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自分自身が変わるのも、最終的には自分自身ですよね?

周囲から沢山アドバイスや賞賛されても、変わらない人は変わりませんよね?

怠惰な状態なままの人もいれば、改心する人もいます。

自分自身をコントロールするするのを「自我」というのでしょうが、人は「たった一言」で変わる人もいます。

勿論、ググったうえでこの質問をしてます。
「自我」とはもうちょっと易しい言葉で解釈をお願いします。

質問者からの補足コメント

  • 皆さま、感謝です。
    ひと言お礼ですみません。

    ちょっと頭の整理がうまくできません。
    難しいですね。

      補足日時:2021/06/11 14:27
gooドクター

A 回答 (16件中1~10件)

自分自身をコントロールするするのは「自制心」だと思いますが。



感情や欲望を抑えること。非常に腹が立ち、普通であれば「バカヤロー」と怒鳴りつけたいようなとき、我慢できる人が、自制心を持った人です。

自分自身が変わるのも、最終的には自分自身ですよね?

↑そうですね。松下幸之助が「自分の夢も持たずに、自分の人生に対するビジョンも持たずに、ただ、生きていくために給料をもらいに行く。『でも現状それしか仕方ない』そういっている間に人生あっという間に終わる」
と言っているのを見て、言葉が胸に突き刺ささりました。まさに自分のことだと思って。本当に、今はこれで仕方ないと言っているうちに5年間はあっという間に過ぎていきました。会社の歯車として働くとしても、それが自分にとってどんなメリットになるのか、そして更なるメリットを生むためにどんなことを目標にすればよいのかといった中長期の目標を持って初めて、目の前のつらい仕事も乗り越える力が出ると言えます。

仕事でも人生でも目標を持って初めて「自我」に目覚めると言うと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そうですね。
常に目標を定めて、それに向かっていきたいですね。

お礼日時:2021/06/11 14:19

《自我》は 現実に存在する《わたし》のことであり《自己》のことですが その《みなもと・根元》はどうかという問題があります。

つまり霊性なる神にかかわる主題です。



《アートマン》は 《 self 》と訳されふつうに《おのれ》つまり自己のことですが しかも同時に別様に そのみなもとの《霊我》をも意味します。

神――宇宙の主宰神なるブラフマン――の霊性に呼応するところのわれであり霊我というわけです。

ブラフマン(梵:ボンというふうにきわめて縮約した音訳です)とおのおのわれのアートマン(霊我)との対応一致を 梵我一如と言います。





ゴータマ・ブッダは ブラフマニズムによる身分差別制に反対して アン‐アートマン(無‐霊我;無我)をとなえました。

したがって この上なくとうとい知恵のさとりを得たと宣言したとき その――霊性におけるさとりの――境地を 梵我一如ではなく 無梵無我一如と規定したことになります。

みづからをその原理に《めざめた者(ブッダ)》と言ったわけですから 《自我;われ》のみなもと問題にはかかわっており しかもそのみなもとつまり神は《無い》と言ったわけです。

かくてゴータマ・ブッダの説いたオシへは 無神論にもとづく宇宙観や世界観であり〔神秘性を留保した〕経験思想です。



しかるに後世のブディストらは 有神論にもどりました。《無い神》を《有る神》にもどしました。

ただし 梵我一如説にもどるわけには行かず 《アートマン:霊我》のことを 《タターガタ・ガルバ(如来蔵)またはブッダター(仏性)》と呼びます。みなもとのみなもとも やはり〔如来または〕ブッダターです。

したがって 梵我一如に代えて 仏仏一如なる境地だとなります。



このさとりの状態を 《境智冥合》と言って いくらか独自の説をとなえる場合があります。


この《智》は 知性ではあってもみなもとの智慧ですから――アートマンの霊我と同じことですから――霊性つまり《〔感じるや考えるを超えた〕信じる》の場ないしチカラのことです。《境》はむろん霊性です。


そしてこの事情については 《以信代慧》というふうにも説明します。信を以て智慧に代える。信じることで ヒラメキを得て ふつうの経験合理性にもとづく知性を展開するのだと。
(無神論を棚に上げておけば ゴータマ・ブッダのオシへとふつうに親和性があります)。


信じるとは 《感じる:感性の原野》や《考える:思考の緑野》を超えたところの《〔非感性および〕非思考の庭》で起きることであり 《知り得るか知り得ないかが知り得ないナゾの何ものか》を無条件で無根拠にてわが心に受け容れることです。

そのナゾは ブラフマンでも《無い神》でもブッダターないしダルマでもそして お望みなら南無妙法蓮華経でも 自由なわけです。ヤハヱーでもデウスでもアッラーフでも・・・。

名前がバラバラなだけで 本体は 同じひとつの普遍神です。



☆ 言いたいことは 《自我》という翻訳語は何ら無くても問題ないということになります。(ちょっと見では分かりにくいから 学者稼業にとっては持ってこいなのでしょう)。

(長くてすみません)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

なるほど。
詳しく感謝です^^

お礼日時:2021/06/11 14:27

>自我の意味がいまいちわかりません。



【自我】自己。他の人間、対象から自らを区別する自称である。

①.西洋哲学における自我
思考、感情など生のいとなみにともない、そこから発現する統一的な主体的根源。

②.心理学における自我
自我をあくまで経験的存在としてとらえ、経験によって形成され変化するところの個性的特性であると定義されている。

③.仏法における自我
古代インド哲学においては、「我」をアートマンといい、呼吸を意味した。そして、このアートマンと宇宙大我というべきブラフマンが同一であるとし、常楽我浄を唱えた。
これに対し仏教は、現実の自我は因縁により仮に和合しているにすぎないとして無我を説いた。法華経本門にきて初めてそうした現実の個我の無常を前提としつつも、三身常住を説き、真実の自我は常楽我浄の「我」であると説く。
日蓮大聖人は、自我とは生命それ自体であるとされている。
御義口伝には「自とは九界なり我とは仏身なり」と御教示され、自我偈冒頭の「自我得仏来」の一句を「自も我も得たる仏来れり」と読むことを示されている。


>自分自身が変わるのも、最終的には自分自身ですよね?

そうです。


>周囲から沢山アドバイスや賞賛されても、変わらない人は変わりませんよね?

そうです。


>「自我」とはもうちょっと易しい言葉で解釈をお願いします。

自我とは、生命である。
しかしながら、その生命とは『十界』を具し、『宿命』を容している。
そして、自分の身の回りに起きる様々な現象は、その生命(生命状態)に起因して起きる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

やっぱり自分の意識を変えるしかないですな。

お礼日時:2021/06/11 14:26

自我=自己



自己とは認識するものである。認識するものを認識するとなると、
さらにそれを認識する必要になり、その結果、無限遡行に陥る。

つまり、認識できないために、その意味も良く分からない。
結果、存在自体も、良く分からないのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

難しいですね。

お礼日時:2021/06/11 14:25

自分自身を自我と言います



評価したり
改心したり

そういったものじゃないとは思いますよ

在るがままが自我であって
自分自身を変わってると【思う】のも自我である
他人からアドバイスをもらって変化したと【思う】のも自我である

この【思う】てなのが自我であって

【思う】てな事柄じたいは変化したり
他人に評価されたりはしないですもんね

でも自分自身で自己評価してしまい
自我がかわるとか!
変な自己開発セミナーや宗教などで
自我が変わったとかとか

思い込まされると!

自我ってかわるとか!なってくるんじゃないでしょうか?

人間、何かを【思う】からこそ考えたり!行動したり!することが可能ですもんね

なにも思えなかったら、哲学的なゾンビてな話になってきますもんね
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

感謝です^^

お礼日時:2021/06/11 14:25

「自我」とはもうちょっと易しい言葉で解釈をお願いします。


  ↑
自分だ、という意識です。

人間は、自分の事を、自分、と
意識できます。

それが自我だ、と思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

そうですね。
自分自身を自分だと自覚できますものね。

お礼日時:2021/06/11 14:24

オマケ


自我には統合されたいくつかの人格があり自我は状況に応じて人格を使い分けるのです
自我と人格の関係性を具体例を上げて説明すると
人格とはまさに十一面観音の頭部についている十一のそれぞれの顔です
自家とは十一面観音そのものです
十一面=顔を使い分けようとも十一面観音に変わりが無いと言うことです
質問者さんが仰っている自分自身が変わると仰っている自分自身とは自我でなくて人格の事でしょうね
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。

お礼日時:2021/06/11 14:24

自我とは


「自意識(顕在意識)」としての「私」
脳作用のコアな指針
小さな自分に対する大きな自分
です
脳全体では約860億個の脳神経細胞が存在しています。脳神経細胞それ自体生命体である事から脳神経細胞は「小さない自分」なのです。
この「小さない私」が互いに協力して「大きな私」の為に働いているのです
この働きには
すべての個体に共通する生理的作用
(呼吸や心拍の調整等)
個体毎の作用
があり自我はどちらにも関わりますが一般に問われるのは後者です
後者について言えば
潜在意識下の脳はいくつもの複数の部位(脳神経細胞群)が連携しあって処理しています。これを並列分散処理と言います
潜在意識下の数多の並列分散処理の中からいずれか一つの処理を大きな私が意識(=選択)します
「大きな私」が私自身置かれた状況に応じて「私基準」をもとにして選択「意識」すると言うことです。
加えては「大きな私」は「脳社会の秩序」を維持しています
自分自身のコントロールいわゆるセルフコントロールについて質問者さんは誤解されていますが「自我におけるセルフコントロール」とは「許容範囲内に収めることである程度の一貫性を持たせる」事です
「許容範囲内に収めることである程度の一貫性を持たせる」その理由は
そうすると言動をパターン化されやすくなり結果エネルギー効率が良くなる(=楽になる)
言動をパターン化させる事で結果が予測しやすくなり精神(心)を安定させやすくなる
他者と一定の関係性を保てる
等です
集団で生きる人類と言う生物種では「生存戦略」において他の個体との差別化は
他の個体と有利な関係を築く上でとても重要です
具体的に言えば「自分を良く見せる」事が重要だと言うことです。
この「良く見せる」事=よく見せようとする心理が自尊心(プライド)です
質問者さんが仰っている
他者からのアドバイス云々については
他者からアドバイスされている時点で他者のほうが立場は上となりそれを受け入れる=認めることは自分自身を卑下する事に繋がり=自尊心を傷つける事です
ですから他者からのアドバイスは受け入れがたいのです
他者からのアドバイスを受け入れられるときはそうしたほうが明らかに有利になると判断できる時です
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

>言動をパターン化させる事で結果が予測しやすくなり精神(心)を安定させやすくなる

→なるほど。
わかりやすかったです。

お礼日時:2021/06/11 14:23

★ 自我の意味がいまいちわかりません。


☆ 《 ego; das Ich; the 'I' 》ですから 《われ;わたし;わたくしなるもの;自己》のことだと思われます。

わづかに 《 alter ego: ほかのわれ;他己;他我》という言葉があって《他我》ともいうのでそれに合わせると 《自我》という訳語もありだと強弁するようです。しかしながら わたし=自己のほかに自我なるものがあるのではないです。

《わたし》が 世界の中にあって ものごとを知覚し整序して記憶し 知解において情報として取り上げさらに編集し そこから意志として欲するところを取捨選択しよいと判断したなら行動に移す。


★ 自分自身をコントロールするするのを「自我」というのでしょうが、
☆ というコトの事情は 上のような要素要因とその過程を言います。





★ 自分自身が変わるのも、最終的には自分自身ですよね?
☆ 《最終的》という言葉を 時間的にとるのではなく 考え方として受け取るなら 基本として人間の思惟や行動は ヒラメキに拠っていると考えます。ヒラメキを享けて時間的な最終に意志の判断・実行がくると。




★ 周囲から沢山アドバイスや賞賛されても、変わらない人は変わりませんよね?
☆ 《人間が 変わる》という主題ですか。――最終的な答えとして 次のように考えます。

人間は 変わります。少しづつでも変わります。何も言わなかったのが 《ありがとう》とひとこと言うように変わります。

ただし 遅々として進まず一生のあいだに一定程度にすら成り得ず変わらずじまいだという場合もあるかと見ます。

★ 怠惰な状態なままの人もいれば、改心する人もいます。
☆ ですね。



★ 自分自身をコントロールするするのを「自我」というのでしょうが、人は「たった一言」で変わる人もいます。
☆ ええ。



☆ なお ささやかな精神分析批判です。

もし 《無意識なるリビドーが欲求し むさぼるほどになるのを超自我がいさめ これらの両者を自我がほどほどの内容へとコントロールする》といった図式を採るとしても・そのように言えたとしても すべては《わたし》の問題であり《わたし》が起こしている思いや振る舞いです。

《自我》が考える・・・のではありません。ましてや自我がご飯を食べたりそこらを歩いたりするのではないです。

自我が確立するといった表現があるのですが・そしてかなり馴染んでしまったようですがこれは 《わたしがわたしである》ところのわたしのことです。わたしのほかにわたしを制御する主体は ありません。別様に自我というお化けがいるのではないです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

頭が混乱しました。
難しいですわ。

お礼日時:2021/06/11 14:22

政界人も今思えば、小型化したかもね。



それだけに有事に対する備えを盤石な構想を描ける総理が出てくるかどうですが。

いくら、中国を口で叩いても、国力差は圧倒的に日本は破れたよ。

昔は、中国に戦後賠償やODAを送っていた、栄光の日本にも影が潜めてきたね。

人間の世界が無常の世界なのは、歴史がそれを証明しているし。

日本国憲法批判も高まるのだと思う。

戦争終結から八十年近く経過すれば、有事に対する的確な判断が可能な要人も減少したと思われて仕方がないであろうね。
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この回答へのお礼

こちらも感謝^^

お礼日時:2021/06/11 14:20

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