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No.10
- 回答日時:
「宗教的寛容」「宗教的不寛容」どちらもピンと来ない言葉ですね。
分かり易く考えると、人間誰しも哲学、信念を持っています。その哲学、信念に反するものについては当然不寛容と言えるし、絶対に認めない部分があるでしょう。
例えば、母親の子育てについての哲学です。これについては絶対に引かないから、父親は全く歯が立たないようです(多分)。
何故か?それは、子供に対する愛情ゆえだと思います。父親にわずかに勝っていることが多いと私は思います。
哲学・思想・宗教も全く同じ原理で寛容・不寛容があると思います。強弱はあれど、自分のものが正しいと思うのが人間です、基本的に誰でも。
だから、絶対に引けない不寛容の部分が当然あるはずです。しかし、全体的にそれが薄くなっているように思います。
それは、色々な権威が失墜し始めていて、特に宗教について著しいと思います。つまり、宗教を信仰している人は自信を失っている人が多く、また、そんな時代の中で人間や社会に対する愛情が薄くなっているのではないかと見ています。
そういう時代の中で「宗教的寛容」「宗教的不寛容」ということを言うことがちょっとおかしな感じがします。
七夕撤去?単に見映えの問題ではないかしら。
ご回答ありがとうございます。
そうですね。単に見栄えの問題、通行の邪魔、危険だから、などの理由であれば、騒ぎにはならなかったのかもしれません。
キリ教系の大学での「キリスト教とは相容れない」という厳しい拒絶の態度に、学生が反発したんだろうな。
まあ厳しいと言うのか、敬虔と言うべきか、そこは見解の分かれるところなんでしょう。
No.9
- 回答日時:
宗教とは人を心的にも行動的にも束縛するものです。
「宗教的寛容」は、宗教世界だけの話ではなく、宗教の政治的妥協の話として存在します。
その大学が宗教に忠実であろうとすれば、その宗教世界に関係ない行事であれば、排除しようとしても不思議ではありません。
しかし、その大学が異教徒や、少なくとも信者ではない学生を受け入れているのなら、政治的妥協として例外的に認めるかどうかという問題になります。
七夕そのものは、古代中国の伝承に端を発し、陰陽道の影響を受けて儀式の形式が整えられていったものと考えられています。特に自由恋愛を禁じられていた女性に受け入れられていたようです。
ですから、宗教的に対立するレベルなのか疑問の余地があるので、このように問題が大きくなったのでしょうか。
いずれにしても、その大学の宗教的厳格さが、政治的妥協も許さなかったということでしょうか。
政治的妥協。なるほどです。
キリ教系学校でも、学生が信仰者ばかりではないですからね。
同じキリスト教でも、たとえば異教派の教徒同士の結婚も、所属協会の問題とかあって難しそうですし。
とことん話し合って、互いに折れるべきところは折れる。
そういう解決法くらいしか思いつかないなあ。
ご回答ありがとうございました。
No.7
- 回答日時:
イベントは宗教ではないから。
「文化的寛容さの欠如」なら妥当すると思うが、、、、。
ご回答ありがとうございます。
七夕飾りをした学生も、たぶん宗教的な意味までは考えてなかったんでしょうね。
私もよく知らなかったんですが、お盆を迎えるための禊、みたいな意味もあるそうです。
同じキリスト教系学校でも、七五三のミサをするところもあるとか。これも寛容なのか無節操なのかよくわからん話ですが ^_^
No.6
- 回答日時:
七夕撤去を宗教的不寛容だと言うのは、
私は違うような気がします。
↑
そうです。
寛容の問題ではありません。
宗教に対する考え方、感じ方が
違うのです。
七夕やクリスマスなんてのは、日本人に
とってはただのお祭りです。
そこに宗教色を感じる人は
少ないです。
感じてもわずかなモノです。
しかし、クリスチャンにとっては
ただのお祭りではありません。
宗教そのモノです。
クリスマスを祝って初詣もすることが宗教的寛容?
それもおかしいと思います。
他者が大切にしている価値観への思いやりがないなあと感じます。
皆さんはどう思われますか?
↑
日本の宗教的感覚は神道から来ています。
神道というのはまことに曖昧な宗教でして、
本来の神道には教義も経典もありません。
自然や先祖に対する畏敬、想いがあるだけです。
それがあれば信者確定です。
信者であるとの自覚も不要です。
だから、キリスト教という宗教に対しても
同じように考えてしまうのです。
明快なご回答ありがとうございます。
キリスト教は本来一神教の偶像崇拝厳禁なので、「祈り」の対象が神か神の子(イエス)以外には認められないわけですよね。
なので、星に願いをかなえてくれと祈るなんてのが、普通にアウトなのかな、と思いました。
寛容さが足りないのではなくて、日本人が柔軟過ぎるのかも。
No.4
- 回答日時:
昔、日本に来た宣教師が、
「キリスト教徒にならないと、地獄に落ちる。」と説教したそうです。
日本人は、
「死んだご先祖様は、改宗してないから、地獄に堕ちたなら、
俺だけ、天国には行けない。」と
改宗を断ったそうです。
そんな宣教師の苦労話が残っています。
日本人は、基本多神教だし、キリスト教だって、否定している
訳ではありません。(私は、否定してますが。)
日本人は、キリストも神も、八百万の神の一人なんです。
しかし現実は、日本人の何%がキリスト教徒で、それが
誰の作為も受けず、変動しない事実は、確認すべきだと思います。
七夕を、そんな細かいこと、と思うのは、日本人だし、邪教の
習慣は受け入れられない、というのも唯一神教です。
連中がきれいごとを言い、外見、寛容であるのは、信者拡大の
ためであり、生命保険の勧誘と大差ない。
あるのは、下心だけです。
ご回答ありがとうございます。
なかなか辛辣ですね(^^)
七夕撤去については、まずここの大学の学生が抗議したようなんですが、学生がすべてクリスチャンというわけでもないんでしょうね。
ノンクリもいる大学なのだから異文化を容認せよ、といった論調が目立ちました。
No.3
- 回答日時:
キリスト教は、唯一神教です。
異教徒を殺戮する為に、何度も十字軍を送り込みました。
連中は、何十万人殺したかわからない。
今は、猫を被って、物分かりが良さそうにしていますが、
基本、完全な排他主義だし、差別主義です。
だから、サッカー選手が、日本人に差別発言したり、
黒人に人種差別を、平気でしている。
七夕も馴染まない、ときれいごとを言ってますが、
邪教を認めない、という精神構造そのままです。
批判している連中が居れば、それはキリスト教徒ではないか、
キリスト教の本質を理解していない馬鹿な連中でしょう。
No.2
- 回答日時:
日本の大学での事ですか? それだったら不寛容的な気はしますねえ
アメリカやイギリスでの事ならあり得ますねえ
キリスト教は「自分のしてほしい様に他人にもしなさい」ですから
復活祭を祝ってほしいなら七夕飾りくらい受け入れても良い様な気がします
右の頬を打たれたら左の頬も出しなさい とか
7回を70倍する程人を許せ というのがキリスト教のいい所ですから
人が大切にしてるものなら同じく大切にして上げればいいと思います
キリスト教はその寛容の精神で伸びて来たんでしょうから。
ご回答ありがとうございます。
日本の大学での話です。
まあ、七夕くらいいいじゃんってな意見が多かったです。
ルターまで出てきて宗教戦争みたいになってました(*_*)
ただ、宗教者にしてみれば、どうしても譲れない線があるんじゃないかと思うんです。
仏教でもあるでしょう。
私の家は真宗なんだけど、親父の葬式を曹洞宗でやられちゃったんですよ。イナカの共同体のしきたりに、無理矢理従わされてしまって。
あとで真宗の坊さんに事情を話したら、とんでもないことだって呆れ返ってました。
真宗大谷派と曹洞宗ではだいぶ違うからね。
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ええと、私自身は無宗教ですが、宗教のごった煮が苦痛であるという宗教者の感性には共感するんです。
で、七夕飾りはどこにでも売っているし、他の場所で楽しめばいいじゃんって思ってしまったわけで (^^)
ただ、キリスト教でも教派によって対応が違うようで、偶像崇拝以外はオッケーとか、まあまあユルいところもあるようですね。
あと、大学側は一応、撤去理由を掲示した上で撤去したよです。
高校生の時、クラスで壮大な七夕飾りを作って教室の窓から垂らしたら、担任に「幼稚なことすんな!」と叱られ片付けられてしまったことを思い出した。(どうでもいい補足 ^_^)