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平安貴族の起源は豪族だと聞きましたが、武士の起源と豪族には関係が無いのでしょうか?
豪族ってそもそも農業に従事する財産と兵力を所有した有力農民である筈なので、それは武士の特徴と近い気がします。
武士は非有力農民が武装化しただけに過ぎない者で、豪族とは関係無かったのでしょうか?
武士や豪族について詳しい方、教えて欲しいですm(_ _)m

gooドクター

A 回答 (6件)

「武士の起源は農民」ってのは半世紀以上前に学史上の旧説になってるよ。


そんなもの今時、教科書にしか書いてないカビだらけの古典。人前でそんなこと口走ったら指差されて笑われる。
草創期の武士は、地方豪族と中央の武装した下級貴族。
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平安貴族、平安武士、



武士の起源に関しては諸説があり、決定的な学説があるわけではない。
① 古典的な、開発領主に求める説(在地領主論)
⇒ 武士の起源は私営田の在地開発領主であり、抵抗する配下の農奴と介入する受領とに対抗するために「武装した大農園主」
② 近年提起された、職能に由来するという説(職能論)
⇒ 実力による制裁権を行使できる者を公卿クラスを含めて「武士」と言った。院政下で活躍した北面武士などもその名簿を参照すると、侍身分以外の僧侶・神官などが多数が武士に含まれていることでも分かる。
各地の所領経営者者の雇われて、紛争時の武力行使者になった中央の出世コースからはずれ、諸大夫層からも転落した元武者
租税収取形態または租税収取を請け負った負名(ふみょう)が荘園経営租税徴収武力行使者になる。
律令体制から逃亡し山賊盗賊団をなして、やがて、地方武力集団として安定的基盤を作る

豪族、貧民、貴族、武者・武士、農民、開拓者、移民、盗賊、王権中央でも、出自をたどったら、どれも区別がハッキリあるわけではないでしょう。

5代、6代も前だと、居住地でさえもサッパリ不明、何を主な生業にしていたのかなど分からないのが、古代では当然で、中世でも人口の数割は事情が似ていると思います。

平安末ころの、平氏や源氏、多くの武士の数代前に遡る家系図、系統図は作り物と考える方がイイと思います。
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2世紀ぐらいになると、日本でも稲作が盛んになります。

計画的な農業ができる稲作が始まると、農作業する人数より、収穫した作物によって養われる人口が増え、兵士や鍛冶屋などの農業以外の仕事をする人達が現れます。

そして彼らを、特に兵士を統率する支配者が現れ彼らが日本では「豪族」と呼ばれたのです。

豪族が各地に現れたのは、当時の開墾能力が低く、川の近くの条件の良い場所が日本各地に点々とあったからで、各豪族がお互いの領域を広げると戦争が増えるようになりました。卑弥呼の時代に大戦争があったのは、条件の良い場所が段々少なくなったからです。

さらに時代が下ると、これらの地域を一つに纏めようとする指導者が現れます。天皇の出現です。

日本書記などの記録を見る限り、天皇は戦争ばかりしていたわけではなく、わりと平和的に豪族たちを束ね王権を確立したようで、これによってできたのがヤマト王権とよばれるものです。

このとき、天皇を頂点にする指導体制ができたわけですが、当初は豪族たちの緩い連合国家で、豪族の首長は「ヤマト王権に参加し意見する参加者」だったといえます。いまでいえばEUに参加する各国の首長のようなものです。

ところが、大陸に唐という巨大な国家ができ、周辺国を支配するようになると日本も「やべーー攻めてくるんじゃないか」とおもうようになります。
 
となると、各豪族の安全保障を各豪族の責任で行う「緩い連合国家」のままではダメで唐と同じように「統一国家を作らないと対抗できない」ということになりました。

その結果できたのが「大和朝廷」で、天皇を中心とし各豪族が貴族になる「統一国家日本」になったわけです。

だからこの時点までは、豪族たちのやっていたことは後の武士とほとんど同じです。

さて「統一国家日本」が出来たのはいつかというと、7世紀の辺りで、その後大化の改新で天皇中心の指導体制が確立されたと言われています。

さて、豪族が貴族になり、日本が統一国家になると貴族になった豪族たちは都に集まって住むようになります。さらに律令制によって公地公民になると各地域は朝廷が派遣する警察に任せることになります。

これにより、豪族たちは「自分達の土地を自分達で治めることをやめ」荘園を各地に持つ貴族になっていったのです。

そして、公地公民制が崩れ、貴族たちが自分の土地の荘園を守る必要がでてくると武士が起きます。

>武士は非有力農民が武装化しただけに過ぎない者で、豪族とは関係無かったのでしょうか?

武士は天皇家が臣籍降下した源平藤橘を出自に持つとされていますが、それは「そういわないと、朝廷に対抗して自分達の権利を主張できなかったから」でもあります。

多分に豪族だった時代の親類が、貴族たちの荘園をまもっていたでしょうから「初期の王権から朝廷に参加している名門貴族(名門豪族)」と源平藤橘の名をもつ人達が結婚して、各地に武士が起きたのだと思います。

そうでないと建武の親政のときに、西国武士が後醍醐天皇側に参加して、東国武士が幕府に味方した理由が分からなくなります。

西国武士は豪族時代から天皇や大和朝廷にお世話になっていて、天皇の力が強くなれば自分達の力も強くなる、ということは貴族と武家はほぼ同一だと考えるほうがよく、東国の武家は特に天皇とは関係ないから自分達の棟梁である鎌倉幕府に味方したわけです。
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大和朝廷時代の古代封建領主が平安貴族の源流だ。

武士と云うよりは「小国の主」と云ったほうが良いだろう。

律令体制への移行が本格化したのが壬申の乱で勝利した天武・持統時代で、奈良時代には律令体制が完成している。律令体制とは豪族合議制の封建国家ではなく、事務官僚が政治を動かす中央集権国家だ。
律令体制では、古代封建豪族は官僚化している。その律令体制下朝廷の高級官僚が貴族だ。

具体的には「天皇が日常を暮らす清涼殿の殿上間に上がることを許された者」のことで、原則として位が三位以上の者だ。四位か五位でも昇殿を許された者も該当する。
今でいえば、中央官庁の局長以上と重要部門の課長職のキャリア官僚に相当する。

武士は日本の特徴的存在だが、その発端は、桓武天皇が原則的に国軍を廃止したことにある。
理由は不明だが、蝦夷征伐に成功したこと、農民の兵役や平安京建設の負担が大きかったこと、そしてこれが意外に大きかったのかもしれないが、桓武天皇は怨霊にうなされており、血を見る所業を極度に恐れていたこと、が考えられている。

いずれにしても、一国の主が国家防衛・内乱抑止の原点である軍事力を放棄してしまったのだ。
ゆえに領主は自衛せざるを得なくなる。領地防衛だけでなく、物品の輸送にも護衛隊を付けなくてはならないのだ。国が面倒を見ないのなら自分たちで守らなくてはならない。それが武士の原点だ。在地武士集団だけでなく、元は山賊・海賊の類かもしれないが、傭兵武士集団も組織化されていっただろう。

そしてその棟梁として、地方に下った源平などの天皇家から臣籍降下した貴種氏族が仰がれることになる。田舎も中央と交渉するのに権威が重要だからだ。
そして有力な軍事力を持った源平が平安貴族たちの側近に成り上がり、やがて平安貴族に代わって政権を担うようになった。
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戦いが終わった江戸時代に武士の起源図(系図)を幕府や大名に提出する際に、源氏や平氏が起源であると詐称する武士がおりましたから系図は信用できませんが。

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「武士」の起源は農民で、大きな領地を持つ「農民である豪族」が小さな農民を従え、各地に武士団ができ、その武士団を更にまとめた大武士団の「棟梁」が源氏や平氏などの皇族や貴族の血筋を持つ人です。

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