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 歴史ファンとしていつも気になっておりました。
 なぜ、赤穂浪士の討ち入りはあれほどまで見事に成功したのでしょうか?
 吉良邸には赤穂浪士よりもかなり多くの警護の武士たちが詰めていたでしょうし、日頃から討ち入りにも備えていたはずです。また、いくら早朝に寝込みを突かれたからといっても、テレビや映画で観るような赤穂浪士の「圧勝」は本当にあったのでしょうか?
 毎年12月になるとこの疑問が湧いてくるのです。
 ご存知の方がおられれば、どうぞお教えください。
 よろしくお願いいたします。

 

A 回答 (6件)

私も個人的にこの話は好きですよ。


#1の回答者の意見は何か違うのでは?

吉良上野介は4,200石の旗本ですが、高家筆頭として官位は従四位上です。
対して浅野内匠頭は53,500石の大名ですが、官位は従五位下でした。
家の格としては当然吉良の方が上です。

現在「忠臣蔵」として知られるこの物語は、元禄時代に起こった実話である元赤穂藩士達による吉良邸への討ち入り事件「赤穂事件」を元に、事件から47年後に人形浄瑠璃として創られた「仮名手本忠臣蔵」という物語であり、その後、歌舞伎の題材として取り入れられて庶民達に絶大な人気になり今日まで至っています。

当時、徳川幕府は幕府に対する反抗的なものは許さず規制していましたので「仮名手本忠臣蔵」は昔の物語であるとして時代設定を室町時代とし、登場人物の名も例えば大石内蔵助⇒大星由良之助として架空の名前で創作物語として発表されています。
実名では幕府に睨まれるのでまともに上演できなかった為にこうした苦肉の策という設定でしたが、庶民にはこの物語が実は以前に起きた赤穂事件のことだと解っており、当時は庶民達の中にお上に対するちょっとした反抗心がありましたのでこの物語は非常に受けたようです。

さて、現在我々が映画やテレビ時代劇として見ている「忠臣蔵」はこの当時の「仮名手本忠臣蔵」が元になっていてるのですが、問題は果たして「仮名手本忠臣蔵」がどこまで史実なのかということです。

確かに元禄14年3月に江戸城において刃傷事件が起きたことは事実ですし、翌15年12月に元赤穂による吉良邸討ち入り事件も事実のようです。
しかしながら、その事件の原因となると伝えられているような吉良による浅野へのイジメだとか、塩が原因だとかの部分は実際にはどうなのかほとんど事実が解っていないようです。

けんか両成敗にせずに吉良にお咎めなかったことが不服だと言ったのは赤穂側の言い分であり、当時、江戸城内で刀を抜いたという行為が大きな問題であったので浅野だけ切腹になったことは当然の裁きと思われます。

討ち入り当時、吉良邸にはある程度の人数は待機していたようですが、やはり他の回答者さんが云われるようにこの日に合わせて全員で準備して気持ちとしても覚悟ができた赤穂浪士達に比べて、吉良邸側は通常の警護として集められている武士達ではそこまでの覚悟が無い人達ではないでしょうか?
また、赤穂浪士の目的は吉良一人であり、吉良邸全滅を狙っていた訳ではありませんので、吉良邸の人間がいても邪魔さえしなければわざわざ戦わなかったのではないでしょうか?

とにかく「忠臣蔵」の話はどこまでが事実でどこがフィクションなのか今となっては解りませんね。
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 松の廊下の件でいえば、吉良は被害者。

加害者の浅野が処罰されるのはごくまっとうな裁定。赤穂浪士の恨みといっても、冷静に見れば逆恨みでしょう。恨まれるまともな理由がないのに討ち入りに備えるなどということは無かったのでは。

 ましてや47人がかりで夜襲などという卑怯きわまりない手段をどうして予想できるでしょう。
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赤穂浪士、いろいとろ準備して討ち入ったようですね。

鎧は着ていませんでしたが、鎖帷子(鎖で編んだ防御用の服)を着込んでいたとも言われています。
また、吉良側の武士の宿舎の戸を真っ先に釘のようなもので打ち付けて出られなくしてしまったとも言われています。

また、とにかく戦闘力を無くしてしまえばいいわけですから、命をとる必要もありません。少しでも傷つけて戦う気を無くしてしまえばそれ以上はする必要もありません。吉良側の死者、しりょうなどによってバラバラですが、せいぜい20人程度だったみたいですね。赤穂浪士側は死者はいませんから、十分”圧勝”といえるのですけど。
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基本的に、攻める側の有利があります。


討ち入る方は、討ち入り当日以外は準備以外は何もしないでいいです。
早い話が他の仕事をしてもいいし、旅行などに行っても問題ありません、討ち入り当日以外ならば。
それに対して守る吉良側は、いつ討ち入りがあるかわからないので、警備の人数を毎日増やすわけにはいきません。
当時の武士には残業手当などは無かったのですが、やはり体力からも気力からも、毎晩の徹夜は無理でしょう。
つまり、いつも通りの体勢でいるしかなかったわけです。

それから、吉良家は石高だけでは家格は判断できません。
なにしろ上杉家の跡継ぎに吉良家の息子を養子として迎える程です。
高家筆頭というのは、格式の高いものです。
たとえて言えば会社で、浅野は部下が10人程度いる課長で、吉良は秘書が1人いるだけの常務のような物です。
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『ゑひもせす』杉浦日向子著(ちくま文庫)に収録されている漫画『吉良供養』には以下の様に書かれています。



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当夜吉良邸の人数は八十名前後、女はいない。
というのは屋敷の破損がひどく修繕中であった為女中達は奥方と共に白金の実家に寄宿していた。
又、吉良側ではこの奇襲を予知できず、従って無防備であり、上杉方からの助勢もない。
当夜本邸へ宿直していた侍は平生通りの二十二名である。
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いつもとかわらぬ人数で特別に備える事もなく、普段通りの生活で奇襲に遭ったから…の様です。

参考URL:http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480024 …
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テレビや映画の忠臣蔵は作り話です。


吉良は4千石、浅野は5万石です。身分の低いものが上のものに対し、なぜ意地悪など当時身分制度の厳しい時代にできたのでしょうか。おかしな話しです。浅野は大変神経質ですごく気になる性分だったとか。大石の討ち入りも、自社の社長が悪いにもかかわらず、失業状態になったため、失業したのは相手企業の社長が悪いと逆恨みした失業者集団が相手企業の社長に殴りこんだというようなものです。けっして忠誠心というようなものではありません。
時の幕府が幕府失業対策の失策や幕府に対する不満をもみけすために、いまのような話しができたそうです。
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