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この問題について質問が立てられていますが、仏教について初級的な知識しか持っていない私から見ても、仏教の知識、理解がまるでないと思われる、「悪口」と言えるレベルの残念な議論があり、趣旨説明を求める私からの投稿にも返答がありません。

そこで、改めてこの問題について質問を立てます。

1.煩悩ということの定義をお願いします。

2.菩提ということの定義をお願いします。

3.釈迦仏教において、煩悩を滅するというのはどういうことか?また、それは現代人に可能なのか?

4.釈迦仏教においても、煩悩即菩提であることを示唆する記述がある。

「煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得」(観普賢菩薩行法経)
この記述をどう解釈しますか?

5.日蓮仏教における「煩悩即菩提」を説明してください。

質問者からの補足コメント

  • 日蓮仏法の現代的展開、については具体的なことに言及していないことは多いでしょう。時代は変化するからです。
    しかし、それは分かっているかいないかではなく、どうするかという問題です。哲学は不変であると考えます。

    もし、三代の会長の哲学的解釈が違うということであれば、それはキチンとに問わねばなりません。キチンとした問いならば、受け付けます。そのうえで私なりの結論を出します。いい加減な話ならば、思い切り突っ込みます。

    No.7の回答に寄せられた補足コメントです。 補足日時:2021/07/10 13:55
gooドクター

A 回答 (7件)

No.6です。



●はじめに申し上げておきますが、『御書講義』や『小説人間革命』に書かれてある事は、ここでは全く関係ない、、、という事です。

>「仏はそれぞれ異なる教えを所持している」というのは戸田先生の御書講義の中にあります。活字になっているし、音声にもなっています。これを否定しますか?

●否定をする事はありません。
それはそれ、これはこれ、、、です。
それを良く理解する事。
『異なる教え』というのは、『異なる譬』の事を言っています。
書籍に書いてある事というのは、、、
・その講義の目的。
・その講義の時代背景。
・その講義をされている人のお立場。

こうした事を理解しないと、その文言の持つ意味を正確ら理解する事はできません。日蓮大聖人の『御書』にしてもそうです。

要するにこれは、あなたの問題だ、、、という事です。
意味の取り方であり、受け方です。


>小説人間革命は、ご存じでしょうが、宗門のこと、戸田先生個人のこと、登場人物のこと等について、必ずしも真実とは限らないということが、はじめに書かれています。

>しかし、教学的なことについては当然そのままを正確にしかも表現に工夫されて書かれてあるはずです。
それは、学会員はそれを教科書のように真面目に読んで勉強することが明らかであったからです。

>その小説人間革命に書かれてあることは、学会の教学の内容そのものであり、かつ多くの事柄の中から選ばれて書かれてあるということは重要事であると私は判断します。

●ですから、それはそれでそうしたものを教材として勉強する事には何も反対はないですよ。おおいに勉強していただければ宜しい。
ただ、問題は創価学会の書籍の中には無い、あるいは創価学会では明らかにしていない(できていない)部分もあるのです。
要は、それを分かっているのか、いないのか、、、の問題であり、そこが全てにおいて大きな差を生むのです。
これは、あなたもご存知のように、日蓮大聖人滅後に、日興上人が離山した原因もそこに有るのです。


>一般論?
>創価学会員であるあなたが、何故急に一般論の立場でものを申すのですか?

●この『教えて、goo』は、創価学会の専用サイトではなく、一般のQ&Aのサイトだからです。だから基本は『一般論』がベースに無いと物事が正確に伝わりません。また、質問者であるあなたが、一般の方なのか、創価学会の会員さんであるのかは、私には分かりかねます。
いずれにせよ、一般論で物事を話した方が誤解はないと思います。


>そして、あなたの言うことが理解できない私が『煩悩にまみれている』?
よくわかりません。説明をお願いします。

●あなたの『概念』の中には、『こうだから、こうだ。』というものはあると思います。それとは違うものが目の前に現れた時に、受け入れようとはせず、理解しようとはせず、否定してしまう。

これを『煩悩』と言っています。

『なぜ、この人はこう言った事を言うのだろう??』、『どういった意味で、そうした事を(表現)言うのだろう??』そうした事を、言葉で否定せずに《あなた自身が》考え(思考し)なくてはいけません。そして、回答が見つからなければ、再度、真を問うべきなのです。これができた時に、『煩悩即菩提』が成立するのです。

もっと簡単に言えば、、、『キチンと題目を上げろ。』という事です。
『どこに向かって、題目を上げているんだ!!』という事です。
先にあげた、この僅か少しの差が、題目に乗ると『天と地』の差ができるのです。

■たぶん、あなたの信心、生活、仕事は、全てこの範疇を出ないのです。いや、出れないのです。何故なら、『信心即生活』ですから。
学会の中でも、家庭の中でも、会社の中でも、地域の中でも、そのままあなたの命が出ている気がします。あなたの事は、何も知りませんが、今こそ『宿命転換』をする時です。

お題目を、送ります。
しっかりと、自身の事を祈りなさい。
この回答への補足あり
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この回答へのお礼

あなたはご自分が創価学会員であると言っています。ks何某ですから、教宣部の人で組織の活動としてネットの分野で学会に対する誤解を解くことを目的として書き込みをしているのであろうと思っていました。

しかし、それにしては言っていることが曖昧で教条的で感情的で、理路もおかしく、他の人のツッコミに答えられないことばかり。
なんだろうという思いがありましたが、今回のやり取りで、私はあなたがそういう目的でここにきているのではないと「判断」しました。

あなたが創価学会員であるとかないとか、目的がなんであるか、ということはあえて申しません。ここでは結論の出ない話であるからです。

創価学会の教義とは、創価学会版の「御書」の、初代・二代・三代会長の解釈のことです。それに尽きます。
そのことは創価学会会則に明記されていますが、それがなくとも、創価学会員は三代の会長を深く尊敬し信じているので、創価学会の教義が成り立っています。

その教義が詳細にまた体系的に書かれているのが「御書講義」であり多くの出版物であります。

あなたがここに創価学会員として参加しているのに、それらが「全く関係ない」とは一体何だろう?一般論でやる?一般論って具体的に何のことを言っているのですか?
道を歩いている猫もひっくり返るでしょう。

>・その講義の目的。
・その講義の時代背景。
・その講義をされている人のお立場。

目的は日蓮大聖人の仏法の教えを会員に伝えること

時代背景は昭和26年以降現在まで

立場は創価学会の会長・名誉会長

ですよね?

>要するにこれは、あなたの問題だ、、、という事です。
意味の取り方であり、受け方です。

分かりません。
こういうことを声高に言い、人を圧迫する役職者をこれまで何人か見てきました。
言われた人は何が何だかわからので、いたずらに自分を責めてしまう。大変に悪い指導です。

>『キチンと題目を上げろ。』これも最低の指導です。名誉会長も言っています。
超上から目線、権威的抑えつけに過ぎないです。

>問題は創価学会の書籍の中には無い、あるいは創価学会では明らかにしていない(できていない)部分もあるのです。
要は、それを分かっているのか、いないのか、、、の問題であり、そこが全てにおいて大きな差を生むのです。

(つづく)

お礼日時:2021/07/10 13:43

No.5です。



少し回答が前後します。


>仏はそれぞれ異なる教えを所持している、という学会の教学も存在します。

仏は、異なる教えを所有している事はありません。
「異なる譬を用いて、『法』を説く(導く)。」と書かれていると思います。


>釈迦仏教と日蓮仏教は、別個の違うものである、との記述が「小説人間革命」のなかに明記されています。

>「小説人間革命」に重要でないことが書かれているとは考えにくいので、あなたの考え方は、あるいは、教学上の重大な誤りになるのかも知れないとも今は思います。

 >>・おかしいです。
 >>狭義であれば、釈尊が説いた教えを言います。
 >>広義では、仏教全般を指して言います。

 >>日蓮大聖人の説いた仏教というものはございません。
 >>釈尊⇒天台大師⇒伝教大師⇒日蓮大聖人、、、と法華経が受け継がれ、日蓮大聖人によって『法』である『南無妙法蓮華経』が現わされ完結するという事です。

これは、『一般論』を申し上げております。
一般的には、上記で全く正しいです。

何故このようになるかと言えば、、、

①.『仏教』というものは、『仏』の教えであり、釈尊の説いたものを指します。

②.さらに、我が国日本という国は、古くより仏教が渡り、その中で様々な分派が行われ、現在に多宗にわたり宗派・寺院が存在する点からそれらを一般的には『仏教』と呼ぶからです。

また、釈尊と日蓮大聖人の違いについては、No.3の問5にて解説しています。

「小説人間革命」に書いてあるとか、書いてないとかということは、あまり関係ない事です。
そこが理解できないという事は、質問者様ご自身が『煩悩にまみれている』としか、言いようがありません。
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この回答へのお礼

「仏はそれぞれ異なる教えを所持している」というのは戸田先生の御書講義の中にあります。活字になっているし、音声にもなっています。これを否定しますか?

小説人間革命は、ご存じでしょうが、宗門のこと、戸田先生個人のこと、登場人物のこと等について、必ずしも真実とは限らないということが、はじめに書かれています。

しかし、教学的なことについては当然そのままを正確にしかも表現に工夫されて書かれてあるはずです。
それは、学会員はそれを教科書のように真面目に読んで勉強することが明らかであったからです。

その小説人間革命に書かれてあることは、学会の教学の内容そのものであり、かつ多くの事柄の中から選ばれて書かれてあるということは重要事であると私は判断します。

一般論?

創価学会員であるあなたが、何故急に一般論の立場でものを申すのですか?

そして、あなたの言うことが理解できない私が『煩悩にまみれている』?
よくわかりません。説明をお願いします。

お礼日時:2021/07/10 03:29

>世界には、釈迦の説いた仏教と、日蓮の説いた仏教があり、だから、釈迦仏教と言いましたが、おかしいですか?



・おかしいです。
狭義であれば、釈尊が説いた教えを言います。
広義では、仏教全般を指して言います。

日蓮大聖人の説いた仏教というものはございません。
釈尊⇒天台大師⇒伝教大師⇒日蓮大聖人、、、と法華経が受け継がれ、日蓮大聖人によって『法』である『南無妙法蓮華経』が現わされ完結するという事です。


>>法華経、、、方便品第二以降で『十界互具』、『一念三千』が明かされる。これにより、『煩悩即菩提』が成立する

>何故成立するのか説明をお願いできないかと。

・要するに、『煩悩』という迷いは、衆生をしてその生命を起因として現れます。特に、昨日書きました十界の中の地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天(以上、六道という)は煩悩を離れられません。
上記にもある様に、法華経では『仏界』を説きますので、この仏界の涌現により、煩悩はあったとしてもそれを菩提に変えることができるという事です。この仏界(仏の生命)の何が変えると言えば、仏の智慧をもって変えていくのです。


>日蓮仏教においては、御本尊が顕されていて、行学の二道と言う実践方法が明確にされているということですね?

・ちょっと違うかな、、、。(煩悩即菩提という事に関しては、、、)


>十界論については基本故に実はとても奥が深いと思っています。改めて思索をしたいと思っています。

・十界論というのはあくまでベースとしてあって、実際には天台大師の説いた『一念三千法門』というものがあります。ただ、現代において(仏教の修学がなされていない人にとっては)三千種の世界観を説いてもわけが分からなくなるので、先ずはベースの十界論(十界具足)を理解されるために、私は教えてgooにおいては、十界論を基本として提示しております。
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この回答へのお礼

釈迦仏教と日蓮仏教は、別個の違うものである、との記述が「小説人間革命」のなかに明記されています。

また、仏はそれぞれ異なる教えを所持している、という学会の教学も存在します。

それほど重大なことでないのかも知れませんが、「小説人間革命」に重要でないことが書かれているとは考えにくいので、あなたの考え方は、あるいは、教学上の重大な誤りになるのかも知れないとも今は思います。

この点については、引き続き勉強したいと思います。

お礼日時:2021/07/09 01:06

天台(智顗)の仏教全体、法華経の解釈を、日蓮は正当であると解釈しているということですね?



ハイ、あくまで理屈は、理論は正しい、
しかし
まだ、事実としては証明されていない段階なのです
天台の法門は「理の一念三千」と言い、あくまで理論上の事なのです
それを事実として、現実として体現し、生活に人生に慈悲の行動に
表したのが日蓮です
これを天台の理に対し日蓮は「事の一念三千」といいました

さてさて
煩悩即菩提も生死即涅槃も即身成仏も女人成仏も悪人成仏も
法華経にあります
多くの経典の中で、
法華経だけが異質なのです、不思議なのです、理解し難いのです

「四十余年未顕真実」は有名です
すなわち法華経こそが真実だ、と言う事ですが、不思議の一つに
「無量義は一法より生ず」と言っておきながら、その一法は、
何処を探しても、最後まで出てきません?
私が勝手に想像するに、その究極の一法は釈迦滅後に
明かされると解釈していいと思うのです

結論を先に申し上げます
あくまで私個人の勝手な考え、と言う事ですが
法華経は特に末法の衆生のための経典だ、と言う事です
釈迦時代の衆生のためでもありますが、その多くの
予言的なものはすべて末法に正確に当てはまるからです

釈迦仏法では
煩悩即菩提も生死即涅槃も即身成仏も限られた人です
釈迦仏法の基本は
長い間修行し、何度も生まれ変わり、時間をかけて
成仏したり悟りを開いたり菩提や涅槃に至るのです
天台が摩訶止観の煩悩即菩提を、仏滅後、と記されたのその事なのです

ではなぜ末法の衆生のみ、何の修行もせず、
即菩提、即涅槃、即成仏なのか
その答えも法華経にあるのです
末法の衆生は、悟りの実態が、現物が、無量義経の究極の一法が、
苦労して、探さなくても、修行して悟らなくても
何度も生まれ変わらなくても、時間をかけなくても
すでに目の前に、厳然とあるからなのです
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この回答へのお礼

「理の一念三千」「事の一念三千」、OKです。

私などはまだまだ勉強が足りなすぎるのですが、釈尊は法華経で一体何を説こうとしたのかという、素朴な難問があり、私も常々考えてはいました。

このあたりは分からないことだらけなのですが、正法・像法二千年で釈迦仏教で悟りを得た衆生というのは、歴劫修行によりある程度の境涯に達した衆生に限られていた、と。だから、究極の一法でなくても大丈夫であった、と。

しかし、末法の濁悪の衆生では、それではだめで、究極の一法つまり、南無妙法蓮華経でなければならなかった、と。

無量義(森羅万象)は一法より生ず、その一法というのは南無妙法蓮華経のことで妙法蓮華経のことではないと理解していますが、それでよいのでしょうか?

また、釈尊は何故南無妙法蓮華経を説かなかったかといえば、当時の衆生に説けば「一闡提」がたくさん生まれてしまう、という解釈を聞いたことがあります。
戸田先生です。しかし、これを理解するには時間が相当かかるでしょう。

お礼日時:2021/07/09 00:54

>1.煩悩ということの定義をお願いします。



・思想的または本能的な欲望に心を煩わされて身を悩ます事。
・身心ともに乱れて真の自由が得られない事。

>2.菩提ということの定義をお願いします。

・悟りの知恵。

>3.釈迦仏教において、煩悩を滅するというのはどういうことか?

◎釈迦仏教????⇒仏教=釈尊(釈迦牟尼仏)が説いた教えを言う。

■仏教においては、二つに大別する。

・爾前権教、、、煩悩を断じ尽さなければ菩提を得ることができないと説く。

・法華経、、、方便品第二以降で『十界互具』、『一念三千』が明かされる。これにより、『煩悩即菩提』が成立する。

>3-2それは現代人に可能なのか?

・これはもう現代人には必要ありません。
何故なら、設問5で触れるが、もう既に『法』である『南無妙法蓮華経』の本尊が存在するからです。

>4.釈迦仏教においても、煩悩即菩提であることを示唆する記述がある。

「煩悩を断ぜず五欲を離れずして、諸根を浄め諸罪を滅除することを得」(観普賢菩薩行法経)
この記述をどう解釈しますか?

・そのままです。

>5.日蓮仏教における「煩悩即菩提」を説明してください。

・基本的概念は、釈尊と同じです。
日蓮大聖人の仏法と、釈尊の仏法の一番の違いは何かというと、法華経で説かれたところの、菩薩を教化して仏になる為の『法』が何かという事が説かれ、御本尊として『南無妙法蓮華経』が現わされ、存在しているという事です。

例えば、、、昔々、アニメなどで『コンピュータ』なんてものが描かれていましたが、現実には見た事もありませんでした。でも、現代には『コンピュータ』は現実に存在し、多くの人が利用しています。
東日本大震災の時、電力不足により『輪番停電』が起きた時に、一時パソコンが使えずに仕事が進まない状況があった事は記憶に新しいと思います。
殆どの人は、プログラムやパソコンの仕組みなどを知らなくても、日常の仕事で利用しているでしょう。それと同じです。

要するに、低い境涯に縛られずに、仏の生命(仏界)を輝かしていけば、煩悩も自らコントロールできるという事です。煩悩を『悪』とするのではなく、その煩悩を薪として燃やし、明るい未来を創造するという事です。

■分かり難い点は、再度、ご質問ください。

参考:【十界】

・地獄界・・・苦しみの境涯
・餓鬼界・・・欲深い境涯、どのような状況でも常に満たされない状態。
・畜生界・・・本能のおもむくままに生きる境涯。⇒以上、三悪道
・修羅界・・・憎しみが強く、争いを好む境涯。⇒以上、四悪種
・人 界・・・一般的な『人間』の境涯。
・天 界・・・喜びの境涯。⇒以上、六道。六道輪廻の六道です。
・声聞界・・・悟りを求める、求道の境涯。
・縁楽界・・・自然現象などから、物事の真理を悟る境涯。⇒声聞、縁楽二つの境涯を併せて『二乗』といいます。
・菩薩界・・・悟りの道を開いて、人々を救おうとする境涯。
・仏 界・・・究極の真理を悟った覚者の境涯。

この十種の境涯が、一つも欠けることなく人(衆生)の生命に具わっている事を『十界具足』と言います。
そして、何かの縁に触れる事によって、瞬間瞬間にその境涯が変化していくのです。
その生命の奥底にある十種の境涯が、意識や言葉、表情や態度や動作にそのまま表れてくるのです。
そしてそうした事が関係して、自身の生活環境や地域社会を形成しているのです。
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この回答へのお礼

世界には、釈迦の説いた仏教と、日蓮の説いた仏教があり、だから、釈迦仏教と言いましたが、おかしいですか?

>法華経、、、方便品第二以降で『十界互具』、『一念三千』が明かされる。これにより、『煩悩即菩提』が成立する

何故成立するのか説明をお願いできないかと。

日蓮仏教においては、御本尊が顕されていて、行学の二道と言う実践方法が明確にされているということですね?

十界論については基本故に実はとても奥が深いと思っています。改めて思索をしたいと思っています。

お礼日時:2021/07/08 02:03

煩悩→欲


菩提→悟り

煩悩即菩提→欲こそ悟り
要するに、欲を「欲」と自覚することが出来れば、悟りへの道が開けるという意味になる。漠然とした話なのでさらに分かりやすく解釈を進めることも可能だ。

日蓮は、欲を「毒」に例え、「毒は薬に通じる」ことから、欲という毒をそのまま持ちながら、毒を薬のように使えば良いと教えている。
具体的には持っている欲(毒)をバネに力強く題目を唱えることで、菩提(悟り)が見えてくると解説している。
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この回答へのお礼

菩提(Bodhi)=声聞・縁覚・仏がそれぞれの果において得る悟りの智慧。このうち仏の悟りは究極最上のもので、阿耨多羅三藐三菩提という、と。

>具体的には持っている欲(毒)をバネに力強く題目を唱えることで、菩提(悟り)が見えてくると解説している

ふむ。

お礼日時:2021/07/08 01:52

煩悩即菩提は生死即涅槃と共に語られますね


質問者さんは、この程度はお分かりと思いますが一応言います
煩悩とは欲望の事です、根源的な三つの煩悩を
①貪。貪欲のことで、むさぼり。
②瞋。瞋恚のことで、怒り。
③癡。愚癡のことで、癡か
と、解き明かしております

初期仏教や小乗教の諸経典では、苦悩の原因は自分自身の
煩悩にあると説きましたが、法華経に至り
欲望そのものには善悪の両面がある事を解きます

天台大師が法華経の肝心を説いて、摩訶止観に
『煩悩即菩提、生死即涅槃』と記してあります
竜樹菩薩の大智度論にも同じ意味で記されています
日蓮大聖人の法華経御義口伝には
「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前するなり。
煩悩即菩提と開覚する」とあります
悩みという「薪」を燃やして、初めて幸福の「炎」が
得られると説くのです。

即身成仏の法理を、最高峰仏法の角度から
表したのが「煩悩即菩提」です。
わかりやすく言うと、
煩悩とは「悩み」であり、悩みを起こさせる欲望です。
菩提とは「幸福」であり、境涯が開けることです。
ふつう、煩悩と菩提はバラバラです。悩みと幸福は正反対です。
しかし最高峰の仏法では、そうではないのです。
様々な形での比喩がありますね・・ん~悟らなきゃ分からん?

煩悩とは欲望の事ですが
欲望そのものには善悪の両面があります。
人間は、食欲などの欲望がないと生きていけないことも事実です。
また、欲望が人間を進歩、向上させるエネルギーとなる場合も
あります。しかし、
欲望を創造的な方向に使えず、際限なき欲望に振り回されるれ
欲望の奴隷となって苦しむのが仏教で言う餓鬼界ですね
「貪るは餓鬼」とあります

美への欲求、人間的な 愛や慈悲等も、欲望の例に挙げられる
のでないでしょうか。
更に深く考察すると、美への欲求、知識欲なども欲望に
分類できるのです
欲望とは人を悪へ走らせることもある反面、文化や技術 の
進歩を促す働きもしているのです

菩提の定義は、知者とか悟りとか覚者とか言われますが
慈悲の実践者である事から「★正義の定義」と重なります

観普賢菩薩行法経は法華経の教えをふまえた如来の滅後の
観法の実践を説くので
「煩悩即菩提」を実践する私たちへのメッセージでしょう
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この回答へのお礼

分かり易く説明いただきました。

愛用の辞典を紐解きますと、

煩悩=衆生の心身を煩わし、悩ませる種々の精神作用の総称。
根本煩悩として五鈍使、五利使、そして、それに付随する20種の随煩悩、(成唯識論巻六)とあります。

例えば、五鈍使の内の三毒の内の「貪」、これは貪欲・貪愛などの意味になり、人間の愛という誰でも持つ欲望が、貪りに堕ちた場合、ストーカー行為のような自他ともに苦しむようなことになってしまうが、美しい夫婦愛、友情などに昇華し、自他ともに幸せを感じられるようにもなる。

釈尊は、煩悩を断つことが悟りへの道であると、阿含部などで説いた。それは間違いとは言えないのだが、例えば人間の「愛したい」という欲望は、善悪、毒と薬などの両面があって、悪いところだけ消し去ることはできないから、欲望を昇華させることが菩提に繋がるということを、法華経に至って明らかにした、と。このような理解でよろしいでしょうか?

また、天台(智顗)の仏教全体、法華経の解釈を、日蓮は正当であると解釈しているということですね?

お礼日時:2021/07/08 01:40

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