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飛鳥時代、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗北した百済と日本の連合組。平安時代、唐からの帰朝の船中で天台宗の僧、円珍の前に影現されたという新羅明神。鎌倉時代に新羅三郎の元服の際、守護神になっています。

質問者からの補足コメント

  • ↑矛盾を感じるのです。

      補足日時:2021/07/22 23:51
gooドクター

A 回答 (4件)

いつまでも終わらないですね。



https://oshiete.goo.ne.jp/qa/12474047.html
> 新羅明神は新羅の土地神様なので、本来新羅にいなくてはならず、日本の神として新羅を敵に回すのは変だと思います。

「土地神様」とはどのような意味で使っているのでしょうか。
「その場所の神」という意味でしょうか。 土地やその地域を守るとか、そこの支配者という意味でしょうか。
三井寺北院の新羅明神は、そういう意味での神ではないです。
また、朝鮮半島の新羅で祀られていた神を招来/勧請/分社して祀ったものでもないです。

純日本製の神です。

「新羅の神々と古代日本-新羅神社の語る世界-」という本があります。
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E7%BE%85%E3%8 …
図書館にもあるかもしれません。日本の「新羅」「白木」などと名がつく神社をこつこつ調べた本で、面白いです。 筆者は、これらの神社も、素戔嗚や神武も新羅と説明しています。 これは、人物の出自、伝説を探れば朝鮮半島に起源があるということをいろいろの根拠から言っているのに過ぎません。
列島にも新石器時代から人は住んでいたし、旧石器時代にも人は住んでいたのですが、継続的に朝鮮半島から新しい文化と技術を持った人々がきて列島に新しく勢力を広げていったのですから、当たり前の話を書いているのに過ぎません。
問題は「神様」「明神様」のような"個人というのか人間のような形にイメージした崇拝の対象"を祀り始めたのはどこであるのかということです。

八幡は8世紀、明神は10世紀にはじめて名が出てくる神様です。
7世紀まではそのような祀りの対象はないです。(仏像は別です)
延喜式に神社が出てきますが、基本10世紀の状況であって、古いことは分かりません。
新羅からの移民や新天地を列島に求めてきた人々、倭が半島から連れてきた人々は沢山いたでしょう。その歴史は長く古いですが、彼らが8世紀以前に半島にいたときから"個人というのか人間のような形にイメージした神"を祀っていたというような情報はないと思います。
人間の出自、出身地、系統を半島起源に求めるのは論理的ですが、神や明神までも彼らが半島のときから持ってきたというのは、間違った思い込みです。
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No.2です。

 ちょっと 荒唐無稽な説をそのまま紹介して終えたので、それが気になって、補足というか、修正します。
  ~~~ 荒唐無稽と思える説 ~~~
新羅の神を祀ることで新羅の外患を調伏することを期したからであると考えられる。 その意味では、 新羅明神は、 円仁派の赤山明神に対抗する神などではなかった。 新羅明神は、 新羅の山神に起源を持ちながら、 自らの故郷である新羅の神々に対抗するという矛盾した役割を負わされた神である。 それは、 外来の神を日本の護国の神として仏教的に習合していく平安仏教の国風化の中で、 新たに生み出された神であったとも言えるだろう。

 ~~~~ 荒唐無稽と考える当然の理由 ~~~~
密教では系譜のようなことを結構大事にします。
善無畏からの系譜には、本当か嘘かはともかく、新羅と明確にしている阿闍梨が多くなっています。
胎蔵界の付法を受けた玄超・義林・不可思議。
空海と同じく恵果の付法を受けた恵日・悟真。
不空から金剛界の付法を受けた均諒という六名の新羅僧がいるそうです。
特に義林と玄超は直接的な相承系譜上に位置しているのです。
この認識を重視し大切にしている天台密教で、「対抗心」が起源で「新羅明神」とつけるなどあり得ないでしょう。 自分をこの地に導いてくれた老人を畏敬するような気持ちが、新羅明神というような名前をつけさせたと想像する方が、合理的です。
どちらにしても、新羅明神(しんらみょうじん)は、この地に新たに祀られた神であって、大陸や半島から列島に招致した神ではないです。
「天台宗と一緒に唐から神羅明神が入って来た」の回答画像3
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白村江の戦い 7世紀後半


円珍     9世紀
100年も時代が変われば、
何が矛盾に感じる原因なのでしょう。

鎌倉時代に新羅三郎の元服の際
源義光=新羅三郎は、鎌倉時代になる前に死んでいます。

清和源氏は宇佐八幡を氏神にして戦勝祈願しました。
源頼義は新羅明神の氏子に義光をさせて元服させ、新羅三郎と改名させて、陸奥の戦いに参加し、恩賞で甲斐を獲得しています。
宇佐八幡でも、石清水八幡でも、山王明神や新羅明神でも、戦勝祈願のための氏神です。祖先神とか昔から崇拝していたというのではないです。

> 天台宗と一緒に唐から神羅明神が入って来た

「唐から神羅明神が入って来た」or「唐から新羅明神が入って来た」ということはないでしょう。

新羅明神は、日本製で円珍のいたころに創られた弥勒信仰的な神で、中国製でも、半島製でもないようです。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~
https://ameblo.jp/zentayaima/entry-12443015048.h …
出典 「平安仏教における新羅明神―園城寺の由来伝承と新羅の彌勒信仰―」袴田光康  科学研究費基盤研究(C) 
http://210.101.116.28/W_files/kiss9/59800253_pv. …
新羅との関係が悪化した10世紀における神功皇后神話の再生とも深く関係するものであろう。
神功皇后神話は、 流離する母子神の信仰を基盤とするが、 韓半島の仏教の影響を強く受けた八幡信仰は、 9世紀から10世紀にかけて神功皇后神話と結びつくことで、 急激に護国神的武闘性を強めていった。
これと同様の現象は、 「彌勒之化身」を語り継いできた園城寺の伝承についても起こり得たであろう。
園城寺の伝承は、 円珍を由来譚に取り込む中で、 彌勒の護法神を円珍の護法神へと変換し、 更に円珍と護法神の関係を神功皇后と塩土老翁に重ねることで、 新羅明神を護法神から護国神へと据え直していったのである。
新羅明神という異国の神の名も、 新羅の神を祀ることで新羅の外患を調伏することを期したからであると考えられる。 その意味では、 新羅明神は、 円仁派の赤山明神に対抗する神などではなかった。 新羅明神は、 新羅の山神に起源を持ちながら、 自らの故郷である新羅の神々に対抗するという矛盾した役割を負わされた神である。 それは、 外来の神を日本の護国の神として仏教的に習合していく平安仏教の国風化の中で、 新たに生み出された神であったとも言えるだろう。
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なるほど、そうでしたか。

勉強になりました。
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