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No.6ベストアンサー
- 回答日時:
> 場所によって郵便局があるところと無い地域があったのでしょうか?
その通りだと思います。
そもそも、郵便局を含む近代的な郵便制度は、イギリスで1840年に本格始動したものです。もちろん、その昔から各国に飛脚があったし、ヨーロッパなら国際飛脚や大都市の戸別配達もあったりしましたが、イギリスのローランド・ヒルのアイデアに基づく1840年のそれは、画期的なものだったのです。
さっそく各国もそれを取り入れて郵便制度を近代化させました。日本も1871年(明治4年)にそうしています。
一方、李氏朝鮮はやや遅れをとりました。高宗が命じて「郵征総局」が作られ近代郵便制度が始まったのは、1884年です。
いや、その前から日本人が朝鮮半島に乗り込んで都市に郵便局を作っていました。と言いますのは、1876年に日朝修好条規が結ばれ、朝鮮は開国しますよね。釜山など三港が開港され、そこに日本も居留地を得て(いわゆる租界)、日朝間で郵便のやり取りも始まりました。前述のように、すでに1871年に日本の近代郵便制度は始まっています。
そうすると、早い話が、朝鮮の各都市の間で為替の証文などを郵便でやり取りするじゃないですか。
ほかの回答者さんは、当時の朝鮮の一般人の識字率をうんぬんして、お手紙(私信)を書けなかっただろうなどと寝言を言ってます。しかし、郵便ってのはビジネス関連のものが多いんですよ。インターネットの普及前は、請求書なども郵送されていたもんです。
日本はすでに江戸時代に内国為替が発達していました。おもに江戸と大坂の間で、飛脚を使って為替の証文を送っていたのです(現金輸送しなくて済む)。近代郵便制度が始まれば、もちろんそれを(朝鮮においても)使います。
ところが、ネット右翼さんは、郵便というと一般人同士の私信しか思い浮かばないんでしょうか。しかも、当時の識字率とやらが偏見まみれの数字と来ています。ご質問者が引用している文献の方が正しいと思われます。
ということで、当時の朝鮮の郵便制度は、朝鮮郵便局と日本郵便局が並存していました。朝鮮郵便局、すなわち前述の郵征総局(1884年)の系統は、直後に起きた甲申政変で焼き討ちにあったりして順調ではなかったので、日本郵便局の活動も認めなければ、郵便の利便が図れなかったようです。
イザベラ・バードの朝鮮紀行(1894~97年)の時は韓国併合(1910年)より前なので、まだ日本は朝鮮の津々浦々に郵便網を張り巡らす気はなかったでしょう。結局、朝鮮郵便局は弱体で、日本郵便局は日本の利益優先で、場所によって郵便を利用できたり出来なかったりしたのでしょう。
その後、1905年に朝鮮郵便局は日本郵便局に接収され、在朝鮮日本郵便局に一本化されて、1910年の韓国併合を迎えます。
No.5
- 回答日時:
ひらがな、ハングルがかけるだけで、手紙は成立する。
質問にかかれているように、郵便が質問のテーマ。
現代においても、教育を受けているにもかかわらず、本質を理解できる人はわずかであり、識字率、高学歴は自慢できるほどの事ではないが。
No.4
- 回答日時:
1711年の頃、「トンイ」の頃は、国民にハングルを奨励していたため、19代国王粛宗は、ハングルによる印刷物出版を増やしていた。
1711年の、朝鮮使節使は日本の印刷技術を持ち帰っている。このとき、筆談により応対したのが新井白石。
その後は、徐々にハングルを、国民から取り上げたと見られる。記憶がもはや薄れているので、詳細は忘れたが。
国民が無知であることが、有利である状況になったためだろう。
1894年ころの、朝鮮ではハングルの読める人も少なかったと考えるのが妥当。
バードは、一部の人達としか接していないが、実際に併合統治した日本人や研究者の記述からはそのように見える。
もっとも、私の記憶は定かではないので、勉強のための参考に。
No.3
- 回答日時:
開城(現ケソン)は、高麗時代の首都で、当時から商業都市として栄えていた。
文字を必要としたのは、商人と両班の下で政務や領地管理を行っていた「中人」と呼ばれる官僚層。
この中人たちが、読み書きなどの能力を活かして、国の開国とともに商工業にも進出し、日韓併合時代にも日本の総督府や朝鮮に進出した日本企業の中でもその力を大きく発揮することになる。
当時の朝鮮人で、まともに読み書きができたのは、この中人たちと商人たちの男性しかしない。
もちろん両班も文字を読み書きできたはずだが、実際にはこの頃は両班の身分を買った人たちが多かったし、実務は中人たちと決まっていたので、実際のところは読み書きができない両班もかなり多かったと言われている。
識字率が低いので、一般の民間人が使う郵便局は要所にしかないのは当然だろう。官は官で別途昔ながらの官専用の仕組みを使っていたはずだ。
「ハングルに関しては私のみた範囲では、朝鮮人男性は身分の低い人も含めて大半はハングルを解して読める」
→これは、イザベラ・バードの接した範囲ということでしょう。彼女は朝鮮では王・皇后とプライベートな会食をできるくらい優遇されていた。
ということは彼女が言う身分が高い人とは「両班」のことで、身分が低い人と云うのは「中人」のことだろう。あとは商人くらいだろうか。
おそらくそれ以外の身分が本当に低い「常人」や「」などとはほとんどまともに接していないのではなかろうか。
No.1
- 回答日時:
開城 松都は商業都市であり、商人の必要により発達していた。
平壌では、両班などは独自に馬を飛ばしていたのでは。
また、1894年当時は一般人は文盲であり、商人や両班のみが文字を読み書きできる。
日本が併合した1911年当時の識字率は、4%〜7%とも。
その当時は、など身分制度時代。
は、牛1頭と7人の値段が相場だった。
しかも、美女1人を含む値段。
郵便局は必要ない。
日本の江戸の時代は、多くは寺小屋で習っており、丁稚、女中も文字はかけた。よって、飛脚が発達。
日本の郵便局は、今年、150周年記念。
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イザベラ・バードの朝鮮紀行を読むと「ハングルに関しては私のみた範囲では、朝鮮人男性は身分の低い人も含めて大半はハングルを解して読める」と書いてありましたから、朝鮮人女性はともかく、当時の朝鮮人男性はハングルは読めたと思います。
ソ連時代の女性官僚、チャガイ,ガリーナ・ ダヴィドヴナ, Тягай,Галина Давыдовнаが編集した『朝鮮旅行記』という本が東洋文庫から出ています。これを読むと、当時のロシア国境から主に現在の北朝鮮地域を調査したアリフタン中佐の記録で『李氏朝鮮の庶民の識字率はとても高い。どんな小さな集落にも書堂と呼ばれる学校があり、読み書きのできない朝鮮人には滅多にお目にかからない』と報告が記録されています。
当時の平壌も、含めた北朝鮮地域の識字率はそれなりに高くて読み書きの出来る朝鮮人も、たくさんいたことがうかがえます。
江戸時代の日本の識字率については、一種の「識字率幻想」、いわゆるネット右翼の馬鹿が喧伝したがる日本スゲー(笑)みたいなものが流布されているので、きちんとした論文や文献に当たるほうがよろしいかと思います。
識字能力・識字率の歴史的推移――日本の経験
国立教育政策研究所 斉藤泰雄
http://home.hiroshima-u.ac.jp/cice/wp-content/up …
これによれば、
男子50~60%、女子30%程度だったと、こちらの論文では推定されています。
ちなみにここでいう識字率とは書いてあるとおり「自署率」です。
つまり自分の名前を書いて読めること。それもひらがな、カタカナ、漢字いずれであるのか記録が存在しないというものです。
漢字含めて書籍を読めるといった能力とは違います。そちらを基準にすると格段に下がることとなります。
これについて「近世社会と識字」という論文では、1881年に長野県で「男子を対象に」行われた調査から以下の記述をしています。
https://ci.nii.ac.jp/naid/110001175731
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調査人員882人,うち1.数字及自名自村名ヲ読且記得ザル者」3/2人(35.4%)「較名自村名ヲ記得ル者」363人(41.2%)「較H常出納ノ帳簿ヲ記得ル者」128人(14.5%)「普通ノ書簡并二証書類ヲ自書シ得ル者」39人 (4.4%)「普通ノ公用文二差支ナキ者」17人(1.9%)1公布達ヲ読得ル者」8人〔0.9%)「公布達及新聞論説ヲ解読シ得ル者」15人(1.7%)
つまり漢字も含めた新聞を読めるという話になると、わずか1.7%にまで減少してしまうということです。