以前、堺市の某寺院に参りますと、徳川家康の墓と大書された墓がありました。寺の人に聞きますと、確か「家康様はここで、死なれた。その証拠にこの寺には、秀忠様、家光様が墓参にきたときの奉納がある」とか申されておりました。
 案内してくれた、堺の方自身は信じていなかった様です。私も、俄かに信じがたく、忘れていましたが、最近、気になりだしました。
 本能寺の変に逃亡する際か、冬の陣の時なのか?単なる豊臣びいきの大阪人の空想の賜物か?真偽の程はわかりませんが、何かロマンを感じ、歴史通の方、こういった説はあるのでしょうか?

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A 回答 (4件)

隆慶一郎のファンです。


この影武者徳川家康の話は元々は隆慶一郎が考え出した話ではありません。
昔から一部の歴史学者の間で噂になっていた話を隆慶一郎氏が小説として発表したものです。

詳しくは「世良田次郎三郎」で検索すると調べることができますよ。
ちなみにこの世良田次郎三郎が後の徳川家康になった人物といわれています。
隆慶一郎氏の小説では関が原の戦いの時に本物の家康が暗殺され、代わりに影武者だった世良田次郎三郎が家康役になったのだとされています。

家康と彼を取り巻く環境や人物達が何となく不自然とも思えることが実際にあるみたいで実は途中から影武者に代わっていたとすると辻褄があってくるようです。

質問者さんも一度この小説を読んでみてください。
なお、隆慶一郎作品ではこの他に少年ジャンプで有名になった前田慶次郎を描いた「一夢庵風流記」や、葉隠れの世界を描いた「死ぬことと見つけたり」等をお勧めします。
他の作家の歴史小説とは異なり非常に面白い作品が多いです。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。今まで、正史そのものは、勝者の歴史であること位は認識していましたが、珍説、異説はためにする議論のように誤解していましたが、それなりに考証の結果であることを再認識いたしました。本当に面白い作家のようでございますので、隆慶一郎氏の書物を今度、読んでみたいと存じます。誠にありがとうございました。

お礼日時:2005/02/27 14:01

隆慶一郎氏の小説は確かに面白い説です。

 しかしそれ以外にもいろいろあるとは知りませんでした。

しかしそれ以後の徳川政権の施策を見る限り、私は信じられません。 
確かに徳川政権の幕僚陣は優秀で団結していましたが、それだけで説明出来るとは思えないからです。
堺のお寺の墓標は関西人の豊臣びいきから来た願望から家康に死んで欲しかった現れではないでしょうか?
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。真偽の程は定かではないのでしょうが、もし、真実ならば、一体歴史とはなんでしょうね。私も俄かには、信じられませんが、皆様のご回答を見ますと、諸説あること自体、一片の真実もありうることを知りました。晩年の秀吉は好きではありませんが、関西人には、太閤さんとあと一歩まで家康を追い詰めた真田幸村への思いを強くもっている方が多いことも確かです。ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/27 13:55

堺市のお寺は南宗寺の事と思います。



家康死亡の説はいくつかあり、通説では元和二年(1616)に駿府にて胃癌が原因で死亡となっています。他には鯛のてんぷらを食べすぎて死亡した説や大坂夏の陣で討ち取られて死亡した説、また隆慶一郎氏の関ヶ原死亡説があります。

その中で関西地方には大坂夏の陣死亡説が江戸期から根強く残り、南宗寺の伝説もそのひとつです。

南宗寺の伝説は大坂方、真田幸村の猛攻にあい家康が女の輿に隠れて逃る最中、豊臣方の後藤又兵衛が怪しいと輿に槍を入れ、その時に傷を負い大久保彦左衛門の手当てむなしく死亡、南宗寺に葬った。(詳細はいろいろな説あり)と言うものです。
この伝説の後藤又兵衛は前日に戦死してますので本当?かどうか怪しいところがあります。

昔、見たTV番組、時空警察の家康替え玉説にも登場していたと思います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。そうです、確か南宋寺でした。もし、関が原にせよ、夏の陣にせよ、家康が死んでいたとしたら、その後、それを隠し通して、幕府開闢までもって行った家臣団の組織力はすごいものですね。また、徳川家康の墓と大書して憚らない寺の姿勢もまた、大阪らしくて、なんとなくユーモラスにも思えます。隆慶一郎氏の小説を手始めに、少し研究してみようかなという気になりました。重ねて、御礼申し上げます。

お礼日時:2005/02/27 14:10

昔少年ジャンプに連載していた。

影武者が家康の死後引き継いで天下統一するストーリでしたね
URLやっと見つけました。

参考URL:http://www.asahi-net.or.jp/~gp3m-andu/kage/kagem …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。隆慶一郎氏の歴史上の疑問から端を発した物語のようですね。あの時代は何があっても、不思議ではありませんが、「徳川家康の墓」と大書されているもので、今考えると、ユーモラスにも思えてきました。これを機会に同氏の作品でも少し、読んでみようかなという気が、年甲斐もなく出て参りました。庶民的でおおらかな作風の様ですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/02/26 23:49

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Q戦国武将の長男に不運な人が多いのは何故?

戦国武将の長男に不運な人が多いのは何故ですか?

例を挙げると…

織田信忠…本能寺の変で頓死
武田義信…信玄と対立して幽閉されて自害
徳川信康…内通を疑われて切腹
伊達秀宗…秀吉の人質だったため仙台藩を継げず
毛利隆元…若くして死去
長宗我部信親…戸次川合戦で戦死
真田信綱…長篠合戦で戦死

等 
他にも不運な長男は多々居ます
何故長男は不運な人が多いのでしょうか?

Aベストアンサー

azuki-7さん、こんにちは。


信忠と隆元は一応家督を継ぎましたから、別に問題はありません。秀宗は正室の子ではないので継承順位から家督は継げませんでした。信親、信綱は戦死ですから武士としては不幸な死に方ではありません。
義信と信康は今川と武田に内通したという疑惑から謀殺されたのですから、ここらが不幸な運命というところでしょうか?

つまり、後継者としての教育がたらなかったのかもしれませんね。危険を回避するためには自分の性格と注意力、側近の人たちの能力も必要ですから常に自分の身に危険が及ぶという警戒心が不足だったのかもしれません。

Q徳川家はどうして秀忠より家光の方が力があったのか?

素朴な疑問です、徳川家はどうして秀忠より家光の方が実験が強くて慶安の御触書や参勤交代、キリスト教の禁止などをできたのですか?
更に将軍になるまで家康に可愛がられていたとか
家康の死後は家光が日光東照宮を家康の墓として建造させたとか
乳母の春日局が家光の実力で乳母(育ての母、養母、教育係)として大奥を支配したとか
孫とはいえ息子の秀忠より孫の家光の方が可愛がられていたのですか?

Aベストアンサー

まず、家光が秀忠より力があったわけではありません。
秀忠の場合、家康が最後まで権力を維持していたため、秀忠が独自に力を発揮できる期間が少なかったことがあると思います。
また、秀忠ははじめから家康の後継者ではなかったこと、家康自体がはじめから天下人ではなかったことがあります。そのため、他の大名との関係が比較的に近かったことがあげられます。
それに対して、家光は祖父も父も将軍であり生まれたときから将軍家の嗣子でした。その上、祖父、父からよい近臣をそば近くにおいてもらい一緒に育ちました。
また、家光の治世は必然的に徳川3代の総まとめの時期であり家康や秀忠が出した決まりを整理していっております。
そういうところで、秀忠より家康が目立ち、権力もあったように感じるのでしょう。

Q長男なのに三郎?

 織田信秀の長男である信長や、
徳川家康の最初の妻である築山殿との第一子の信康は、
(長男なのに)三郎や御家督三郎と呼ばれていました。

 三郎という呼び名には、特別な意味があるのでしょうか?

Aベストアンサー

徳川(松平)家において三郎もしくは次郎三郎(二郎三郎とも)という仮名(けみょうー通称)と、竹千代という幼名は代々の当主の名乗りです。誰が最初かはっきりしないのですが、偶然三男、もしくは二男であった父の三男で、三郎・次郎三郎と称した人物が当主(家督)となり、嫡男(次期当主・家督)に、生まれ順に関係なく同じ通称を名乗らせたことが先例になり、受け継がれるようになります。ですからこのような場合の通称・幼名は次期家督(嫡男)、もしくは家督を示すことになります。
信康の場合、正室の子(嫡妻腹)で、最初の男子ですから、間違いなく嫡男ですから、幼名の竹千代、通称の三郎、次郎三郎を名乗っています。また、松平家(徳川家ではない)の当主=家督を継いでいるので、御家督三郎とも呼ばれます。
信長の場合も父信秀、祖父信定も三郎を通称としていますので、家督としての通称だと思われます(実際に三男だったとの説もあります)。なお、信長も信秀の正室土田御前の最初の男子です。

なお、通称と家督の関係について、近年朝倉宗滴と朝倉氏の家督に関する研究が進んでおり、ウィキペディアの朝倉宗滴の生誕の項に簡単に書いてありますので、参考にしてください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E5%80%89%E5%AE%97%E6%BB%B4

徳川(松平)家において三郎もしくは次郎三郎(二郎三郎とも)という仮名(けみょうー通称)と、竹千代という幼名は代々の当主の名乗りです。誰が最初かはっきりしないのですが、偶然三男、もしくは二男であった父の三男で、三郎・次郎三郎と称した人物が当主(家督)となり、嫡男(次期当主・家督)に、生まれ順に関係なく同じ通称を名乗らせたことが先例になり、受け継がれるようになります。ですからこのような場合の通称・幼名は次期家督(嫡男)、もしくは家督を示すことになります。
信康の場合、正室の子(...続きを読む

Q徳川秀忠の側室と徳川家光の正室について

徳川秀忠の子、保科正之の母の静ですがウイキペディアの徳川秀忠
のページでは側室としてかかれていますが、ウイキペディアの大奥の
ページの将軍の側室一覧では側室として記載されていません。
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個人的には静が保科正之が誕生前から誕生後も江戸城内に住んでいませんでしたし、
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(正室の江与には知れていたが諸大名には内密)であったため、側室
扱いではなかったと思います。

もう一つ質問ですが、
徳川家光の正室である鷹司孝子と家光の仲が険悪であったと言う記録が
あり(様々な書物)事実と思われますが、険悪な理由はなんだったのでしょうか?

Aベストアンサー

まず、側室については大奥にしかるべき部屋をもちお付きのものたちが配され公認されなければ、側室ではありません。質問者さんの解釈で良いと思います。

さて、家光の夫婦仲の悪さですが、普通は朝幕関係の緊張関係が影響してと考えるのが正論でしょう。

鎌倉以降、どんどん実権を奪われつずけた朝廷は豊臣政権下では大きく影響力を回復しました。しかし、徳川政権は家康が禁中並びに公家諸法度を制定するなど朝廷を縛る動きを強めます。二代秀忠は娘の和子を強引に後水尾帝に入内させたり、紫衣事件、春日の局の無位参内など朝廷の権威を失墜させ、後水尾帝を激怒させまくっています。そうした朝廷を代表してきている正室とうまくいかないのは当たり前田のクラッカーです(藤田まことさんのご冥福をお祈りします)。

しかし、本当のところはわかりません。家光はどうも性格異常のような気配がありますし、春日の局との関係は(変な意味でなく、変な意味もあるかもしんないが)ちと異常です。幼児期の親からの虐待からかどこか変です。そのへんが実は本当の理由かもしれません。

Q徳川家康の「狂気」と呼べる行動は何がありますか?

はじめまして。

織田信長には、比叡山の焼き討ちを行ったり、また家臣に対して癇癪を頻繁に起こしていたり、などなど、よくよく考えれば合理的なのかもしれませんが一見『狂気』と見受けられる行動がありますよね。
同様に秀吉に関しても、千利休に言いがかりをつけて切腹させたり、朝鮮と2度も戦争を行うなど、これもまた一見『狂気』と見受けられる行動があります。
(これらは狂気ではありません、などという解答を期待しているわけではないので前置きとして・・・)

さて、同時代を生きたもう一人の覇者の家康はこのようなエピソード(史実でも逸話でも構いません)はあるのでしょうか?
『狂気』の判断は主観で結構ですので、教えていただけたら幸いです。

Aベストアンサー

狂気と言えるかどうかは知りませんが、
関ヶ原の五分五分の戦いで小早川秀秋は迷っていた。石田三成から矢のような催促が来るけど動かなかった。で、家康は何を思ったか、小早川軍に向かって突撃させた。
すると小早川はびびって逆に三成軍めがけて攻め込み、それがきっかけで三成軍は総崩れとなった。まあ尋常でない決断で、運が良かったとしか言いようがないです。

Q織田信長と豊臣秀吉と徳川家康。

 江戸幕府を開き長年国内の統治に成功した徳川家康ですが、彼はどうして幕府を開き、政治を安定させる事ができたんでしょうか?。
 その前に織田信長と豊臣秀吉は全国を実質的に統治できましたが、どうして幕府を開いて、政府を作り全国を長年に統治できなかったんでしょうか?。
 そもそも、幕府って何ですか?。朝廷から任命されるんでしょうか?。
 

Aベストアンサー

本来、幕府とは将軍(征夷大将軍を含む)の居場所を指す言葉でした

それから転じて、征夷大将軍の政権機構を幕府と言うようになったのです

将軍は、天皇から将軍宣下を受けて、将軍となったのです
他の回答にもあるように令外の官です、令外の官とは律令に規定されていない役を称します、また、臨時に置かれる官で、その任務が終われれば解かれました

平安時代の征夷大将軍からの歴史を紐解いてください

このようなことは、歴史の経緯が判らなくて、その部分だけを抜き出したのでは全く理解することが出来ません

いろいろな事象は、突然起こるのではなく、歴史の流れの中のわずかなうねり、それがだんだんに大きくなって、あるとき、突然大きな事象となって現れます

ある瞬間を見るのではなく、流れで見ることを心がけてください

Q現代で切腹をすると自殺?

素朴な疑問です。

昔は切腹をすると「切腹」じゃないですか。でも現代で切腹をしたとすると、「切腹」で記録はされずに「自殺」になってしまうんでしょうか?それとも「切腹自殺」?
多分「自殺」だと思うんですが・・・。
回答お待ちしてます!

Aベストアンサー

現代で人が変死した場合、殺人か自殺かの判断は司法解剖の結果決定します。
切腹して自殺した場合は、割腹自殺あるいは屠腹自殺でしょう。  単に「自殺」では迫力に欠けますから。
三島由紀夫事件では割腹自殺と報道されました。
この場合では同志の人が介錯し斬首したようです。

Q天皇陛下は家康・信長・豊臣家の子孫?

ニコニコ動画には、「天皇陛下の御先祖様を16代前まで遡ってみた」
というのがあって、それによると現在の皇室は、織田信長・徳川家康・
豊臣秀吉(の母)の子孫であるとの事だそうです。
だとすれば、現代の皇室は日本史オールスターですね。

残念ながら、どういうわけか私はこの動画を見る事が出来ないんですが
皇室が上記の人物の子孫だというのは、どういう流れになるんでしょうか?

http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4182383.html
ちなみに天皇が徳川家康の子孫という部分はちょっと違うという
指摘があるようです。(他のルートで繋がっている可能性は大ですが)

Aベストアンサー

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信通」に嫁ぎます。
そして次の第五代臼井藩藩主になる「稲葉知通」を産みます。
その「稲葉知通」の子「稲葉恒通」が臼杵藩第六代藩主になります。
その「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になったのが徳川家康の血筋の女性です。

ここで、ちょっと話を置いて、徳川家康に行きますが・・・
徳川家康の次男に「結城秀康」という人がいまして福井藩藩主となります。
この人も子供がたくさんいまして、その六男「松平直良」が大本藩藩主となります。
その「松平直良」の三男「松平直明」の娘が、臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」の正室(お嫁さん)になりました。

そして臼杵藩第六代藩主「稲葉恒通」と、その正室(お嫁さん)の間に娘が産まれます。
つまり、ここで「信長」と「家康」の両方の血をひく子供ができたわけです。
この娘さんが、公家の勧修寺家の当主「勧修寺顕道」に嫁ぎます。
そして跡継ぎの「勧修寺経逸」を産みます。
その「勧修寺経逸」の娘「勧修寺ただ子」が、第119代天皇である光格天皇に女官として仕え、後に光格天皇の子供を産みます。
その子供が第120代天皇になった仁考天皇です。
ここで「徳川」「織田」の血が天皇家に入りました。
そして第121代の考明天皇、第122代の明治天皇、第123代の大正天皇、第124代の昭和天皇、そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。


豊臣家の場合は・・・
秀吉には、「日秀」という実姉がいました。
この「日秀」が結婚し「秀勝」という子供が産まれます。
この「秀勝」を秀吉が養子にしたりしますが、それは置いておいて・・・
その「秀勝」が結婚し娘が産まれます。
この娘「完子」が公家の名門「九条家」に嫁ぎ、その跡継ぎを産みます。
そして時は流れて・・・
第123代天皇の大正天皇に九条家の娘さんが嫁ぎます。
そして第124代の天皇となる昭和天皇が産まれました。
つまり、ここで「秀吉」の姉の血が天皇家に入りました。
そして現在の天皇陛下へと血は繋がっていきます。メデタシ、メデタシ。

「織田」と「徳川」なら探せば他にも繋がってるルートが複数あると思います。はい。

血は流れていますね。
大名と公家は色々と婚姻関係を結びますので、その関係で色々と有名な人の血が流れたりします。
だから色々なルートで繋がったりします。
そのニコニコ動画とやらは見ていないので知りませんが、以下のようなルートで繋がってたりもしてます。

まず織田信長ですが・・・
信長の次男「信雄」という人がいまして戦国時代を生き延び5万石の大名となります。
その「信雄」には子供がたくさんいまして、その四男「信良」は小幡藩藩主となります。
その「信良」の娘が、臼杵藩第四代藩主の「稲葉信...続きを読む

Q江戸時代の切腹:本当に切るの切らないのか誰が決める。

 江戸時代の切腹は、江戸初期では実際にお腹を切っていましたが、江戸中期になると刀や扇子を腹に当てるだけで介錯人が首を落としてお腹は切らないのが一般的だったと聞きました。江戸末期になると、またちゃんとお腹を切る切腹が一般化した様で、堺事件や神戸事件の時など、外国人の前で立派にお腹を切っています。
 そこで質問ですが、切腹が行なわれる際に(ただし、自分で勝手に切腹する場合ではなく、藩など、上から申し付けられての切腹の儀式での場合で)、実際にどれ位お腹を切るか、切らせるかは、誰が決めるのでしょうか。切腹を申し付けた方が、または切腹人を預かった方が、切腹の儀式の段取りの中で、決めてしまったのでしょうか。あるいは、切腹する人が、「見苦しくないよう、早めに首切って。」とか、「せめて最後は武士らしく死にたいので、介錯はぎりぎりまで待って。」などの指定が出来たのでしょうか。

Aベストアンサー

こんにちは。
切腹の作法は、切腹する人本人の意思、というか、家によっては作法が伝わってたりしますので、それが尊重されたようです。
例えば介錯を立てない自刀式の切腹もありますけど、本人が望めばそういうのもOKだったみたいです。
実際は、江戸時代になると平和な時代が続き、自分でお腹を切るのが怖くて・・・って人が殆どだったと思われます。
また、切腹する人を受け入れる家で気を利かして扇子腹(本当に切らないやつ)で準備してあげたりする事も多かったようですが、本人が望めば実際に切る事は出来たようです。

ただ、しきたりとして、切腹に承服できない場合、そこにいる介錯人と検分役に勝負を挑み切り倒してしまえば放免?というのがあったらしいので、本当に切るのを望まれた場合は、検分役も断るわけにもいかず、相当緊張したでしょうね。

切腹はなんでもかんでもお腹を刺して切ればいい、というのではなく、最後を形式美で美しく飾る、という非常に重要なポイントがあるのですが、これを全く知らず、憤怒に刈られて滅茶苦茶な切腹をして失敗した人が三島由紀夫です。

つまり、お腹に深く刀を刺してしまうと、腰や膝の関節が伸びて、状態が上がってしまい、前のめりに立ち上がって倒れる、という現象が起こるのは古くから知られていました。
その為、お腹はせいぜい腹筋程度までしか刺さず、座ったままで介錯を受けるのが介錯をつける場合の作法なのですが、三島さんはこれを知らずに内臓に達するまで深く刺してしまい、立ち上がりかけた為、苦しむ時間を減らしてあげようと介錯の人がほぼ同時に振り下ろした刀が肩口に当たってしまいました。
動揺した介錯人は3回太刀を振るっても首を落とせなかったらしいです。

ご質問最後の点は、そういうお願いは出来たし、受け入れられたようです。
ただ、最終的には介錯の人の腕と経験と意識によったでしょう。

こんにちは。
切腹の作法は、切腹する人本人の意思、というか、家によっては作法が伝わってたりしますので、それが尊重されたようです。
例えば介錯を立てない自刀式の切腹もありますけど、本人が望めばそういうのもOKだったみたいです。
実際は、江戸時代になると平和な時代が続き、自分でお腹を切るのが怖くて・・・って人が殆どだったと思われます。
また、切腹する人を受け入れる家で気を利かして扇子腹(本当に切らないやつ)で準備してあげたりする事も多かったようですが、本人が望めば実際に切る事...続きを読む

Q寺や社の奉納物について

千葉県松戸市にある雷電神社、松戸神社やその他周辺の寺社などの奉納物について調べたいのですが、何か参考資料になる書籍(題名・作者・出版社)を教えて下さい。
どうぞ宜しくお願いします。

Aベストアンサー

はじめまして。
まだまだ未熟ですが、私はこの夏、神社について調べたので、そのとき使った参考資料を参考までに。

・神道いろは 神社とまつりの基礎知識
 神社本庁教学研究所/監修  神社新報社 価格 ¥1,575
こちらの本は、「神道について」ですが、神社についての簡単な基礎知識があります。
参考に、下に神社本庁のURLを記入しておきました。見る価値はあると思いますよ。

他の書籍は、どうやら「神様」についての記述がほとんどでしたので、省略させてください。

地元の図書館などの「神道」コーナー、または「図鑑」のコーナーに行くと、
何かよい資料に出会えるかもしれませんよ。

あまり期待に答えられるような回答ではなくて申し訳ありません。

参考URL:http://www.jinjahoncho.or.jp/


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