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と聞きますが、どこで使うつもりだったんでしょうか?

質問者からの補足コメント

  • 早く開発が出来ていたら、当然使っていたんですよね?

      補足日時:2021/08/10 12:43
  • 「アメリカは悪」とか言う人もいますが、たいして変わらないという事ですかね。

      補足日時:2021/08/10 12:44

A 回答 (6件)

当然アメリカに対して使うつもりでした

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使っているかどうかは不明。


原爆が使われたのは歴史上日本だけですからそうポンポン使いませんよ。
脅しのために保持するのが主流かと思いますが。
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戦争なんてどっちも悪です。



京都帝国大学(今の京都大学)で研究していました。
だから広島投下ですぐに新型爆弾、原子爆弾と分かり、そのように報道が出たと言われています。

どこで使うかは軍と政府が決めるので研究者はそれには関心をもっていなかったでしょう。

科学者はひたすら科学的探究心でどこまでも「可能性」を追究してしまうものです。
どう使うかというのは、科学研究=学問とは関係ない、という立場です。

そこが科学研究の難しいところです。
実際、アメリカで原子爆弾開発をしたオッペンハイマーは原爆投下の被害の大きさに衝撃を受け、「科学者もその使途について考えるべきだ」と考えるようになったと言われています。

今、遺伝子操作の研究を各国で競っていますが、研究者の中でも「人倫についての討議を先にすべきだ」という声がでています。
原爆の教訓が科学者の考え方に影響を与えているのだと思います。
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具体的には陸軍と海軍、二つで開発がすすめられました。


陸軍の開発は当初爆弾ではなくアメリカから石油が入ってこなくなったので、そのかわりのエネルギー源として原子力を使うためのウラン235を得る研究です。その後戦況の悪化に伴い、研究費を出していた陸軍から爆弾開発の指令が出たと責任者仁科の記録でわかっています。
遅れて始まった海軍の開発は当初から爆弾としての利用を考えていたそうです。

>早く開発が出来ていたら、当然使っていたんですよね?
いいえ、実は陸軍海軍どちらの開発研究に携わっていた研究者も、開発は不可能というのが本音だったそうです。理由は理論レベルでは可能でも実際に使う遠心分離機などが未完成のままでしたし、なによりも原爆の原料、ウラン鉱石が海外からまったく手に入らない状態だったそうで、物理的にとても開発ができるような状態ではなかったそうです。
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> どこで使うつもりだったんでしょうか?



戦略,戦術に組み込めるレベルの開発状況ではなかったので、具体的に「どこで使うつもり」と言うのは、まず無いよ。


> 早く開発が出来ていたら、当然使っていたんですよね?

もし開発されてたら、それとほぼ同時に、躊躇なく使用に踏み切った可能性は、少なからずあるとは思う。

ただ時期的には、アメリカより大きく先行して開発などと言うのも考えにくいし、物量的にも、試作的に1~2発の原爆が作れたら御の字と言うところなので、かなり終戦に近い時期に、戦略的,戦術的な効果も乏しい中での使用になったのではないかな?


> 「アメリカは悪」とか言う人もいますが、たいして変わらないという事ですかね。

これは割と簡単な話で、「勝った方が正義」で良いと思うけど。

日本が原爆の開発に成功していたとしても、日本が最終的に、WWⅡの勝者になれた可能性は、極めて低いと思うなぁ。

むしろ、日本が原爆を投入してたら、当然、アメリカも日本に対し、原爆を使用するだろうから、WWⅡが長引き、特に日本の原爆被害が拡大していたと思う。
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GHQの押収を免れた日本の原子爆弾開発の資料が2015年に発見されました。

 ウラン濃縮の遠心分離装置開発に関する資料で、京大放射性同位元素総合センターに保管されていたものです。太平洋戦争中に旧日本海軍から原子爆弾の開発を依頼されていた京都帝国大(現、京都大学)の荒勝文策教授の研究室で行われていた開発を記録したもので、研究ノート3冊と関連資料が見つかっています。

終戦後、連合国軍総司令部(GHQ)により京都帝国大の原子爆弾の開発資料はその一切を押収され、アメリカで機密指定を受けていたためにその詳細はほとんどが不明なままでした。しかし、押収されないまま残っていたものが発見されたことで、当時の日本の科学技術史を検証する上で貴重な発見になりました。

発見された研究ノートには、戦時中に荒勝文策教授の研究室に講師として所属していた清水栄・京大名誉教授の署名があり、戦争末期の1944年10月から11月頃に書かれたものとみられます。なお、時期が曖昧なのは日付が皇紀で記されていたためです。

ノートには原子爆弾の開発に必要な「ウラン濃縮」を行うために必要な遠心分離装置に関する数値や資料が記されており、海外の関連論文が写真撮影して貼り付けられていたりするそうです。また、ノートには実際に遠心分離装置を製作するために必要な資材を書き記したページもあり、資材リストには「超々ジュラルミン」など、必要な材料名とその直径や長さなどが細かく記されています。

GHQの押収を免れていた原子爆弾開発資料が見つかってから約1カ月後、遠心分離機の設計図面が別の場所からも発見されています。

発見されたのは荒勝文策教授の研究室で独自設計されたと思われる遠心分離機の設計図面と、設計を委託されていた東京計器製作所(現、東京計器)による図面の2点。核物理学の歴史を調べている政池明京大名誉教授が、清水栄教授の遺品の中から発見したそうです。

荒勝文策教授の研究室が設計した図面は昭和20年(1945年)3月に作成されたもので、「空気タービン式超遠心分離装置」と記されています。また、東京計器の図面には「完成 昭和20年8月19日」と記載されており、日本に原子爆弾が投下された8月6日・8月9日からわずか数日後の完成が見込まれていたようです。ただし、実際には同社が製造していた遠心分離機は空襲時に失われてしまったといわれています。

なお、旧日本海軍が委託した原子爆弾開発は「fission(核分裂)」の頭文字を取って「F研究」と呼ばれており、大戦末期の昭和18年に始まったとされています。

もし、日本が原子爆弾の開発に成功していたならば、当然米英支蘇などの敵国相手に使用されていたはずです。 ただし、米国本土まで原爆を確実に運ぶ手段がなかったこともあり、米艦隊や、米軍が占領した島などに対して使用されたでしょう。 無垢の一般人が多く住む都市の頭上で原爆を爆発させた「悪のアメリカ」とは完全に使用目的が異なったはずです。
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