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歴史の質問です。他の国は前の王朝や征服していた人を滅ぼして、自分たちが覇者となり国を統治していきます。日本だけは、天皇を存続させ利用し都合のいい様に使い、滅ぼしませんでした。別に、畏れ多いとか敬意をは
らっていた訳じゃないと思います。
例)①承久の乱。②織田信長は、ほぼ日本を統一して 官位を返上している。

私が、調べた限りそれを実行しようとした人物は(あくまでも仮定)
足利義満。(滅ぼすんじゃなく乗っ取ろうとした)

織田信長。彼の性格、行動から推測して。

ふたりとも、あと一歩の所で急死したため、私の推測、仮定の見解です。

粗放な疑問です。宜しくお願いします。

gooドクター

A 回答 (7件)

別に、畏れ多いとか敬意をは


らっていた訳じゃないと思います。
 ↑
そんなことは無いと思います。

天皇てのは、本来の性質は神と人間を
媒介するローマ教皇と酷似した存在
なのです。

宗教が力を持っていた昔です。
天皇に対する畏敬はあったと思います。

承久の乱で後鳥羽上皇と戦うことになった北条義時は、
落雷事故などがあると、これは祟りではないか、と
恐れおののいた、と吾妻鏡に記録されています。

この畏れは、現代でも残っています。
皇太子が雅子さんと結婚し、パレードに出かける段に
なると、降っていた雨が止み、空が晴れてきました。

それをTVで視た視聴者の中には、やはり天皇家は・・
と畏れた人がかなりいましたよ。

現代ですら、この調子です。
昔の人はもっと怖かったのでしょう。
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織田信長は除外。


彼は晩年、天皇の外戚になることを申し入れ断られている。
権威を認めていないならそういう行動は取らない。

信長は、朝廷からの「天下静謐」の要請を受け行動していた。
だからことあるごとに朝廷の権威を振りかざすことができた。
中央部を短期間に制圧できたのはそれがゆえである。
朝廷をないがしろにするとは、自らの存立基盤を自ら崩す行為である。

義満にしろ、朝廷の権威を認めざるを得なかったことでは変わりない。
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一番、皇位簒奪の疑いがあるのは継体天皇でしょう。

神武天皇から五代離れた子孫ということで、現代なら ほとんど他人です。正統の武烈天皇というのが異常性愛者みたいで悪逆非道を行ったという記述が日本書紀にあり、臣下の方で この血統を残してはならないと判断してなのか、とにかく子が無く、越前の豪族であった武烈天皇に招聘したというのが事実のようです。戦いの記録は有りませんので そういうことなのでしょう。武烈天皇は古事記では ほとんど触れられてなくて、継体天皇を迎えるための創作人物の可能性もあるようです。
 弓削銅鏡は皇位簒奪の意図があったかは疑わしいですね。孝謙天皇が寵愛して後継者に仕立てようと考えたらしいです。簒奪の意図があったのなら死罪になるはずですが、実際は孝謙天皇の没後、左遷されただけです。
 義満は自身が天皇になることを考えていたのではないでしょう。子の義嗣を天皇にすべく画策していたようです。それとは別に義満は宮中の女官たちと愛人関係があったとされ、後円融上皇が自分のお妃の一人を「峰打ち」にするという事件がありますが、理由は妃の不倫だったということで、その子は後に後小松帝になるのですが、義満との不倫の子だった可能性もあるようです。義満も一応は源氏一文で清和天皇から続く血統ですから、万世一系は維持できているとも言えます。不倫を考えると万世一系は極めて危うい論理になります。
 織田信長は実際に簒奪は有り得たかも知れません。彼は知能は優れているけど、義理人情といったことには無頓着で、一揆などが起こると根絶やしにせよ、と皆殺しにしたりで、光秀の反逆は、その辺に理由があったのでしょう。本能寺の変には自身は赴かず、家臣だけで実行していますが、これは家臣たちが どんな命令にも従う人望を有していたからでしょう。
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質問の「目的」に沿った回答をする為に、履歴を拝見させていだきました。



A:>天皇を存続させ利用し都合のいい様に使い、滅ぼしませんでした。
B:>別に、畏れ多いとか敬意をはらっていた訳じゃないと思います。

最近の高校教師の歴史認識と文章力は、このような(程度の)ものなのでしょうか。



C:>それを実行しようとした人物は(あくまでも仮定)

A以前の文章が幼稚過ぎて「それ」の意味が不明です。(わざわざ仮定と言うの理由も理解できません)
最終的に朝廷(皇統の滅亡)の権威の否定と、それから独立した政権の樹立を謀っていたという意味でしょうか。
(だとしたら、まず平将門さんが出てくると思いますが)

そしてそれらに源頼朝、足利義満、織田信長が挑戦したと仰りたいんどえしょうか。

↑ですが、源頼朝が実質的に行っていると思います。


信長の官位の返上ですが「右大臣」と「右近衛大将」の件でしょうか。

信長の官位の辞退については以下の意見も出ています。

位階は維持して朝廷との関係を保ちながら、それらの官職は子の信忠に与えさせ、息子と次代の織田家の権威を高めていこうとしたのだと思います。
(信長は正二位の位階は返上していない。当時の織田家当主は既に信忠になっている)



D:>粗放な疑問です。宜しくお願いします。

回答D:3人ともそこまでの事(皇統の滅亡)は考えていない。

そもそも、そんな事をしたら、自分の身分の正統性が消滅します。
ヒント:武士のルーツ。皇統の意味と価値。日本の「姓」と天皇の関係。
(これを知らない高校教師がいるとは思えませんが)


以上から、私は「彼ら」の目的は↓(止まり)だと思っています。

源頼朝:天皇や貴族の権威から武士を切り離して自分達の自治を勝ち取る。
足利義満:↑の延長としての権力奪取。
どちらも、権力は奪ったが皇統や貴族を滅ぼそうとまでは思っていない。

織田信長に至っては、親の代から親天皇で何度も朝廷に寄付や普請を行っていますし。
「歴史の質問です。他の国は前の王朝や征服し」の回答画像4
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このようなテーマでは様々な意見がでてきますね。




武士政権の成立後の農民や町民たちも、天皇については知っていました。

江戸時代は、庶民でも朝廷の儀式やイベントを見る事ができました。
大嘗祭や新嘗祭や即位などの儀式は京都や大阪の市民にも知らされています。
そして、即位の儀式は庶民でも「切手札(観覧券)」を入手して見物する事ができました。
後桜町天皇の即位式では、降雪の中でも多くの庶民が観覧しています。

元旦には庶民も参拝し、禁裏で能を観劇しています。
当時は季節ごとにあった節分への参賀も認められていました。


以上のように、宮廷行事は庶民にとって娯楽でもあり、天皇の威光を認め敬いながらも親しんでいたと思います。

光格天皇の在位中に天明の飢饉が起き、全国で一揆や打ちこわしが頻発しました。
しかし、その一方で京都では民衆による「御所千度参り」が行われています。

【御所千度参り】
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%89%80 …


これらの事は、地方でも同様でした。
そもそも、全国の神社が自分が祀る神と天皇(天照の子孫)の関係を知らない筈がありません。
仏教についても、受け入れて広めたのも皇族(聖徳太子)です。
それらと関わる名主や庄屋も当然知識はありました。

農業に関しても、伊勢神宮は神宮歴という「農事歴(農業カレンダー)」を出して全国で売っています。
これにより、一般の農民も 神社のトップ=天皇 と認識していました。


職人の名前(介 兵衛 守 掾 衛門 等)も朝廷から賜った「受領名」です。
それらが自分を権威づける名前の由来を知らない筈がありません。
商人にも、宮家や公家との縁によって「受領名」を受ける事もありました。

以上により、庶民の文化にも皇室が浸透していました。

雛祭りの雛壇は、宮中への憧れが形になったものです。
(当時の俳句に「帝雛 たみのむすめも にぎわひぬ」という句があります)

近松門左衛門の浄瑠璃には「天皇劇」というジャンルがあります。
百人一首には天皇の歌はないのでしょうか。

「お伊勢参り」が流行りましたが、彼らは行く前も参拝した時も伊勢神宮について何も考えなかったのでしょうか。
彼らは旅行中に何の説明も受けず話も聞かなかったのでしょうか。



>時の権力者たちは、天皇の威光を利用して自分の正当性を主張してきたのです。

だから何だというのでしょうか。
支配者の威光を借りる者が出るのは歴史上のあらゆる国で当たり前に起きていた事だと思います。

しかし、日本のトップは天皇という代わり得るものがない存在のおかげで、支那や他国のような「平等思想」や宗教や民族差別による無制限な殺戮(王様だって元は成り上がりじゃねーか、俺たちと違う奴らは殺して良ヨシ)にブレーキがかかっていたとも思っています。


これらについては、天皇の権威の源を理解していればわかる事であり、間違っても支那の易占思想による王朝交代と混同するようなミスは犯さないと思います。
(しかし、このようなテーマでは、無知を騙す為に嘘をばら撒く方も湧くようです)
「歴史の質問です。他の国は前の王朝や征服し」の回答画像3
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私の認識は違います。


戦前まで日本国民にとって天皇は絶対的な存在だったのではないかと思います。平家が孫の時代に天皇を輩出しようとした考えが精一杯なのではないかと思います。なお、そのことに気づいた外国人はマッカーサーだったと思います。
また、日本人がグローバルな視野を持ち始めたのは江戸時代後期からで、天皇では昭和天皇以降ではないかと思います。

足利義満は戦国時代の連中と比較するとはるかに進んでいたと思いますが、それでも中国と日本の関係を正しく認識したことと中国との貿易の重要性に気づいことぐらいだと思います。実をとっただけだと感じます。

織田信長は性格の悪い秀才に過ぎないと思いますが、天皇の上、すなわち神になりたかったのではないかと思います。

なお、権威ある人々からの伝聞情報だったと思いますが、大昔から庶民は天皇を認識していたと思います。
また、明治維新は徳川家に対してはクーデターだったと思いますが、天皇家に対しては武家社会と何ら変わりなかったというか、天皇をトップしたことによって正当性が生まれたと思います。
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その通りです。


時の権力者たちは、天皇の威光を利用して自分の正当性を主張してきたのです。

武士が政権を握ってのち、当時の農民や町民たちは、天皇についてなどは殆ど理解していなかったと思いますよ。そもそも武士がどうして支配階級なのか、何をしていたのかすら理解していなかったと思いますが。

明治維新の時もそうです。
維新志士たちは明治天皇を祭り上げて、新政府を立ち上げましたが、実際に取り仕切っていたのは維新志士たちです。
少なくとも明治天皇に対して最上の敬意は示していたようですけれどね。

ただし、この形は日本に限ったことではありません。イギリスもそうですし、中国にかつて存在した皇帝もそうでした。
日本の天皇の立ち位置は、中国皇帝のそれに似ています。

織田信長が官位を返上したのは、自分は天皇家の部下ではないという意思を示したのだと思います。
天皇という存在自体を超えた、「俺様」的な地位を確立したかったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2021/05/16 12:17

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