羽衣橋はなぜ作られたのか?羽衣橋はどうゆうふうに役にたっていたのか?そしてその羽衣橋がなぜどうゆう理由で取り外されてしまったのか?
とにかく羽衣橋について知っていることだったらなんでもいいです。
お願いします_(._.)_

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A 回答 (4件)

No.1のmartinbuhoです。



羽衣橋は僅か13年の短命で取り壊された木造橋だったようですね。
取り壊しの理由は、清水港の近代化だったようです。
添付URLを見て下さい。

参考URL:http://www2.wbs.ne.jp/~photaku/
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この回答へのお礼

参考になりなりました(^。^)
いろいろとありがとうございました!!

お礼日時:2001/09/02 19:23

simizukkoさんこんにちは



参考URLの記述によれば、「三保までの道の遠かった当時大歓迎されましたが・・・」という事なので、新しい道路かなにかができて、橋があまり必要ではなくなったからなんじゃないでしょうか?

参考URL:http://www.tamagawa-rou.co.jp/shimizu36.htm
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この回答へのお礼

参考になりました(^。^)
ありがとうございました!

お礼日時:2001/09/02 19:22

no.1の方の言うことをさらにフォローすると、城下町ならたいてい丸の内という地名があるし、宿場町なら伝馬町という地名もけっこうあるように、羽衣伝説、天女伝説の残る地なら羽衣橋という地名があっても不思議じゃないので、質問者のいう場所が特定できないということです。

まあ、ハンドルから察するに静岡県清水市のことかとは思いますが、日本橋でも、大阪と東京じゃまったく性格違いますし、もう一度はっきりさせてはいかがでしょうか。

この回答への補足

すいません;場所は静岡県清水市の巴川河口付近にあった橋です。
お願いますm(__)m

補足日時:2001/08/27 12:26
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どの羽衣橋のことか誰にも分からないのでご自分で検索したらどうですか・・

この回答への補足

すいません;場所は静岡県清水市の巴川河口付近にあった橋です。
お願いますm(__)m検索しても有力な情報が得られないんですよ。
やっぱり本で調べたほうがいいのでしょうか・・・・・

補足日時:2001/08/27 12:30
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Q羽衣橋の歴史と取り外された理由

 羽衣橋はなぜ作られたのか?羽衣橋はどうゆうふうに役にたっていたのか?そしてその羽衣橋がなぜどうゆう理由で取り外されてしまったのか?
とにかく羽衣橋について知っていることだったらなんでもいいです。
お願いします_(._.)_

Aベストアンサー

No.1のmartinbuhoです。

羽衣橋は僅か13年の短命で取り壊された木造橋だったようですね。
取り壊しの理由は、清水港の近代化だったようです。
添付URLを見て下さい。

参考URL:http://www2.wbs.ne.jp/~photaku/

Q「橋塁」は「橋」を通れなくするためのバリケード?

三国志を読んでいます。「橋塁」という語がでてきたのですが、ネット辞書にありません。検索にもひっかかりません。「橋」でできたバリケードのような構造物なのか、「橋」を通せんぼするためのバリケードなのか、他の意味なのか、ご解説お願いします。

Aベストアンサー

塁は土盛りのことで土塁や防塁だと検索出来ます。

三国志の時代はキリストからまもなく程度に古いことだが、日本でも戦国時代から江戸時代初期には水城に塁があったようです(敵の船の接近防ぐ?)
その後廃り、幕末に復活

前後見てみないと質問の橋塁の意味は取りにくいが、やぐら組んで阻んだもののことかもしれません(言葉からの印象です)

Q羽衣伝説について。

民話にある「天女の羽衣」は発生した地域もそのオチにも様々なものがありますが、ご存知の話をなるべく詳しく聞かせて頂けませんか。
とくに最後は殆どが羽衣を取り戻した天女が天に帰っていくものだと思いますが、その時羽衣は天女によって奪取されたものでしたか?盗人によって返されたものでしたか?また、天に帰っていくときの天女の反応は?怒っていたとか、せいせいしたとか、心残りがあった、とか。
どうかよろしくお願いいたします。

Aベストアンサー

日本各地の羽衣伝説の話の筋を簡単に表でまとめたページがありました
ので、参考URLに載せます。

私が思っていたのは、(複数の話が混ざっていると思いますが)

1.漁師が浜辺で羽衣を手にいれる。
2.漁師は天女に自分と結婚して10年一緒に住んでくれたら羽衣を
  返すと約束する。
3.夫婦は仲良く暮らして子供も生まれる。
4.10年目に羽衣を返すように天女が漁師に迫るが、漁師は
  まさか、子供もいるのにそのようなことを要求されるとは
  思わず、羽衣は返さない。
5.ふとしたきかっけで羽衣を見つけた天女は子供と漁師に
  「未練はあるが自分は帰らないといけないのだ」というような
  ニュアンスの言葉を残して天に帰っていく。

のようなものでした。

「羽衣は見つけたけれど、やさしい漁師と子供のために天に帰る
のをやめた」
という話をハッピーエンド好きの私なら期待しますし、西洋の話
ならそうなりそうです。

なぜ、子供を残してまで天に帰らないといけないのか・・・
例えば、かぐや姫もおじいさん、おばあさんに別れを告げ羽衣を来て
地上の記憶を消して、月に帰ります。

「竹取物語」の解説には地上界(俗界)の考え方でしかかぐや姫と
接することができない貴族、天皇、おじいさん・おばあさんと、
天上界(人間が変化させられない真理の世界)の人間であり、すべてを
理解しているかぐや姫との考え方の差が記述してありました。

月に帰るのは自分の意思ではないが、「そう決まっているものは
人間の力では変えることができない」とかぐやは思っており、素直に
地上界の記憶を捨てて、迎えの車に乗ります。

羽衣の天女も一緒で、天に帰って行ったということは、親子とか夫婦の
絆よりも強いものが自然の決まりにはあり、それには人間が手を加える
ことができない、ということを言いたかったのでしょうか?
(この場合、「天女は天上界にある」という決まりに素直に従った)

取り間違えると無気力・放任・なげやり主義にも聞こえますが、
人間の力でどうにかしよう!という西洋風の考え方とはちょっと
違う、東洋的な自然界への畏怖・畏敬の念や人間の力のはかなさを
表す一つかなって思っています。

(すみません、素人の思いつきです。)

参考URL:http://www.town.mineyama.kyoto.jp/Hagoromo/h_050102.htm

日本各地の羽衣伝説の話の筋を簡単に表でまとめたページがありました
ので、参考URLに載せます。

私が思っていたのは、(複数の話が混ざっていると思いますが)

1.漁師が浜辺で羽衣を手にいれる。
2.漁師は天女に自分と結婚して10年一緒に住んでくれたら羽衣を
  返すと約束する。
3.夫婦は仲良く暮らして子供も生まれる。
4.10年目に羽衣を返すように天女が漁師に迫るが、漁師は
  まさか、子供もいるのにそのようなことを要求されるとは
  思わず、羽衣は返さない。
5.ふ...続きを読む

Q前9年の役、後3年の役

前9年の役
安部頼時×源頼義
が戦った。
源頼義は負けそうになるが、清原武則に助けを求めて安部に勝つ

助けを求めたのは、頼義の子供義家ですか?

そして、源頼義は退却?させられ、清原武則が奥州を支配する。

後3年の役
清原家の内紛
清衡と家衡が戦った
このとき、清衡は源義家に助けを求めて勝った。

前9年の役を後3年の役をまとめて
自分でこう解釈したのですが、間違えがあれば、指摘して教えてください。
お願いします。

Aベストアンサー

「解釈」の前に資料に記載された事実をきちんと踏まえないと意味がないです。

●源頼義は負けそうになるが
○黄海の戦いでは源頼義が負けていますし、陸奥守も解任されていますから緒戦では負けています。

●助けを求めたのは、頼義の子供義家ですか?
○助けを求めたは頼義です。

●源頼義は退却?させられ
○退却させられたわけではなく、陸奥守に再任されなかっただけです。

●清衡と家衡が戦った
○最終的にそうですが、初戦では清原真衡の義家が清衡と家衡に分割させたことにより清衡と家衡の対立となっていきました。

間違いも少なくはありませんが、概要としてはウィキペディアなどの記述を参考にされた方がよいかと思われます。


前九年の役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B9%9D%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9
後三年の役
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E4%B8%89%E5%B9%B4%E3%81%AE%E5%BD%B9

Q羽衣ってなに?

辞書では、『天女が着て、空中を自由に飛行するといわれる衣』とあるのですがピンときません。
「羽衣」と画像検索すると、天女の画像が出て、マフラーみたいに長くてヒラヒラさせていますが、アレですか?
それとも、着用している全てが、羽衣ですか?

Aベストアンサー

その通りです。衣装一式を羽衣と言うのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E8%A1%A3%E4%BC%9D%E8%AA%AC

Q任那日本府は、現在は学校教育ではどういうふうに教えられていますか?

4~6世紀の頃の南朝鮮にあった馬韓、辰韓、弁韓の三韓のうち、韓国では
伽[イ耶]と言われる弁韓には、任那日本府があったという事になっています。

私の子供の頃には、学校で朝鮮半島の南側に大和朝廷が任那日本府と言う、
植民地を創った習いました。

これについては、いろいろな学説が議論され、韓国では日本府は九州に有っ
たと言う学説もあるようです。これについては、ともすれば、話が政治的に
なってきますが、そのことは抜きにして、今の学校教育では、任那日本府は
どういうふうに教えているか、先ずはそれだけ、回答願えないでしょうか。

Aベストアンサー

現在の教科書で任那日本府を前面に出して説明しているものはないようです。加羅や伽耶諸国という説明でふれています。

せっかく手元に教科書があるので少し引用すると、

・「~はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)*と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も~」(山川出版社p22)
 *脚注として、統一国家ではなかったこと、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

・「大和政権は、そのころにも小国分立の状態が続いていた弁韓の地に勢力をのばし、これを任那*と称した。」(実教出版p43)
*脚注として、「加羅・伽耶」の表現の存在に言及。

・「弁韓はいぜん伽耶(加羅)*とよばれる小国連合体がつづいていた~伽耶や百済を足がかりにして、鉄などの資源や農業・土木・建築、各種の手工業の技術を手に入れようとするヤマト政権(倭)にとって~」(三省堂p19)
*脚注として、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

 実教の場合、この前の文脈として高句麗好太王碑文に見られる大和政権の半島進出が述べられているので、そのことも考慮すべきでしょうが、支配・植民地的な書き方はしていませんね。現在の研究段階でも交流レベルで指摘されているようですし。なかなかすっきりとしない難しい問題ですね。

現在の教科書で任那日本府を前面に出して説明しているものはないようです。加羅や伽耶諸国という説明でふれています。

せっかく手元に教科書があるので少し引用すると、

・「~はやくからかつての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)*と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)も~」(山川出版社p22)
 *脚注として、統一国家ではなかったこと、『日本書紀』の「任那」の表現に言及。

・「大和政権は、そのころにも小国分立の状態が続いていた弁韓の地に勢力をのばし、これを任那*と称した。」(実教...続きを読む

Q生後4ヶ月の羽衣インコ。種類(?)分かりますか?

生後4ヶ月の羽衣インコ。
種類(?)分かりますか?

Aベストアンサー

羽衣インコって言うからには、やっぱり羽衣インコなんではないでしょうか?
ハゴロモセキセイでカラーはクリームですかね?

Q柳条溝事件と蘆溝橋事件

日中関係史において、いずれも重要な事件である、柳条湖事件(1931年9月18日。九一八事変)と盧溝橋事件(1937年7月7日。七七事変)ですが、確か、30年前くらいは、それぞれ、柳条溝事件と蘆溝橋事件と呼ばれていたように記憶しています。これに関連して、以下の点をお教え下さい。

1)いつごろ、呼び方が、柳条溝事件と蘆溝橋事件から、柳条湖事件と盧溝橋事件に変わったのでしょうか? いずれも1980年代という理解で、正しいでしょうか?
2)この現象は、中国(大陸および台湾)でも、同じなのでしょうか? もちろん、上記の通り、この事件の呼び方自体が中国では異なりますので、「事件名」ではなく、「地名」についてお教え下さい。それとも、日本だけで起きたことなのでしょうか?
3)上記第2点とも関係しますが、このような間違いは、なぜ生じたのでしょうか?
4)このような間違いが、事件発生後、かなりの長期間(半世紀?)放置されていたのは、なぜですか? 重要な事件だけに、その理由がなかなか想像できません。
5)このような事態については、どこかできちんと整理されているのでしょうか(経緯・顛末など)? まとめた文献(Web上または書籍)があれば、お教え下さい。

特に興味があるのは、第4点です。以上、よろしくお願いします。

日中関係史において、いずれも重要な事件である、柳条湖事件(1931年9月18日。九一八事変)と盧溝橋事件(1937年7月7日。七七事変)ですが、確か、30年前くらいは、それぞれ、柳条溝事件と蘆溝橋事件と呼ばれていたように記憶しています。これに関連して、以下の点をお教え下さい。

1)いつごろ、呼び方が、柳条溝事件と蘆溝橋事件から、柳条湖事件と盧溝橋事件に変わったのでしょうか? いずれも1980年代という理解で、正しいでしょうか?
2)この現象は、中国(大陸および台湾)でも、同じなのでしょうか...続きを読む

Aベストアンサー

1) 1980年の中国の歴史学会で、より適切な名称に変更す可きとの提案がされ承認されたようです。
3) 盧溝橋は日本の新聞記者の単純な勘違いでしょう。  柳条湖は地名としてはこちらが正しいようです。
4) こういう不適切は、意外に長く気が付かないものです。   探せばほかにも見つかると思います。   思い込みですね。
歴史認識の問題から中国でとりあげられ、分かったのではないでしょうか。

Q羽衣伝説について

初めまして。
羽衣伝説が日本全国色々な所にあるらしいのですが、
何処にどのように伝えられているのか詳しく知りたいと
思い質問させていただきました。
詳しく調べられるURL等教えていただけないでしょうか。
宜しくお願いします。

Aベストアンサー

羽衣伝説はたくさんありますね。
とてもとても書ききれません・・・・・。
下記URLの他にもたくさん有ります。
羽衣伝説で検索してみてください。

http://www.town.mineyama.kyoto.jp/Hagoromo/h_050102.htm

http://www.town.mineyama.kyoto.jp/Hagoromo/h_050103.htm

Q蘆溝橋事件について質問です。

蘆溝橋事件について質問です。


昭和12(1937)年7月7日午後10時40分、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊が、中国の北平市(現、北京市)郊外にある蘆溝橋の北側の永定河左岸荒無地で夜間演習を実施した後、休憩中に突如、河畔堤防の龍王廟付近より数発の実弾射撃を受けました。いわゆる蘆溝橋事件(中国名、七七事変)の始まりです。この事件が拡大して泥沼の支那事変(日中戦争)となりました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6


この蘆溝橋事件の始まりについて、以前、次のような記事を読みました。

「・・夜間演習をしていて10時半頃に休めの命令が出た。我々は、やれやれと言いつつ一服していたら、わが中隊の陣地で誰かがカタカタと空砲を撃つ音が聞こえた。休憩時間なのだがと訝っていると、一度ならず数度、空砲が聞こえた。すると、それが合図であったかのように龍王廟付近より数発の実弾射撃を受けたので驚いた・・」

という記事なのですが、休憩時間中に日本軍の誰かが空砲を撃ったというのは本当なのでしょうか。そういう事実はありますか。

蘆溝橋事件について質問です。


昭和12(1937)年7月7日午後10時40分、日本軍の支那駐屯歩兵第一連隊第三大隊第八中隊が、中国の北平市(現、北京市)郊外にある蘆溝橋の北側の永定河左岸荒無地で夜間演習を実施した後、休憩中に突如、河畔堤防の龍王廟付近より数発の実弾射撃を受けました。いわゆる蘆溝橋事件(中国名、七七事変)の始まりです。この事件が拡大して泥沼の支那事変(日中戦争)となりました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%A7%E6%BA%9D%E6%A9%8B%E4%BA%8B%E4%BB%B6


この蘆溝橋事件の始...続きを読む

Aベストアンサー

 質問文にあるとおり、当日は夜間演習(日本軍が敵同士に分かれる)をおこなっていました。その演習課目は「薄暮より敵主陣地に対する接敵及び黎明攻撃」であって、「敵主陣地」の敵兵役は当然日本兵が務めていました。

 演習が一段落して休憩にはいったとき、第八中隊長が演習中止の伝令を各小隊長及び「敵主陣地」指揮官へ送ったさいに、「敵主陣地」側は、その伝令を演習の敵軍と見まちがえ空砲を発射したのです。演習ですから実弾ではなく空砲というわけです。

 ちょうどそのころ龍王廟付近の堤防上では中国軍が工事をしており、彼らはその空砲音を実弾射撃と勘違いして日本軍に対し発砲した、という経緯のようです。

 ただし、中国軍の発砲は第八中隊の一兵士が道に迷って中国軍陣地に近づいたため、という説もあります。


資料:岩波ブックレット シリーズ昭和史No.3『盧溝橋事件』江口圭一

 
 


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