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藤原緒嗣は農民の負担が大きくなるため蝦夷征討と平安京造都を中止させるべきだと主張したんですよね?でも、徳政相論が起きる前に健児の制で農民の徴兵はなくなったのではないんですか?
そうなると、農民の負担も何もなくないですか?

A 回答 (2件)

農民の本業は農業。

兵役や苦役は副業。
古代の天皇・朝廷には農民を「大御宝」として大事にする思想があった。
徳政相論も、副業が過重で本業の農業に影響がでるという観測があり、その「大御宝思想」の延長線上で発議されたものだろう。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2021/07/22 10:08

詳しいことは知りませんが、健児は選抜徴兵で、単純な人数割当制の徴兵ではないということでしょう。

 選抜徴兵でもその人数で充分であるとして、田租と雑徭の割り当てで物財の確保を優先したということではないでしょうか。 農民の負担は、男の徴発が減った分は軽くなったでしょうが、基本的にはあまり変わらないのではないでしょうか。 正丁(成年男子)3人に1人が兵士として徴発されるのよりは、格段に負担は減るハズですが、8世紀の民衆の生活が楽になったということはないのではないでしょうか。
723(養老7)年には開発者に対し, 3世代にかぎって開墾田(墾田)の所有を認める三世一身法を出して,農民に開墾を奨励した。しかし効果がなかったため, 743(天平15)年,朝廷は,墾田永年私財法を出して,租をおさめれば永久的に土地の所有を公認するという政策をうちだした。と高校の教科書にあります。 これらは、農民の負担を軽減する、豊かにするのがねらいではなくて、農民が困窮して逃げてしまい、租庸調などの収入が得られなくなったという事態に対応する対策で、農民は逃げるしかないほど困窮していたのだと思います。 で、社会不安では困るので、対策として仏教による鎮護国家の願いで国分寺を造営しようとしたが、その造営も進まない、平安京を広大で立派なものにしようとしたが、それも資力、労働力の確保がママならず、遅延ばかりで、結局最後までできずに、工事中断・終了の名目に「方今天下の苦しむ所は、軍事と造作となり。此の両事を停むれば百姓安むぜむ」のような「徳政」を持ち出しただけで、現実は、もはや工事続行が困難なのが明らかだったのだと思います。 そんな状態で環境も悪い平安京への遷都だったので、平城上皇とその一派は、ここじゃムリだよと平城京に都を戻そうしたのでしょう。

徳政論争と言うから、主題や発想が民のことを考えてが動機のように感じられることになってしまうだけで、大規模な寺院建立とか、大きな新京の造営とか、できるような経済力も人員動員力も現実にはないのに、理想?に燃えて突っ走った天皇とその取り巻きが、方針転換するときのもっともらしい理由を探して提案したということのような気がします。

藤原緒嗣は、807年大同二年 参議の号を廃し、観察使を置くのに働いたらしいです。で、国司の業務監察をして、中央王権の税収確保と国司の猫ばば抑止をさせたようです。 
大同三年五月 飢疫を言上した国の今年の調を全免したが、
大同四年七月 調庸雑米未進を免除した恩赦でも、「庶使三窮困人民、永忘二旧歳之責一、見任国司、頓絶二前官之怠一」という状態だったようです。
調の免除は民衆救済のためという体裁をとってはいても、基本は、破綻し懸かっている統治体制を、破綻させてしまわないようにするという、現実派の政治家だったのではないかと思います。
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この回答へのお礼

ありがとうございました

お礼日時:2021/07/22 10:08

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