プロが教えるわが家の防犯対策術!

http://japan.hani.co.kr/arti/politics/40540.html

徴用工制度などで、国の命令で労働力として動員されて数多くの人たちがいたのは事実ですね。
ただ朝鮮半島から徴用されたのは1944年半ば以降で、それ以前に、自分の意思で日本に働きに来ている朝鮮半島出身者も数多くいましたね。

いままで、軍艦島というと日本人の労働者と自由意志で日本に働きに来た朝鮮半島出身者が、その家族とともに生活していたというイメージを持っていたのですが、軍艦島にはこの記事のように日本政府の命令で日本に来て働いていた労働者も多かったと言うことですか?

A 回答 (5件)

回答順に表示を推奨。



長崎地裁が認めたのは、徴用工への被爆者認定 だと思いますが。

【韓国の元徴用工に被爆手帳 長崎地裁、市に交付命じる】
https://www.asahi.com/articles/ASM14772CM14TOLB0 …



A:>軍艦島にはこの記事のように日本政府の命令で日本に来て働いていた労働者も多かったと言うことですか?

回答A:他の回答者様も仰るように、日本人と同様に政府の命令で働いていた方もいました・

しかし、それ=酷い待遇をした ではないと思います。
むしろ、朝鮮にいるより生活は保障されていたと思います。


まず、この問題での「徴用工」とは以下の人達のことです。

「徴用」
「徴用」は国民の義務として日本人にも適用されており(というか、日本人の方が圧倒的に多い)合法なものです。期間後の帰国の便宜も図っています。
それに、国民徴用令は日本内地では昭和14年7月に実施されましたが、朝鮮で行われたのは1944年9月~1945年3月迄で、人数も多くはありません。


「官斡旋」
官斡旋は、朝鮮総督府が企業の要請で募集したものです。
官斡旋は辞めても罰則はなく、そのまま日本に残って別の仕事に就くこともできました。
そして、その場合でも日本国内で食料の配給を受けることができました。


以上のどちらも、現場での待遇は、日本人と比較しても悪いものではありませんでした。
その為に強制しなくても、集まりました。


【日韓併号 韓民族を救った「日帝36年」の真実】(祥伝社 崔基鎬)
《たとえば、忠清南道で実施された徴用の例でいうと、公州・扶余・論山・青陽・舒川などに、北海道札幌の三菱手稲鉱業所から、約1000名の鉱夫募集があった。ところが応募者数は約7000名にのぼったために、次のような採用考査が施行された。
(略)
こうして厳選された約1000名は、二組に分けられ、その中の一組は同年9月11日、論山出発、翌日12日元山港着、輸送船(5000トン級)で翌日の夕 刻函館港に着いた。採用者(徴用者)たちは歓喜に溢れ、船内では全員歌舞に耽って、元気旺盛そのものであり、手稲鉱業所への就業後も、休祭日は自由に札幌 市内に繰り出し、ショッピングはもとより銭函湾での船遊びまで楽しんだ。
多くの青年たちは、札幌の市内観光や大門通りの遊郭回りに憩いを求め、一部は淋病や梅毒に感染し、中には局部の切開手術を受ける者もあって、監督機関では性病対策に苦慮して衛生サックを配るなどした(休暇中の公傷は全額支給)。
このような徴用の光景は、1945年まで毎年見られた。
(略)
待遇は、一般の事務職よりも約三倍程度高額の給与が与えられ、月平均給与額は120円程度。作業はほとんど採鉱器を活用、削岩機・ドリル・トロッコが使われた。
重複勤務の希望者が多く、八時間制の三交替で一般的傾向として月間約10日、または15日が重複勤務の場合、割増金を合計すると、月間180円から220円の支給額となったから、事務職、または本籍地の労働者の、約四倍ないし五倍以上の厚遇であった。(略)
一般の独身者には、寮などが無料で提供され、世帯持ちにはとくに独立の平屋建てが一戸ずつ提供されたから、本籍地または現地の未婚女性たちの結婚相手としても人気があったのは当然であった。》


朝鮮半島からは、↑以外にも個人の出稼ぎが流入しており、強制連行どころか密航者の増加に悩んでいました。

【在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について】(1960年外務省発表集第10号より抜粋)
《1、第二次大戦中内地に渡来した朝鮮人、したがつてまた、現在日本に居住している朝鮮人の大部分は、日本政府が強制的に労働させるためにつれてきたものであるというような誤解や中傷が世間の一部に行われているが、右は事実に反する。
実情は次のとおりである。
 1939年末現在日本内地に居住していた朝鮮人の総数は約100万人であつたが、1945年終戦直前にはその数は約200万人に達していた。
 そして、この間に増加した約100万人のうち、約70万人は自から内地に職を求めてきた個別渡航と出生による自然増加によるのであり、残りの30万人の大部分は工鉱業、土木事業等による募集に応じて自由契約にもとづき内地に渡来したものであり、国民徴用令により導入されたいわゆる徴用労務者の数はごく少部分である。
 しかしてかれらに対しては、当時、所定の賃金等が支払われている。》
「軍艦島に強制連行された朝鮮半島出身の労働」の回答画像4
    • good
    • 0

>軍艦島に強制連行された朝鮮半島出身の労働者がいたのは事実ですか?



事実ではありません。
    • good
    • 0

単語の意味をよく考えながら調べましょう


大東亜戦争中、朝鮮半島は日本だったのです
国家同士の約束で併合が成されていた
従って朝鮮半島に住んでいる朝鮮系人民も日本国民でした
日本人なのです
ちゃんと選挙権もあった

徴用は、国の命令で行われる強制行為です
日本人であれば本州に住んでいようが半島に住んでいようが日本人
法律により、命令に従う義務があったのは当然です
単語の意味を調べて下さい
例えば「徴税」ならどうでしょう
質問者さんは税を払っていますか?
自主的に払っていますか?
法律により強制的に払わされていますよね
当り前です
日本国民なのですから

この
強制だとか徴用だとかの単語の意味は、日本政府も問題視しない
韓国政府は国連などのロビー活動の場で、この徴用工の事を強制労働だと言っています
慰安婦の事を性奴隷だと言っている
でも日本政府は否定しない
なぜしない
当然のことながら、薄汚れた理由があるのです
この質問はその理由について語る場ではありませんが
    • good
    • 3

徴用工の一番の問題は、ろくな食べ物も与えられずに重労働を課せられ、多くの人が飢えや病気で死んでいったという韓国の反日教育に基づいたものなのだ。


でも、この話は嘘だと言うことが、最近韓国から出てきている。
教科書に載っている徴用工のやせこけた写真というのは、日本人がロシアによる抑留の結果シベリアで強制労働を強いられてやせこけたのを撮った写真を日本での朝鮮人の徴用工だと言っている、と韓国人が言い出したのだ。
とにかく、韓国人というのは嘘をあたりまえのように真実という国民なので、反日教育については嘘と欺瞞に満ちあふれている。
    • good
    • 3

長崎市内の「長崎平和資料館」には、軍艦島で労働をした朝鮮人の思い出の手記が掲示されています。


手記では、日本軍が家に来て、連れていかれるときの様子を「それはあたかも強制連行のようだった」と記されています。
しかし、連行された本人は、強制連行ではなく「徴用」だったと知っていたケースもあるとも考えられます。

また、捕虜扱いを受けた中国人は、南部の堤防沿いに住まわされ、朝鮮人は、戦後隔離病棟が立つ位置に収容されたと表現もあります。
離された理由は、中国人と朝鮮人の結束を回避するため。
しかし、現在の45号棟付近、中国人がいた場所に隣接して立つ30号棟に収容された証言もあるので、不確かな情報とされています。

実際、1939年から朝鮮人労働者の集団移入が本格化し、最重労働の採鉱夫のほとんどが朝鮮人に置き換えられます。
1943年からは、中国人捕虜の強制労働が開始されました。
過酷な労働に耐えかねて「島抜け」をし、海を泳いで対岸の野母半島を目指しながら亡くなってしまった人々の慰霊碑も軍艦島が見える野母半島に残されています。

中国人労働者やその遺族らは、三菱重工などを相手に損害賠償を求めて訴訟を起こします。
長崎地裁は、2007年3月27日に賠償請求自体は請求権の期限(20年)が経過していると棄却したものの、強制連行・強制労働の不法行為の事実については認定しました。

しかし、実際に働いていた人々は良好な関係を築けており、歴史的事実はありません。
戦後里帰りを希望した朝鮮人は、基本的には帰れる状態でしたが、島に残った人も。
南部商店街の朝鮮人専用遊郭「吉田」は、戦後も営業していました。
そのため、歴史的事実は無いと言えます。

https://www.gunkanjima-excursion.com/mystery/wor …
    • good
    • 1

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!