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都道府県という概念ができた時に
県庁所在地はどこにするかとか
県名は何にするかとかって
どうやって決めたんですか?

A 回答 (3件)

都道府県の名前は、明治維新後の廃藩置県とその後の統合の際に様々な勢力の紆余曲折によって出来上がった物で、決して維新の際の官軍・賊軍の区別の為ではありません。



廃藩置県当初は、藩をそのまま県にした為、300もの県が出来上がり、かつ元々関東と関西に領土を分割して持っている藩がそのまま県になったり、一万石の県から加賀百万石がそのまま県になった石川県まで大きさは様々でした。
そこで明治政府は県の統合に乗り出すわけですが、これには様々な勢力がからんできます。
例えば、ある県では県を構成する元A藩と元B藩の住民が県庁所在地を巡って対立したり、またある県では地元の旧大藩勢力の介入を恐れて、わざと中心都市を避けて県庁を置いたりしました。
また、明治政府は極端に統合を推し進めた為、巨大な県がいくつも作られては分割されました。
*3府72県を経て一時37府県まで統合されました。(東京は当時まだ府です)

例としては(大は勝手につけたものです)
「大」石川県→石川・福井・富山県に分割
「大」島根県→島根・鳥取県に分割
「大」大阪府(旧堺県)→大阪府・奈良県に分割
「大」青森県→青森県・南部内陸は岩手県、北海道渡島半島は北海道(一時函館県?)に分割
などです。

明治四年の廃藩置県から20年かかり、明治23年ようやく現在に近い3府43県と北海道庁という行政区分が出来上がったのです。

尚、会津若松と越後長岡は、戊辰戦争の激戦地であった為、住民感情や行政の円滑な執行を考えて県庁所在地から外されたともいいます。
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現在の都道府県はいっぺんにできたわけではありません。

最初は徳川時代の大名の領地である藩がベースで約300ありました。その時はお城のあったとこが県庁ですね。それが何度かの統廃合を経て、現在の47都道府県になりまいした。県の名前や県庁所在地の決め方は、ケースバイケースとしかいいようがありません。どこでも揉めてます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%83%E8%97%A9 …
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戊辰戦争で負けたところと勝ったところで決めてます


勝ったところは 都道府県名と県庁所在地が同じ
負けたところは違います
政府の嫌がらせで決まりました
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