【iOS版アプリ】不具合のお知らせ

そもそも哲学カテを意識して質問してるのではなく、結果的に、AIが自動的に選び出したカテゴリーが哲学なのでこのカテに投稿してます。

そして、そもそも哲学とは何ぞや!?という基本に返りました。
というのも哲学の祖である方々の名前は知ってはいるものの、体型的に学んだこともなく面白そうだなと感じました^^

そしてググりました。
●:物事を疑うことから哲学が始まる
●:常識を超えて本質を問い続けるのが哲学
●:哲学は思考を鍛え、問題解決力を高める

3つ目は意識してませんが、前の2つは昔から自然とやってました^^

考えることに意味があるのが哲学という認識でよろしいでしょうか?(あーなんて雑な質問)

A 回答 (13件中1~10件)

Σ(゜Д゜)名言きた~



ならなら、付け足しでね
考えることに意義を見出だすのが哲学なのかも?


哲学とは、物事の捉え方を可能な限り増やしてくれる分野だけど
可能性ては話になると人の数だけ可能性はありそうですもんね

人それぞれに考えて意義を見いだすべきなんだけど

なぜか意義を見出だすのは面倒だから
既存の価値観に流されてしまうのは

拝金主義や権威主義など現代の特徴ですもんね

勝ち組や負け組なんてな考え方も
個人の価値観であるべきはなしだけど

既存の価値観に流されて
自分自身の哲学を持つのが面倒なのか
哲学をもつこと事態、意味嫌われたりしますもんね

個人の在り方を徹底的に考えて
個人的な哲学を持つことが、考えることに意義を持たせてくれますもんね
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

個人のあり方かぁ。
確かにそうですね。

>既存の価値観に流されて自分自身の哲学を持つのが面倒なのか
哲学をもつこと事態、意味嫌われたりしますもんね

→そう。既存の価値観に囚われるのは愚かだと思ってます。
もっともそれを論破する根拠が無いと相手にされませんが。

お礼日時:2021/07/01 17:01

想いがぬけた(/。

\)連投

相手にされなければ
個人としての在り方が社会的に相手にされないだけであって

社会的に相手をされるために哲学で考えてる訳じゃないですもんね

社会的に相手をされたい人は
既存の価値路線を考え抜いて、立ち振舞い、そこから自己の在り方なんかを確立させますもんね

(  ̄▽ ̄)にっこり
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます(^^)

お礼日時:2021/07/02 15:39

既存の価値路線を論破する必要性がある!



( ̄~ ̄;)ここらはどうかなぁ~

論破しないと、相手にされなくなる

相手にされないくらいなら、思想家や革命家・運動家じゃないですもんね




マルコムXの生い立ち話で
善意からマルコムXを論破してしまった先生の話が強烈でね

論破するってことは、他人の人生をかえてしまうことでもあって

他人の人生をかえてしまうほどの力って言葉にはありますもんね

既存の価値と戦い抜いたマルコムXの話は、個人の在り方ってものを凄く考えさせられてしまいますよ

お暇な時にでも観て貰えたらさいわいです

解りやすく解説してるから、ついついお勧めしちゃってますよ
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます
観てみます^^

お礼日時:2021/07/02 15:34

オマケ


欧米の科学者とチベット仏教最高位ダライ・ラマ14世と会談し近代科学と仏教科学(仏教哲学)とで意見の交換をしています 
これはミクロにおける物理を理解する上で仏教科学(仏教哲学)が参考になると言う事です
因みに西洋哲学の限界。それは二元論・二極論です
二元論・ニ極論では「無」であるエネルギーと「有」である物質が等しい事を説明出来ません
物理の根源では「無(エネルギー)」は「有(物質)」であり「有(物質)」は「無(エネルギー)」であるのです
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます。
なるほど。。。
仏教哲学も興味深いですね^^

お礼日時:2021/07/02 15:33

みんなが幸せになるために考えるのです



不条理に叩きのめされぬように考えるのです

この世が永遠に向かうのか 滅び消えるのか考えるのです。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

みんなが幸せ、、、難しいですね。

多分、これって人類の究極的な課題と思われます。

お礼日時:2021/07/01 22:16

あらゆる学問は、自由に束縛されない状態で「考え抜く」ものだと思います。

別に哲学に限った話ではありません。

またすべての学問が「哲学」に発しているというギリシャ哲学的に観るならば、考え抜くことが上記のすべての学問に通じているのも当然かと思われます。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

考え抜く。。。
なるほど。
確かに。

お礼日時:2021/07/01 22:15

考えることに意味があるのが


哲学という認識でよろしいでしょうか?
 ↑
そうなのですが、
それでは、何のタメに
考えるのか、という疑問が発生します。

真実を発見するために、考える
ことが哲学だ、とする見解があります。

しかし、真実発見なら、科学の方がはるかに
優れています。



結局、哲学てのは、人生の指針、
つまり人間いかに生きるべきか
を考えることだと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

真実発見=科学。
確かにそうですね。

>結局、哲学てのは、人生の指針、
つまり人間いかに生きるべきか
を考えることだと思います。

なるほど。深いです。
そう。私も常々、人間はなんで生きているのか?
いかに生きるのか考えたことがあります。

結婚して子育ては王道ですが、
先進国に産まれて色々と余暇(仕事以外の時間)が与えられた私達は
何か、使命みたいなものがあるのではないか?と考えることがあります。

目の前の快楽に溺れ、例えばテレビや遊びで時間を潰すのも良いのでしょうが、なんか違うなと感じてるのです。

確かにあれらの娯楽はある一定の快楽を感じさせますが、なんか違和感を覚えるのです。

お礼日時:2021/07/01 17:04

23-a. わが自然本性の生きた明かしである《きよらかなおそれ》は 既存の風潮やこれを保守する勢力の前に じつは 無力となる。

理論として基本として有効だが 無力となる。仮象と化して無力だが なお有効である。生きている。

24-a. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなおそれ》のゆくえは?


25-a. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を失わないならば 観念のブルドーザーのごとき世間なるチカラに対して これを精神の胃袋では消化しつつ おのおのの志とともに引き受ける。言わば泥をかぶる。ふつうは いやいやながら 《アース役》となる。
《ガミガミ役》も 誰かに対してはアース役となっている。

26-a. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。あたらしく大いなる哲学の実践が始まる。





27. 世間という社会力学は シガラミのようである。あるいは ジャングルである。――しかも あたかも随神の道なるきよらかなおそれという哲学は この密林を拓きゆくちからに満ち満ちている。


28. シガラミは 有力だが無効である。哲学は無力だが 有効だ。 

29. シガラミは ゴミである。しかも しばしば社会力学じょうの栄誉を着せてもらいその地位にあって身を飾り立てている。アース役は このごみを呑み込みつつ 浄化再生処理をしていくということ。

30. これが 名も無い一介の市民の完全に成虫した(つまり さとりを得た)蝶としての社会的使命である。究極の哲学だ。



31. 敢えて言えば そのときの《武器》は 《きよらかなおそれ》である。根拠は 無い。

32. 初期条件はただヒトに生まれて来たというだけの無条件の情況である。その中で哲学は 無根拠なる根拠において ごみ処理工場と成る。

33. きれいな酸素をも供給するらしい。
 
34. 義(オシヘ)無きを以って義としているらしい。(もっとも このことは 《無住処涅槃》なる概念として・あるいは《本覚思想》として すでに打ち出されているようであるらしい)。

34. ひとびとよ おのがさとりを得よと。

35. ○ ・・・なびけこの山

36. ○ ひむかしの のにかぎろひの たつみえて かへりみすれば つきかたぶきぬ
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この回答へのお礼

度々ありがとうございます
感謝です^^

お礼日時:2021/07/01 17:01

オマケです


ニールス・ボーアらは電子顕微鏡で極小(ミクロ)の世界の物質の特異な振る舞いを研究してそれまでの物理理論では説明できない事から新たな物理理論を構築しました。それが「量子論」です。
このニールス・ボーアは別の回答者さんの回答に記述されているボーアです
ボーアら量子物理の研究者らは電子顕微鏡を用いて得られた知見がなんと電子顕微鏡が開発される遥か前の時代から伝わっていた「東洋哲学」ですでに知られていた事実に驚くとともに馴れしたんでいた西洋哲学から東洋哲学へと傾倒したのです
このことは本質を追求していたはずの西洋哲学が本質にたどり着く遙か前で止まってしまっていた事を示す事でした
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
面白いですね。

東洋哲学の方が進んでいたと。
どちらも興味深いですね!

お礼日時:2021/07/01 16:59

1. 哲学は フィロソフィアを哲学と翻案したときから 《生きること》を意味するようになりました。

と強引に規定したいと思います。

 
2. したがって:
●:物事を疑うことから哲学が始まる
☆ に代えて こう言いかえます。《世界にある自分を――ものごころがついて――認識する前から その自覚のないままにも人は 生きているからには 哲学して来ている》と。

3. たとえば 赤子が母親にあまえる。この甘えが 哲学です。

4. つまり なんの考えも計らいもなく全面的に身をゆだねすでに心をもゆだねているかのように世界を生きている。という哲学。

5. これは 《聖なる甘え〔という生き方〕》なる哲学だ。




6. むろん 誰しも ものごころが着いて来ます。《考えもハカラヒもなく》というのは おこないがたく成ります。あるいは ウソをつくことをも知るという社会的動物たることの洗礼を受けるようになります。

7. では このとき聖なるあまえは どうなるか?

8. 幼虫がさなぎになる聖なるあまえは きよらかなおそれへと変態する。




9. きよらかなおそれという哲学は じつは 幼虫ないし赤子における聖なるあまえ状態とほぼ同じだと言いたいのですが むろん《ものごころがついた》という意味での変態を経て 違いが出て来ます。

10. けれどもそれでも 後の段階で――ヒトに生まれつきそなわった自然本性に変わりはないと見るかぎりで―― 《聖なる甘え》と同じ哲学だと言いたいためにこそ しかも言葉を変えて《きよらかなおそれを抱く状態》と呼びます。


11. すなわち 聖なるあまえは 母親への本能的な寄りすがりであると
き その同じ自然本性の成すハタラキにおいてなのであるが こんどは 母
親なる存在を超えてナゾの何ものかへのおそれ――このようなおそれに その《身と心とのゆだね(あまえ)》を置きかえるようになる。




12. 言いかえると 聖なる甘えのときは きよらかなおそれすら――お
それすらを――まだ持てない状態であった。

13. このきよらかなおそれは 確かにナゾの何ものかに対するものなの
であるが その同じ内容が――ナゾの何ものかをあたかも忘れてのように―― 主観の内面における具体的な思惟や意思決定において〔おそれとして〕現われる。

14. どういうことか? ――これは さなぎからすでに成虫へとさらなる変態をとげつつあるときに起こるものであるが まだ さなぎ段階のこととして捉えてみよう。

15. ウソをつくとき・イツハリをはたらくとき 心は胸が変に高鳴り身
も顔を赤らめ言葉はしどろもどろになる。《やましさ反応》が出る。やまし
さを 理性で受けとめるときには 《恥ぢ・恥づかしさ》である。

16. つまり このヤマシサ反応が きよらかなおそれのことである。良
心のハタラキだとも言える。




17. ●:常識を超えて本質を問い続けるのが哲学
☆ だということで かなり飛躍した常識破りを強引に敢行してきましたが 何のことはない。つまり要するに おのれがみづからの心を省みずヘソを曲げるときに起きる《おそれ・やましさ・恥づかしさ》を 生き方である哲学として積極的に提起するのである。

18. 《聖なる甘え》と同じひとつの道程だと言いたい。ヤマシサ反応をないがしろにせず 恥ぢを知り きよらかなおそれを抱く姿勢は 《常識を超えて本質を問い続ける》道ではないか。




19. われわれの主観はそれぞれつねに この・へそ曲がり(つまりウソ・イツハリ)を仕出かし そのつど軌道修正しわれに還り また脱線したり道草を食ったりして 《わたしがわたしである》道をあゆむ。

20. 重ねて言って《恥づかしさ》を 何ものかナゾなる存在に対するおそれと感じ これを聖なるあまえを継ぐものと見て きよらかなおそれと捉えるなら それは この小さなおのれの主観が 人びとにも共通の心であると受け留めたことを意味する。


21. つまり きよらかなおそれは 人びとにとって普遍的な内容を成
す共同主観であると――甘えないしはユダネであるからには 無根拠におい
て――受け容れたことを意味する。


22. 《共同主観》は 共同と呼ぶからには普遍性があると見ているし 
或る種の仕方で言えばわが心なる非思考の庭においてそのように受け容れて
いるものであるはずです。(無条件の無根拠にて受け容れているという意味です)。

22-1. 哲学としての基礎(basis: 歩み方)が この小径だと見ている。

21. こうして さなぎは羽化し 蝶へと変態する。







23. 成虫した場合には 社会の中で おのれの――はぐくんできた――
《きよらかなおそれ》が つねに〔共同主観であると見ているからには・そ
の限りで〕有効であるが しかも議論を端折った単純な言い方をすれば 社会力学じょう既成勢力たるチカラの前に じつは 無力となる。(無力だが なお有効である)。

24. この情況における《わたし》は どう生きるか? 《きよらかなお
それ》のゆくえは?




25. 聖なるあまえ・もしくは きよらかなおそれ・あるいは《恥ぢ》を
失わないならば けっきょく世の中においてわが目の前を通り過ぎてゆく観
念のブルドーザーの《無効にしてただ力学じょう有力であるチカラ》に対し
て これを精神の胃袋では消化しつつ おのおのの志とともに引き受けるということ。言わば泥をかぶるということ。ふつうは いやいやながら 《アース役》となる。

26. ここに 蝶たる成虫への変態は 成し遂げられる。ものと思われる。あたらしく大いなる哲学の実践が始まる。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

「生きることは何か」

確かに哲学ですね。。

お礼日時:2021/07/01 16:58

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