬を飼わなかったのでしょうか?歴史にもしもは禁物ですが、吉良邸で番犬を数匹、 飼っていれば赤穂浪士たちの襲撃を事前に察知し、ある程度の防御はできたかも知れないし、上野介義央も無惨な死に方をしなくてもよかったかも知れません。
補足
赤穂浪士たちが邸内に侵入を開始した時、それを察知した番犬たちが、いっせいに吠え、それを聞いて吉良邸内にいた者たちが不審者たち(赤穂浪士)の侵入に気づき、警戒を強化していたと思って・・・。

Aベストアンサー

その当時の将軍は徳川綱吉です
生類憐みの令という法律が出されていました。
お犬さまを番犬として使役するなど、もっての他という
時代だったんです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A1%9E%E6%86%90%E3%82%8C%E3%81%BF%E3%81%AE%E4%BB%A4

Q赤穂浪士討ち入りの陣太鼓について

史実かどうかは知りませんが、後世の芸能では、赤穂浪士の討ち入りに際して大石内蔵之助が打ち鳴らした陣太鼓は、「一打ちニ打ち三流れ」であったとされます。これはどういう打ち方なのでしょうか。

Aベストアンサー

ドン・ドン・ド~ン
ドン(一打ち)・ドン(二打ち)・ド~ン(三流れ)
三流れのド~ンは前2拍より強めに打ちます。

後に講談や浪曲で討ち入り場面を華やかにする為に付け加えた演出
でしょう。

山鹿流陣太鼓
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2005-12-14

こんな交通事故防止策もあるようです。
http://www.extec.or.jp/pdf/extec80/p057.pdf

Q赤穂浪士の吉良邸襲撃の成功の要因は?

赤穂浪士47名が吉良邸に討ち入って、吉良殺害を成し遂げました。
吉良家は死者16人、負傷者23人に対して赤穂浪士は数人の負傷ですみました。
この圧倒的な差の要因は何でしょうか?
赤穂浪士は甲冑を着て戦っていたのでしょうか?
あるいは吉良家には戦える武士が少なかったのでしょうか?

よろしくお願いします。

Aベストアンサー

物理的に検証しますと、
1.浪士側は鎖帷子を着込み防御武装していた。  この防御武装では刀では斬れず打撲傷を与える位です。
一方吉良側は寝込みを襲われ寝間着のママの防戦でした。
2.浪士側は暖かい食事、酒で暖をとり十分な準備をしていました。
吉良側は寝起きから寒い寒気に曝され、しかも裸足が多かったといいます。  ある実験では雪中裸足でいると、感覚が麻痺し適格な判断能力や運動能力を欠くようになるという結果が出ています。
3.浪士側は吉良側の長屋の雨戸をくさびで開けられぬようにし、屋外で多数の人数が居るように見せかけのかけ声を交わし、弓を雨戸に射て飛び道具があるように擬装して吉良側の戦意をくじく工夫をした。
吉良側は雨戸が開かず、戸外に出る事ができず、(当時の長屋の雨戸は一カ所でも動かないと開けられない構造でした) 多数の敵がいると錯覚した。
4.浪士側は敵1人に対し2~3人が組になって戦うことにしていた。

このように準備が万全な浪士側に対し統制のある抵抗はできなかった事が吉良側の敗因でした。

Q赤穂浪士の討ち入りの日は?

元禄時代の12月14日に、赤穂浪士47人が吉良上野介の屋敷に討ち入りをしました。
元禄時代は旧暦(陰暦)を使っていたと思うのですが、12月14日とは旧暦の12月14日なのでしょうか?
それとも新暦(陽暦)の12月14日なのでしょうか?

どなたか教えていただけませんでしょうか?

Aベストアンサー

1703年1月30日だな
元禄や慶応など日本の年代で掛かれたものは明治6年1月1日以前は全て旧暦表示
1703年などと西暦で書かれたものは1582年以降は新暦、今の暦と一緒
ちなみに1582年というのは現在使われている太陽暦の一つグレゴリオ暦が始まった年である

Q赤穂浪士で有名な吉良邸の場所は?

約300年前、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りをした話は有名ですが、吉良邸というのは現在でいうと、どこにあったのでしょうか? ご存じの方がいましたら教えてください。m(_ _)m

Aベストアンサー

おはようございます。

現在の両国三丁目の本所松坂公園にありました…。

http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/kiratei/index.htm

参考URL:http://www.cnet-ta.ne.jp/p/pddlib/photo/kiratei/index.htm

Q赤穂浪士が討ち入り前に食べたものは?

赤穂浪士が討ち入り前に食べたものは「うどん」(または「そば」)というのが定説のようですが、たしか池波正太郎のエッセイに、「大鉢に卵を何個も割りいれ溶いたものに、鶏肉の細切れをつけ焼きにしたものを入れ、どんぶり飯にかけまわして食べた。うまいうまいといって、何杯もおかわりした」と書かれていたのを読んだ記憶があります。
そのエッセイがどの本に収録されていたのか、どうしても見つからず確かめられないのですが、この話の載ったエッセイと、このエピソードの出典をご存知の方は御教示ください。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

「忠臣蔵」は史実の「赤穂事件」を元にしたフィクションですが、その演出が史実と混同されているところが多くあります。赤穂四十七士が討ち入り前にそば屋(うどん屋)で腹ごしらえしたというのは、単なる俗説に過ぎません。
 赤穂浪士の唯一の生き残りである寺坂吉右衛門が著した『寺坂信行自記』には、
「吉田忠左衛門、沢右衛門其外六、七人ハ両国橋向川岸町亀田屋と申茶屋に立寄申候そは切なと申付、緩々と休息」
とあるように、赤穂浪士の内の数名が討ち入り前に茶屋で休憩し、「そば切り」を食べたとあります。これが拡大解釈されたのでしょう。
 当時は現在のようなどんぶりに盛られた「かけそば」は普及していないため、四十七士が熱々のそばをすするシーンなどは映画やテレビの演出に過ぎません。

Q「赤穂浪士討ち入り」を幕府が陰で手助け?

忠臣蔵のシーズンです。
元禄14年8月19日、幕府は吉良義央に対して、呉服橋内から本所へ屋敷替えを命じています。
これは、討ち入りし易いようにしたのだ、という説がネット上ではいくつかありますが、ホントですか。
赤穂事件をよく知らない私には、説得力のある話もあります。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

討ち入りし易いようにしたというよりは、結果として討ち入りがし易くなった、ということです。
御曲内よりは市中の方が大挙して押し入るには容易です。
屋敷替えは単なる事務処理でしょう
赤穂事件がいろいろ取沙汰されるのは、浅野長矩が「遺恨があった」と言うだけで何に対する遺恨なのかという点が不明なことが原因でしょう。
結果として現代でもこのようなご質問がでてきます

幕府の加担を否定する推定理由
幕府が討ち入りに加担しなくてはならない積極的な理由がありません。
浅野長矩は幕命で切腹させられたのであって吉良義央に殺された訳ではありません。
しかも斬り付けたのは浅野長矩であって吉良義央は被害者です。
切腹を下命した理由はあくまでも殿中抜刀です。
つまり法理論上吉良義央を主君の仇とする根拠がありません。
この辺りの考え方は当時の側用人柳沢吉保の政治顧問であった荻生徂徠が書き残しています

今四十六士、其の主の為に讐を報ずるは、是侍たる者の恥を知る也。己を潔くする道にして其の事は義なりと雖も、其の党に限る事なれば畢竟は私の論也。其の所以のものは、元是長矩、殿中を憚らず其の罪に処せられしを、またぞろ吉良氏を以て仇と為し、公儀の免許もなきに騒動を企てる事、法に於いて許さざる所也。今四十六士の罪を決せしめ、侍の礼を以て切腹に処せらるるものならば、上杉家の願も空しからずして、彼等が忠義を軽せざるの道理、尤も公論と云ふべし。若し私論を以て公論を害せば、此れ以後天下の法は立つべからず

吉良義央は旗本です幕臣即ち徳川家の直臣です。
浅野長矩は外様大名です。
徳川家の家臣で構成された幕府が、同じ徳川家の家臣である吉良を敵視する徳川家に対峙する外様の家臣団に便宜を図る必要性などどこにもありません。
それこそ不忠者ということになります。
幕府というのは合議制に基づいた官僚組織です
浅野長矩の処分は、主君である綱吉が下して老中が合議の上で認めた形となっています。
殿中で抜刀した以上は切腹は当然という裁決です。
以前にも殿中で抜刀して切腹になった人間はいます。
屋敷を本所に移して討ち入りさせ易くするなどという小手先の合意が成り立つとは考えられません。
そんなに討ち入りをさせたいのなら本所などという街の真ん中ではなく入谷でも早稲田でもいくらでも場所はありました。
江戸とはいえ当時は田畑の広がるのどかな農村地帯でした。
だれにも邪魔されません。
万が一火が出ても延焼のおそれがありません。
事件の性格からしても、後日の取り扱いからしても、浅野の家臣団の行為は幕府の裁定に対する異議の申し立てということになります。
当時播州浅野家再興願いが出されています。
再興願いを却下したら討ち入りなどという暴挙にでるという予測はできません。
事前に老中は知っていたという説があるようですが、知っていれば止めるのが当然の判断です。
集団で市中の旗本の屋敷を襲うなどという行動を認めるような幕僚はいないでしょう。
江戸の治安を乱す討ち入りを認めて利益を得る老中などいなかったでしょう。
(陰謀史観の人間がどんな理屈をつけるかは知りません。)

屋敷替えの推定理由
義央は事件後の翌年3月に、高家肝煎職の御役御免願いを自ら提出しています
役を退けば日々登城する必要はありませんから呉服橋門内の御曲内に居住している必要はありません
本所で拝領した屋敷も以前は5000石の旗本松平信望が住んでいた屋敷です
高家とはいえ吉良は4200石です。
無役の旗本の屋敷としては相当な優遇処理です
本所は旗本や御家人が沢山住む武家の町です
津軽家をはじめ大名屋敷もあります。
武家は町奉行や代官の支配は受けません。
治安維持の岡っ引きや奉行所の役人が居ようがが居まいが関係ありません。
所詮彼らは屋敷には入ることは勿論のこと手出しができません。
日本橋の町人が引っ越した訳ではありません。
自分の身は自分で守るのが武家であれば当然のことです。

その本所でも松坂町は両国橋の目と鼻の先です。
本郷や麻布などよりも遥かに大手門に近い場所です。
両国橋の界隈というのは江戸有数の繁華街でした。
とやかく言われるような場所ではありません。
現在でも吉良邸の一部が再現されて区の観光名所となっています。

吉良邸跡 - 墨田区観光協会
visit-sumida.jp/spot/SpotDetail/tabid/60/pdid/478/catid/6/De...

一度足を運ばれればどんな場所かわかります。
12月に入って隠居願いを出して義周に家督を譲りました。
隠居してから本所へ行ったわけではありません。
要は幕府の担当役人には意図も無ければ落ち度もなかったということです。

討ち入りし易いようにしたというよりは、結果として討ち入りがし易くなった、ということです。
御曲内よりは市中の方が大挙して押し入るには容易です。
屋敷替えは単なる事務処理でしょう
赤穂事件がいろいろ取沙汰されるのは、浅野長矩が「遺恨があった」と言うだけで何に対する遺恨なのかという点が不明なことが原因でしょう。
結果として現代でもこのようなご質問がでてきます

幕府の加担を否定する推定理由
幕府が討ち入りに加担しなくてはならない積極的な理由がありません。
浅野長矩は幕命で切腹させられ...続きを読む

Q赤穂浪士「討ち入り」、そのとき辻番は?

赤穂浪士47人が吉良邸に着くまでに、辻番・木戸番に出会ったという記録はありますか。
図書館である程度調べてみたのですが、見つけることができませんでした。
辻番や木戸番を避けて行ったのでしょうか。
ネットでは、
当時の本所は「場末にて辻番しまりこれ無き所、さまざまの諸浪人衆多く入り込みたる所の由に候」と浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような新開地だった、という記事を見つけましたが、これが正解でしょうか。
よろしくお願いします。

Aベストアンサー

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>当時の本所は「場末にて辻番しまりこれ無き所、さまざまの諸浪人衆多く入り込みたる所の由に候」と浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような新開地だった、という記事を見つけましたが、これが正解でしょうか。

回答から先に述べますと、あながち「間違い」とも言いがたいのですが・・・。

確かに、辻番は江戸市中には辻番所がいくつかありました。
辻番は、幕府の負担による公儀辻番、大名によって設置される一手持辻番、いくつかの大名や旗本が共同して設置する組合辻番とに分かれますが、当時、辻番所が設置されていたのは、大川(隅田川)より千代田城に近い場所にあり、吉良邸のあった川向こうの本所松坂町辺りには辻番所はまだありませんでした。
(元文年間頃・1736~1740頃には川向こうにも設置されました)。

では、赤穂浪士たちが集合して市中へ繰り出した時は・・・と言うと、
良く知られているのが、両国橋西の米沢町にあった堀部弥兵衛宅に一旦集合し、その後も3ケ所に分散して吉良邸に向かいました。

当然、辻番もいたでしょうが、「場末にて・・・」とあるように、すっかり、辻番の役目を果たしてはいなかったのです。
従って、大石内蔵助らが集団で市中を歩いても咎められなかったのです。

なお、木戸番は長屋などの庶民地だけにありましたので、木戸番と出会うことはありませんでした。
武家地の道路は軍事用道路で、「いざ鎌倉」と言う時に、木戸が幾つもあったのでは役に立ちません。

>>浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような

これは「嘘くさい」ですね。
辻番と出会っていれば、お咎めもあったでしょう。
しかし、まあ、当時の風潮として「赤穂びいき」が多かったので、辻番も見逃してくれたのかもしれませんね。

こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。

>>当時の本所は「場末にて辻番しまりこれ無き所、さまざまの諸浪人衆多く入り込みたる所の由に候」と浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような新開地だった、という記事を見つけましたが、これが正解でしょうか。

回答から先に述べますと、あながち「間違い」とも言いがたいのですが・・・。

確かに、辻番は江戸市中には辻番所がいくつかありました。
辻番は、幕府の負担による公儀辻番、大名によって設置される一手持辻番、いくつかの大名や旗本が共同して設置...続きを読む

Q忠臣蔵・赤穂浪士・吉良について

忠臣蔵といえば映画にもなっているし、いろいろな言い伝えなどもあると思うんですが、どっちかといと吉良の方を悪く?書いているほうが多いですよね。それ前提として思うのですが、赤穂浪士の土地兵庫県赤穂市の方と吉良の土地愛知県吉良町の方は仲とかは悪いのでしょうか?もう昔の事だろうし大げさかもしれないですが、少しは現代にも何かしら尾を引いているのいでしょうか?また、やはり赤穂市と吉良町では忠臣蔵の伝わり方(内容)などは違うのでしょうか?

Aベストアンサー

事件の真相は一先ずおいといて・・・

最近は確かに交流の行事はありますが、赤穂ではやはり吉良への反感は根強く、吉良のことを良く言う方はほとんどいません。
吉良は強欲爺、浅野さんは可愛そうな殿様という昔ながらのイメージが今も息づいています。赤穂義士は当然、郷土の誇りであり英雄です。

以前、赤穂城のすぐ近くに「四十七人の刺客」という映画で使われた吉良邸の表門のロケセットを持ってきて公開していたのですが、その時も市民から大変な反対がありました。映画のロケセットとはいえ、赤穂に吉良の屋敷など気が悪い!けしからん!!と。
しばらく観光客で賑わったようですが、結局そのセットはいつの間にか撤去されていました。

ちなみに討ち入りに参加せずに逐電したことで評判の悪い家老、大野九郎兵衛は悪役として千種川の土手の改修に関する民話にも登場してきます。(大野があまりに酷使するので人夫がみんな厠に行ってしまい、ゆっくりタバコを吸っていたので奉行が交代させられた・・・というような話だったように記憶しています)


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