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イザベラ・バードの日本奥地紀行を読むと、バードが、日本の学校見学したさいに、学校の教師が
「英国の学校に見られる余分な課題を課する風習には賛成できません」とバードに話す場面が出て来ました。
余分な課題というのは宿題のことかな?と思いましたが、
その後の記述で帰宅した生徒たちが家で予習課題をやる場面が出て来たから、宿題のことでは無いだろうと見当つけました。
そうすると余分な課題というのは部活動やクラブ活動のことかな?とも思いましたがどうなんでしょうか?
19世紀の英国のパブリックスクールでは当時クラブ活動や部活動は導入されていたとWikipediaには書いてありますが、日本の事情はちょっとよく分かりません。
分かる人いましたら教えてください。

A 回答 (1件)

イザベラ・バードの『日本奥地紀行』は1878年6月~9月にかけての日本旅行の記録です。

旅の目的は当時の日本を旅することで日本の実相について知り、記録することと、日本においてキリスト教の普及が可能かどうかを探ることにありました。ですから、イザベラ・バードはキリスト教伝道と結びつく場所を拠点として旅をしていたのです。

キリスト教布教の可能性を探っていた彼女は、当然、日本の知識階級と話すときにも、それに関連した話題を選んでいたと考えられます。学校教師と話す場合には宗教教育のことが念頭にあったはずで、関連した話題を仄めかして相手の反応を引き出していたと思われます。

当時の日本側の事情からすれば、「余分な課題」とはキリスト教の宗教教育やスポーツ活動と考えられます。イギリスのパブリック・スクールには礼拝堂が設置されていて、生徒たちは日曜礼拝に参加する習慣でした。パブリック・スクールの教育目標はクリスチャン・ジェントルマン(キリスト教徒の紳士)を養成することにあったからです。そしてジェントルマンの育成にスポーツは不可欠と考えられていたので、パブリック・スクールでは伝統的にスポーツが課外活動として活発に行われており、19世紀になってからは正課とされています。つまり礼拝とスポーツがパブリック・スクールの伝統的風習だったのです。

これに対して明治初期の日本における学制は洋学中心の知育偏重であり、教育の目的は国のために役立つ人材を育成することにありました。1878年時点では「体術」という名前の体操科目が正課にありましたが、内容は徒手体操のみで、事実上ラジオ体操レベルのことだけでした。競技としてのスポーツは正課に取り入れられていませんし、課外活動としてもありません。

もう少し時代が後になった1886年になって東京帝国大学に漕艇部(ボート部)ができています。この頃から大学生を中心にスポーツのクラブ活動が行われるようになり、20世紀になると早慶戦なども始まります。大正・昭和期にはスポーツのクラブ活動は高校にも広まり、軍事と結びつくようになっていきますが、イザベラ・バードが旅をしていた頃には、まだスポーツを中心とするクラブ活動は日本で行われていません。
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