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藩士は藩庁でしか勤務せず、町村などの地方の末端組織の統治に直接関与しなかったのは何故でしょうか?
町村を取り締まって実質支配するのが大庄屋などの有力平民では、いずれ彼らが束になって武士に階級闘争を仕掛ける恐れがあったのではないでしょうか?
少数派の武士が支配階級としての座を多数派の平民階級に脅かされなかったのは何故なのか不思議です。
推測で構わないので、ご意見いただけると幸いです

A 回答 (3件)

>藩士は藩庁でしか勤務せず、町村などの地方の末端組織の統治に直接関与しなかったのは何故でしょうか?



日本では土地が農民の所有物だったからです。
日本の武家政権は自分達の土地は持っていましたが、農民の土地を支配することは無く、あるのは「徴税権」だけでした。

だから農民の土地が集まる集落は「農民が自治を行う場所」であり、藩は「納税のための行動」と「藩内の警察権」しか担っていませんでした。

農民の自治には「徴税代行権」も含まれていて、だから庄屋などは藩の役人としても機能します。

農民にとって戦争は邪魔なものでしかありません。戦国時代でも基本的には農民の土地は保護され、収税する領主が変わっただけですから、自分の土地を保障してくれるなら藩主が誰でも構わないし、普通の農民にとっては「子々孫々暮らせるだけの農地があればそれでいい」わけです。

だから農民が武士に階級闘争を仕掛けるメリットはほとんどありません。例外なのが一揆ですが、たとえば百姓たちが藩の統治権を得た加賀一揆は武士と農民の対立というより、武家が宗派を利用しようとしたことによる宗教戦争の側面が強いです。

欧米などは、国の土地は王の所有物で、その支配権と徴税権を得た貴族を領主と呼びます。領主に与えられた土地は領主の物ですから、管理のために地域の各所に役所を作ります(実際は教会に代行させたり、部下の家を各地に配置して役所代わりにしたりもしました)

土地の所有権の違いが、日本では「農民自治」を産んだといえます。
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> 町村を取り締まって実質支配するのが大庄屋などの有力平民では、いずれ彼らが束になって武士に階級闘争を仕掛ける恐れがあったのではないでしょうか?



「階級闘争」という言葉が、19世紀までに存在していたことはないと思います。 
「階級闘争」という言葉に限定せずに、広く階層や上下、貧富、強弱の「社会内の相対差がある属性をもつものの暴力的対抗抗争」というようなことを考えるのであれば、そうした「暴力的対抗抗争」が起きるのはとても珍しいことで、飢饉などが起きた場合にほぼ限られるのが現実です。
世界でみても、大量の奴隷労働者を小数の人がもつ社会、ギリシャローマでも、網元や船主が地域を実質支配する社会でも、カウボーイを牛の陸送に使う社会でも、商家が大量の使用人を使う状態でも、その社会の内部で相対的経済地位・社会的地位が固定している状態のママで、安定継続するのが大原理です。
(下位に位置づけられ、その社会集団内で軽い扱いしか受けられない状態が破れない)と不満を持つ人も出現はするでしょうが、(下位に位置づけられ、その社会集団内で軽い扱いしか受けられない状態)で安定を感じる人の方が、人数的に圧倒的に多いのです。
子供が親に、生徒が先生や指導者に、庶民が権力者に、そのように対応する方が常態なのです。
だから、基本的には、強い武力で抑え込む態勢を保持誇示する必要はほとんどないのです。 むしろ、権威財や威儀、住居、持ち物、姿勢、態度などで、「格の違い」を示すことが、権威の安定性、支配体制の安定性を高めることが多いのです。 
身分制ということ、身分制などによる住居や服装に対する規制を「法度」として厳格化するだけで、支配体制は安定化します。 秩序というのはそういうことです。

戦国期のように、下剋上というか、うまく立ち回り・強いモノ・目端が利くものが有利になり、知恵やパワーのないもの決断力・行動力に乏しいものが落ちて行くとなると、つまり、実力主義・メリトクラシーの世の中になると、「~~の後継者・子孫・一族」というだけでは負ける危険を避けられない、「~~の後継者・子孫・一族」であっても勝ち上がれる可能性はあるのですから、あちこちで、諍い・抗争・紛争が起き、徒党を組む・裏切る・抑圧する行動も盛んに起きます。
で、経験的にそれを知っているから、権力を握ることができたものは、安定体制を築くために、地位・役職・威儀の体制を構築することに、武力強化・戦闘力強化以上の意を払うのです。
徳川政権の重鎮も軽輩も、法度や地位・役職・威儀の体制を構築することに熱心でも、戦闘力・動員体制の整備強化には熱心ではなくて、それで十分なのです。
昭和の時代に、徴兵制を強化して、物資供出を強く求めても、武力抗争が起きないのは、軍や警察の武力を恐れていたからではないです。
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庄屋の上に代官(いちおう武士階級)がいます。


武士はいざって時の戦闘担当、秀吉の刀狩りで、平民との戦力差が大きくなりました。少数でも支配者階級としては充分。
今の料亭政治と同じく、情報交換が重要。そのためにお城に通う必要があった。平民相手の町奉行も、実際は午前中は江戸城出仕だったとか。奉行本来の仕事、裁判は午後から。いかに当時、犯罪が少なかったか、わかる。
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この回答へのお礼

なるほど、、、
回答ありがとうございます。
武力の有無が支配者と被支配者を完全に振り分けたのですね。
太閤殿のした事はすごい事だったんですね。

お礼日時:2021/06/12 19:30

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