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今は違うと思いますが、一時期、在日朝鮮人が、韓国に行くと差別を受けるという話が聞かれました。
サッカーの李忠成さんや柔道の秋山成勲さん、そして格闘家の前田日明さんが韓国に行ったらパンチョッパリとか呼ばれて差別を受けた、と。
ただ、これに関しては当時在日朝鮮人(特に男性の在日朝鮮人)が日本で仕事して稼いである程度お金ができると、韓国にキーセン観光とか朝鮮人の愛人を囲ったりしたので、現地の朝鮮人が
「国を見捨てて日本に移民しやがったくせに、日本で小金稼いでこっちで女漁りしやがって!」みたいな反感がベースにあったようです。
前田日明さんのお父様も布袋寅泰さんのお父様も韓国に別に家族がいて、そこで作った子供を日本に連れてきて「お前の弟だから仲良く一緒に暮らせ!」などと言ったので
前田日明さんは「ふざけんじゃねえ!」と父親に反発して家出したとか。
そういう有名人で無くても、一般の在日朝鮮人も韓国で女を作っていたエピソードも良くあるようです。
http://tsujimoto.asablo.jp/blog/2020/06/30/9263151
崔洋一監督の「月はどっちに出ている」という映画
でも、在日朝鮮人のタクシー会社の社員の在日朝鮮人が韓国にキーセン観光して、キーセンから淋病をうつされる話が描かれていました。

こういうケース以外で皆さんが知っている
在日朝鮮人が韓国で女を買ったりキーセン観光していたケースがあれば、色々教えてください。

A 回答 (1件)

〔ご質問者〕


> なので李氏朝鮮時代、貨幣経済がゼロだったので近代化が日本よりも遅れた、というのは勿論事実ではないけれども、

〔あるチェリーピッカー〕
> 貨幣経済がゼロだったので近代化が日本よりも遅れた、
というのは当時の朝鮮の大臣が認めるくらい事実なのです。

この2つを比べると、ご質問者のほうが正しいです。チェリーピッカーとはチェリー・ピッキング、すなわち史料の中から自説に有利な事例のみを切り取って並べ立てるわけです。そんな詭弁よりも、下記の論文をご覧ください。

岩橋勝『近世貨幣流通の日朝比較史試論―銭貨を中心として―』(松山大学論集、2005年)
https://core.ac.uk/download/pdf/230505826.pdf

やや長い論文ですが、かいつまんで言いますと、近世日本の貨幣は金・銀・銭の三貨制度だったが、李氏朝鮮の後期はもっぱら銭だったということです。ここで銭とは銅貨のことです。
李氏朝鮮は17世紀後半から19世紀後半にかけて常平通宝(じょうへいつうほう)という銅貨を恒常的に発行し、それは全国に普及しました。上記論文の表2、表3、図1に年度と鋳造量が載っています。また、表6は日本と朝鮮の銭(銅貨)のデータを比較しています。
この表6から分かるように、(日朝の人口比を考慮すると)銅貨による貨幣経済については、日本より朝鮮が少し劣る程度で大差はありません。1人あたりで日本が754文、朝鮮が129文で、米価換算により朝鮮の1文は日本の4文強と考えられるからです。
したがって、「貨幣経済がゼロだった」というのは事実に反します。ただし、前述したように日本は金・銀貨があって、そのほうがメインですから、銅貨のみの朝鮮の貨幣経済は、(一人あたりでも)日本の数分の1にとどまることが分かります。

「その銅銭もシナから輪入した銭だった」と渡部昇一、谷沢永一が言うのはウソです。そんなコピペを、検証もせずに貼り付けるヤカラの程度は知れています。
さて、イザベラ・バードが、行商人は「地方の農民とは物々交換」と書いたのはウソじゃないと思われます。金持ちが金銀貨ではなく銅貨を(大量に)使うのですから、(富農以外の)農民までなかなか回ってこなかったということでしょう。
ただし、「物々交換」という言葉の響きから連想する原始的なものよりは、いくぶんコンビニエンスな行商人だったようです。上記論文の表4にまとめられているように、「場市」という定期市が山間農村地域にまで現れて、行商人(褓商・負商)たちはそこに集まって店をひろげました。一人対一人の物々交換ほど非能率ではなかった模様です。

ということで、ご質問者は行商人に着目していらっしゃいますが、客主・旅閣も興味深いですよ。もうご存知かもしれませんが、李朝後期、港湾や都市でもろもろの商業業務をおこなった人です。彼らも於音(おうむ)・換簡という手形を活用しました。
銅貨の支払いがあまりにも大量だったら不便なので、手形などの信用取引が発達するのも当然なわけです(遠隔地へ現金輸送しなくて済む)。また、信用取引が成り立つためには、帳簿をしっかり作成しなければなりません。その点も、ご質問者の記述とつじつまが合いますね。

まとめに入りますが、朝鮮の貨幣経済はゼロではなく、李朝後期には恒常的に銅貨を鋳造していたが、金持ちがそれを大量に使い(馬を使って運ぶほどだった)、金持ちではない地方の農民は貨幣よりも行商人と物々交換といったところでした。
さらに、19世紀後半に貨幣の流通は大混乱します。銅貨の額面を極端に高めた「当百銭」(1866年)などを発行して激しいインフレーションを招き、1876年の開国前後は中国の銅貨も大量に流入しました(それでも銅貨流通量の3、4割を占めるくらいだったが)。日本の協力を得て銀貨を作るのですが流通しませんでした。
イザベラ・バードが朝鮮を旅行したのは、そのような時代です。もともと低調だった貨幣経済が、ハプニングで混乱していました。そりゃ近代化も遅れるわ、という話です。

なお、チェリーピッカーは、おそらく論文を読む習慣がない人だと思われます。歴史学者(鈴木淳東大教授)の論文の「測量及諸事検捜且つ当国官吏へ面会万事尋問をなさんと」は、「当時を知らない説」であって、素人の自分のほうがよく知ってるというわけです。その夜郎自大には恐れ入るしかありません。
自分は専門家よりも史料に詳しいとばかりに、飽きもせずチェリーピッキングを披露するわけです。しかし、史料の解釈を誤る(読めていない)人、論文はますます読めない人のようです。

鈴木淳「「雲揚」艦長井上良馨の明治八年九月二九日付け江華島事件報告書」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/111 …
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