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その分野について認識の深い人は、簡潔に表現できます。また、よくわかっていない人は話が長く、そして、次第に感情が高ぶって、演説調になってゆきます。

私は経験上、こういうことが言えると思っています。このカテゴリーでも全くそうであり、教養があるために話が長くなっても、表現が非常に端的であったり、理路が整然とした方がいるものですが、何を言っているのかわからない方もいます(笑)。
勿論、学者でない我々は大なり小なりそういうところはあるでしょうが。

端的な的を射た表現に出会うと、こちらの思考も刺激されます。逆のケースでは、なんだか考えることが面倒にすらなってきます。

さて、端的な表現とか、整然とした理路の話を「あか抜けた理論」と私は呼んでいますが、あか抜けていない理論と何が違うと言えるでしょうか?

主観性の強い質問ではありますが、この点に関し様々思うことをお聞かせください。

gooドクター

A 回答 (12件中1~10件)

端的な表現とか、整然とした理路の話を「あか抜けた理論」


と私は呼んでいますが、
あか抜けていない理論と何が違うと言えるでしょうか?
 ↑
判りやすさだと思います。

今道友信、という哲学者がおります。
氏の30代に書かれた本は、非常に難解
でしたが、
70代になって書かれた本は、非常に判り
易くなっていました。

質問者さんの云うところの、垢抜けた
んだと思います。

真に理解していれば、素人でも
判るように、説明出来るんだな、と
思いました。


法律理論にしても同じです。

複雑な理論はどこか間違っている
場合が多いのです。

理論は単純であればあるほど優れている
と思います。
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この回答へのお礼

>判りやすさ

真理とは単純なものだと思いますので、判りやすいはずです。

複雑な理論にするのは、その単純さに飽き足らないか、分かりにくくして別な目的に引っ張ろうとする邪悪な意図があると。

世の中結構そういうものですよね。

お礼日時:2021/06/04 22:05

相手に合わして話を進めていく中で平行線をたどるとしたら「結論を性急に求めようしたか」もしくは「「論点」をしっかり抑えていないか」あるいは「相手を理解していない」等が理由でしょう


突き詰めるならばベースは感性であり感性は主観でかつ生理なので本来「合わなくて当然」です
ですから「合わなく当然」な事については互いに認め合わうべきでありそれが平行線の原因ならシンクロできないので話をやめるべきでしょう
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この回答へのお礼

合わせながら話を進めていって平行線に入る時とは、お互いの哲学と哲学がぶつかった時ということもあるでしょう。
仰るように個人のベースの部分で、主観により信じている部分ですので。

とは言え、私のような学問の素人では論理というものを知悉しているわけでもなく、「証明」「論破」といってもそれが何を指すのかはっきり認識しているわけではありません。
ですから、あれこれ論ずることは論理を磨くことになるでしょうし、そもそも「ベース」の部分は主観であり、論理を超えている部分ですので、話をして無駄ということはないと思います。

お礼日時:2021/06/09 21:49

悪気はないとおもうのですが、人間考えるというのは、自分の置かれた状況を中心として、考える傾向が強いと思います。



誰でも、利他精神というのはあると思いたいが、私は、極端に交友関係がないので、あまりあてにならないのかもしれませんが。
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この回答へのお礼

現代人は、科学的に帰納的に自分の考えを導いていると思っている人が多いようですが、そうであるなら私は勘違いだと思います。

何故なら、物事の本質は帰納的には帰結出来ないからです。

つまり、個々の哲学は、本人が信じ決めているということです。
そのことをよく理解して、議論なり対話なりをすれば、実りあるものになるに違いありません。

お礼日時:2021/06/05 17:28

質問者さんお考えを否定する気はありませんがその考えは自己都合による独りよがりと言われても致し方ない考え方です


経験や体験が無駄になるかどうか当人の問題です。それを見越すなら相手をよく観察し相手を理解する必要があります
相手を理解する為に相手に合わせて話をすすめる必要があります
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この回答へのお礼

誤解があります。
幼稚園児にカントの理論を説くようなことは、しようと思っていません。

物事の認識、考え方の次元の問題です。
大人になれば、多くのものが個々の中で決まっているものですね。

で、誰でも「この考え方はアカン」というものの一つや二つはあるでしょう?
それを、誰でも否定して、できれば根絶させたいと思いますでしょ?

そのやり方の話です。

相手に合わせて話してゆく、これが基本でいいと思います。
しかし、大抵平行線になりますね?

ですから、一つの方途として、言い切る、ということがあっていいと思うということです。

鉄則?何処の?

お礼日時:2021/06/05 17:16

相手の知識やそれに伴う認識等に伴う理解力に合わせるのはコミニュケーションの最低条件です


端的に言えば「理解出来ない話をしてもまさに「猫に小判」でしかない」ですから
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この回答へのお礼

>相手の知識やそれに伴う認識等に伴う理解力に合わせるのはコミニュケーションの最低条件です

私は必ずしもそうではないと思っています。
人は理解しなくても、あるいは反発しても、物事を感覚的に捉えるアプリオリな能力を誰もが持っていると考えているからです。

一度聞いたことは忘れることはあっても、脳みそから消えることはないと考えています。だから無駄にはならないと思います(価値のある話であればですが)。

従って自分が価値があると思っていることに関しては、あか抜けた表現ができるよう言葉を磨くべきです。

お礼日時:2021/06/05 13:19

こんにちは。


おもしろい議論ですね。
私も混ぜてください。
私からは、次のように論じさせていただきましょう。
ポイントは、「相手に合わせた適切な省略。それは自分が泥をかぶる覚悟ある嘘つき・・・」

論を展開する際には「単純であるべき」と「正確であるべき」が常に付きまとい、それらは基本的には矛盾する問題ではありましょう。
一方、今回の「垢ぬけた」は「わかりやすさ」であろうと思われ、それはどうしても「単純化」が優先されますね。

では、「正確さ」はどうするか・・・は常に悩ましいですが、これに対する私からの見解が上記のようになりました。
単純化する以上、正確さが欠けてしまうのは仕方がない。
その場合、優先して説明すべきポイントはできるだけ相手の興味のポイントに合わせることは当然ですが、見込み誤りもあるでしょうし、また、相手がひとつの説明を納得した上ですぐに次の段階の深掘りをしてきた場合にも
この部分を省略したことで「ウソつき」との立場になってしまいますが、これを恐れてはいけない・・・。

「焼きそば」を知らない外国人に「What's Yakisoba?」と聞かれたとしましょう。
標準的には、単純に「焼いたそば」(Roasted noodle)あたりで答え、さらに、「日本では細かく刻んだ野菜や肉といっしょに、なぜか主にソース味で焼いて軽食として食べるんだよ」という少し面白味のある説明を付すところでしょうか。
しかし、相手が、調理法、特に加熱法について興味がある人であるなら、「日本における麺類の調理法には、ゆでる、煮る、炒めるという方法がある。他方で麺類を揚げる料理は少なく、直火で焼く例はほとんどない。焼きそばは、名前こそ焼いたそばであるが、実際には炒めたそばである」というような説明にすべきでしょう。(実は、炒めるも揚げるも通常はflyなのは悩ましいですが 笑)
もっとも、さらに焼きそばを多少深めた人に言わせれば「焼きそばを「炒める」などと言うから素人はダメなんだ。途中で水を入れて蒸気を出すのがポイントなので、蒸すという作用がポイントなんだ」などと攻撃を受けることになります。

でも、もし、質問者が「俺はラーメンなら知っている。焼きそばももとの麺がよく似ている。どう違うのかなあ」といった状況なら、やはり最初の説明が良いことになり、最後の「蒸している」などは相手を混乱させるだけでしょう。
で、ここでポイントは、周りに焼きそばにこだわる人がいたならば「ウソつき」と言われそうで怖いけれど、ここは質問者の気持ちを優先し、覚悟して「焼いたそば」と答え、脇から「こいつはウソをついている。真の焼きそばとはな・・・」とツっ込まれた場合には「ごめんごめん、ちょっとウソかもしれなかったね。でも僕はラーメンのほか焼きそばも大好きなんだよ」などと「ウソつき」の責任を自分のところで吸収して笑顔で受け流す・・・というのが一つのテクニックかと思います。

ここで、既に質問者さんもご示唆のように、論を単純化するためには知識が単純ではダメでしょうね。
 論の単純化のためには、ある程度深い知識を持ち、複雑な視点といろいろな説明方法や優先順位を日ごろから少しずつ整理しておき、単純な質問はもちろん少しねじれた質問でも、知識を思い出すだけで精一杯になるのでなく相手の趣旨をくみ取る余裕が欲しいところですね。
 さらに可能ならば、単純化に対して「ウソつき」と呼ばれても「論の省略や思い切ったモデル化をウソというなら予定通り。誰も省略できずに悩んでいるなら自分こそが泥をかぶってあげよう」くらいの余裕が必要かもしれませんね。
(特に最近のマスコミなどはいわゆる上げ足取りばかりが多くなったような・・・)

さてさて、結局、私が論を「垢抜け」させることができずに(笑)長くなってしまいましたがいかがでしょうか。
お役に立てば幸いです。
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この回答へのお礼

分かり易いです。かなりあか抜けた思索ができる方であるなあと思いました。

仰るところの「単純化」は「集約化」と言ってもいいと思いました。

私は最近将棋を始めました。いや、ヘボですが日々上達していると思っています。
初めは目先しか見えない手ばかり打っているのですが、次第に集約化し、多くの相手に対応できるようになってくる、と。

将棋で、一場面においての正解というものはないのでしょうが、勝利への正解に限りなく近づくことは「名人」への道と言えるでしょう。

言葉を使った論理というものは、おそらく将棋以上に複雑だと思います。だから、これの単純化・集約化は将棋以上に難しいのかも知れないと思いました。

お礼日時:2021/06/04 22:29

重要なのは相手に合わせる事です。

それがコミニュケーションの基本です。
その点を踏まえるならばここのカテに参加している人達の多くはそれを意識していないようですね
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この回答へのお礼

何を「合わせる」べきだと仰る?

お礼日時:2021/06/04 22:09

「あか抜けた理論」嘘つき


[あか抜けていない理論]本当の話
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この回答へのお礼

そういう風に感じる場合も、よくあることでしょう。

お礼日時:2021/06/04 22:06

と言うか、、、質問者様が、既に質問文の中で解説しているじゃないか。

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この回答へのお礼

まあ、これは私の感覚・言葉での表現であって、違う感覚・言葉ではどうなるのかを知りたかったということです。

お礼日時:2021/06/03 04:01

哲学から学術的なものを消し去ったら何が残るか?

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この回答へのお礼

学問ですから、学術的厳格さを取り除いたら学問ではなくなり、それにより信用をしない人が出てくるでしょう。内容はそのまま残るでしょうが。

私は学問において、学術性が必要ないと思っているのではありません。

主観的な判断で自分の幸せを勝ち取ってゆく「人生」において、学問はツールの一つだと思っているということです。

お礼日時:2021/06/03 03:59

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