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徳川家康は豊臣秀吉に主従を誓うと約18年間、本当に真面目に補佐しています。血のにじむ思いで手に入れた豊かな東海地方から、当時、何もなかった只の田舎の江戸に国替えさせられても黙って従い、一から町造りをし
ています。節制と薬には気を付けていた様ですけど、当時の医学では治せない病気で自分の方が先に死ぬかもしれないのに、結果的には思い通りになり(秀吉が死んだら家康から見たら小僧扱い)豊臣家を完全に滅ぼし徳川幕府を完成させて、すぐに死にました。腹の中は「秀吉、あんたが死んだら全て奪ってやる」と思っていたと思います。その間の家康の、心中を、どう思われますか?「自分が、先に死んだら、しゃあない❗」としか考えてなかったのでしょうか?そんな性格には見えませんけど?

A 回答 (5件)

そんな、ちまちましたこと考えていません。

戦のない社会、安定した社会をどうすれば出来るかを考えていただけですよ。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。それじゃ何故、
小牧,長久手の為戦いをしたんでしょうか?しかも勝って います。秀吉の政治工作で休戦になりますけど?

お礼日時:2021/06/13 21:45

まず、秀吉が体調を崩すまで秀吉の死など誰にも予測できなかった。


秀吉自身にも予測できなかった。
だから「秀次自死」という、後継者を自ら失わせるという失態を犯したのである。

次に、戦国に覇を唱えた武将なら、一人の例外もなく
「自分の国を守りたい」
というのが動機だった。
そのために他国と同盟を結び、大勢力の保護下に入り、時には本国を守るために隣国を侵食する。
それが戦国というものであり、だれもが天下を目指したわけではなかった。
信長も、最初から天下統一を目指したわけではない。
朝廷と将軍から天下静謐を依頼され実行したが、この場合の天下とは近畿のことだった。
だから京と近畿を平定した。
そして近畿を守るためさらに周辺領域に支配の手を広げていった。

家康もその一人である。
彼にとって守るのは自分であり自分の家臣団であり自分の国だった。
小牧長久手のあとの家康は、戦禍と災害のため国はボロボロだった。
秀吉にあと一押しされていたら、家康は終わっていた。
なぜ秀吉がその一押しをしなかったのか、それはまだ十分に分からない。
わかるのは、家康はもはや秀吉傘下でなければ生きていけなかった、ということである。
そのくらい差がついてしまっていた。

そんな中で「いつか見ていろ」などとはふつう思えない。
豊臣政権の中で居場所を失わないのが精いっぱいである。
秀吉ほどの才能なら、下心はすぐ見抜く。
文字通り誠心誠意豊臣政権に仕えたのである。

もし三成との確執がなかったら、家康の暴走もなかったかもしれない。
反三成勢力があったから、家康も勢力を作れたのである。
一たび政争が起これば、何が何でも勝たなければならない。
選挙などない時代である。
政争に敗れれば処刑されるか追放である。
家康自身、政争によって子の信康を誅殺し、家老の数正を出奔させている。
同じ目に逢いたくなければ、三成に勝つしかなかった。

そのあとの豊臣政権簒奪のいきさつは、納得できる資料がないため俺自身よくわからない。

ちなみに、家康は関東に追放されたのではない。
もともと信長との同盟時代から、家康は東国の諸大名との交渉があった。
豊臣政権傘下に入っても、北条氏との折衝は家康に任された。
経験と人脈を買われたのである。
関東平定の次は欧州仕置である。
家康の人脈は奥州の大名にもあった。
奥州仕置のために彼は関東に移封されたのである。
奥州仕置のあとはさらに奥羽への国替えも予定されていたらしい。
しかし諸大名が早々に秀吉傘下に入ったため、その必要はなくなった。

もう一つちなみに、
秀吉は、家康の関東移封のおり、下総を里見氏から取り上げ家康に与えている。
下総は江戸湾の制海権を制する。
その江戸湾には鎌倉があり、秀吉の関東政庁が置かれていた。
秀吉は自分を守る者として里見氏でなく家康を選んだのである。
「今に見ていろ」という奴を秀吉が信頼するはずがない。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。しかし家康は秀吉の上洛命令に、凄く値打ちこいています。人たらしの天才、秀吉は自分の妹を離縁させて、正妻に嫁がせ(事実上、逆人質)それでも来ない家康に母親まで、見舞いと称して送っています。(これも逆人質)秀吉は、他の武将たちに「家康殿まで臣下に入られたか」とどうしても思わせる必要があるからです。並みの人間ならキレて戦で決着つけると思いますけど?

お礼日時:2021/06/13 21:41

えっ?秀吉が仕掛けた方でしょう、仕掛けられたら闘うしかないでしょう。

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この回答へのお礼

織田信雄が秀吉が織田政権を簒奪しょうと思っているのが、やっと分かり家康に庇護を求めたのです。秀吉は、野戦の名人、家康とは戦いたくなかったのですけど部下が功名に目がくらみ先ばしって、案の定、負けたのです。秀吉は、それ以上、戦を長引かせず信雄を甘言をもって偽りの懐柔をし和睦したのです。(信雄は、相当、マヌケ。だから生き残ったともいえますけど)信雄と秀吉が和睦したら家康は戦う理由が失くなります。

お礼日時:2021/06/14 07:00

その間の家康の、心中を、どう思われますか?


 ↑
死んでたまるか。
絶対に生き抜いてやる。
秀吉が死ぬまで、俺は死なないぞ。

そう考えていたと思います。

だからこそ、あれだけ医学に傾注した
のです。

薬だって、自分で調合しています。

俗に、ブス好き、なんて言われていますが、
あれは病気が怖かったからじゃ
ないですかね。

安全な女子にしか手を出さなかった。
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お礼返


ありがとうございます。
歴史をよみとく上で、私憤的なことをどうこういうよりも、長期に平和の社会を築くにはという壮大なビジョンがあると思っていましたが、政権をひっくり返してやる秀吉憎しという強い意欲も必要なことが分かりました。
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