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幕府の開国に反対した薩長土肥(尊王攘夷派)は、なぜクーデター後、開国したのですか?

A 回答 (3件)

古今東西の歴史によくあること。

野党勢力は野党でいる間は、政府の方針と180度反対の論調を主張する。ところが権力を握るやいなや、ころっと方針
転換してしまう。日本社会党も自民党と組んで連立政権に参画すると、しれっと自衛隊合憲、日米安保堅持なんて言い出したから。おいおい今まで何だったんだよ。
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薩摩は元々幕府よりの開国姿勢だったが、長土肥の田舎侍は、薩摩や幕閣と違って国際情勢を知らなかった。



幕府は、開国して富国強兵を目指さなければアヘン戦争で英国にやられた清国のようになるという正しい認識を持つ一派が幕閣におり、幕府内の攘夷派を説得して開国已む無しと云う方向に向かわせたり、幕府外の攘夷を叫ぶ無知で見識の無い連中を弾圧・討伐したりで、開国を進めた。薩摩もそれに協力している。

反幕攘夷の急先鋒だったのは、水戸藩の一部と長州藩だったが、水戸藩攘夷派は討伐され、長州も征伐された。

しかし、長州は征伐される前に実際に攘夷を実行し、欧米艦隊の反撃を受けて大敗してしまったことから、武力での攘夷は不可能と知り、藩士を海外視察させるなど、開国派へと変化していく。

一方、薩摩は、元々琉球貿易を通じて海外情勢に詳しかったこともあり、幕府ともども開国派として立ち回っており、万一の場合に備えて欧米列強と戦う準備までしていた。
だから、生麦事件の報復に鹿児島に襲来した英国艦隊にやられっぱなしではなく、英国艦隊にも大損害を与えることに成功した。

その薩摩も日米修好通商条約で、幕府が日本の「黄金」を大量流出させて経済を大混乱させる大失政を行ったことで、幕府を見限り、自分たち薩摩主導で日本を開国して富国強兵に導こうと決断した。
そして長州も開国に向かい、奇兵隊など軍備の欧風化を進めていることを知ると、薩長同盟に向かうことになる。

つまり薩摩は元々開国派で、長州も薩長同盟の前から開国派に転じていることになる。
だから経済失政で信望を失ってガタガタになっていた幕府を倒し、明治維新が成功すると、その方針通りに開国し、欧米列強に対抗するために富国強兵政策を推進していった。
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薩摩も長州も外国と一戦をしているのですよ。


薩摩はイギリスと薩英戦争(1863年)、長州は5か国相手に下関戦争(1863年、1864年)とです。
これによって海外の列強と戦争をするというのが無理と悟ったのです。

そしてむしろ倒幕のためにイギリスに接近し、イギリスの方もこれに応じていきます。この時に活躍したのがグラバーですね。

薩英戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1 …

下関戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8B%E9%96%A2 …
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